10-1. 妻の復讐はただ苛烈に(1)
公爵家の執事代行、ヨルク・マイヤー。彼にはかつて愛した妻がいたが、気に入らないことがあると彼女に暴力をふるってしまう。見かねた公爵が間に入り、彼女をリーゼロッテの侍女にしてマイヤーから逃がした。だがマイヤーはそれを、公爵が妻を騙して寝取った結果と勘違い。恨んでひそかに復讐の機会を狙っていた―― そこに婚約者としてやってきたのが、聖女の座を奪われ王太子から婚約破棄されたシェーナである。
公爵の表面的な溺愛っぷりにマイヤーは 『公爵はシェーナにめろめろ』 と、またしてもすっかり勘違いし、公爵からシェーナを奪うと同時に公爵家の名誉を貶めることで復讐しようと考えた。まず毒を入れたジャムをシェーナからと偽ってノエミ王女に贈り、その後、シェーナに敵意を持つワイズデフリン伯爵婦人にいかにもな情報を伝えてシェーナが犯人であると騎士団にタレ込ませた。だがこの、シェーナに罪を着せて騎士団に連行させようというたくらみは、リーゼロッテの一派 (つまりルーナ・シー女史) の横やりにより失敗。
すると今度は、ワイズデフリンに己の罪を半分肩代わりしてもらい、そのついでに妻を取り戻すことを画策 ―― おそらくマイヤーはまず匿名で、ワイズデフリンと妻のマクシーネが犯人だと、いかにももっともらしく騎士団に告げた。推測にすぎないが彼は、それらしき証拠を用意しワイズデフリンの使用人にでも扮して、事件に首突っ込んだものの解決の目処が立たず焦る騎士団を信用させたのだろう。
妻とワイズデフリンを騎士団に捕らえさせたのち、マイヤーは今度は身元を正直に明かして自首した。ワイズデフリンを主犯に仕立てあげて罪を着せる一方で 『妻はなにも知らなかった』 と証言することでマクシーネを救ったのだ。『これで妻も私を見直して、戻ってきてくれるはず』 とか、勝手に期待しながら ――
「―― これが、マイヤーさんのたくらみの全貌です。ご清聴ありがとうございました! 」
シェーナがしめくくったあとしばらく、クローディス伯爵家のルーナ・シー女史の部屋にはペンを走らせる音しか聞こえてこなかった。仲良くメモを取っているのは、ルーナ・シー女史とメイリーの母娘である。
先にペンを置いたのは、やはりというべきかルーナ・シー女史のほうだった。
「ねえねえ、これいつか小説のネタに使っていい? 」
「さあ? 公爵がいいなら、別に良いと思いますよ、シー先生」
「じゃOKね。心配しないで。ほとぼりが冷めるまでは使わないから」
「お母様。それ、設定はしっかり変えてよ? 本人特定できちゃうと名誉毀損で訴えられるかも…… マイヤーっていかにもそんなことやりそう」
続いてようやくペンを置いたメイリーは、 『最低男』 と短くも適切なひとことを吐き出した。
「問題は公爵が、マイヤーをかばう気満々ってことなんですよね。人に親切な公爵は好きなんですけど、これに関しては垂れ流しもいい加減にして、って思っちゃう」
「それ、すごくわかるわ、シェーナちゃん。温情は多少はあってもいいかもだけど、罪はちゃんと償わせないと! 」
「うん。なのに公爵は、マイヤーが犯罪者になったら公爵家には置いておけなくなっちゃうからって…… 」
「上等じゃないのよ。なにが悪いの!? 」
「たぶん公爵からすると 『かわいそう』 なんじゃない? 」
「あ、でもね。ユーベル先生はそれ、しにくいかも…… 非公認とはいえ異母弟ですからね、実は」
「えーっ」 「うそでしょ、お母様…… 全然似てないじゃない! 」
「でも、そうなのよ」
重々しくうなずいてみせたルーナ・シー女史によると、マイヤーは公爵の父親が娼婦との間に作った子であったらしい。認知はされなかったが、母親が亡くなったあと公爵家に引き取られ使用人として育った。公爵家のふたりの子どもは、ひとりが跡取りの公子として下にも置かぬ扱いをされる一方で、もうひとりはその血筋を当然のようになかったことにされたのだ。彼が公爵家からもらったものは、命と、お情けの一代爵位だけだった ――――
「ユーベル先生は全然ひとには見せないけど、実はけっこう気にしいなところがあるでしょう。マイヤーのことも本当は特に気にしているんでしょうね」
「そんなの知って…… じゃなくて、そうですよね、きっと」
「むしろ、おじさまの場合はそういうとこ見せたほうがいいんじゃない? そしたら、男の人からあれだけ敵意もたれないと思うんだけどなぁ…… 」
「男の人からは好かれるより嫌われるほうがいいんですって」
ルーナ・シー女史がくすくすと笑い、シェーナとメイリーがほぼ同時に 「だから女たらしとか言われちゃうんだよ」 とツッコんだ。
よく知る他人の噂話とはかくも盛り上がるものであるが、議題の中心はそこではない。
「まず、その1。どうやってマイヤーの有罪とワイズデフリンの無罪を証明するか」
メイリーがとんとん、と指先でノートを叩いた。
「で、その2。マイヤーが有罪になったあとの身の振り方をどうするか。おじさまのことだからどうせ、裁判官の前に金の延べ棒積んでも助ける気でしょうけど…… マイヤーをもとの地位に戻すとか、とんでもないじゃない? おじさまがゆるく決めちゃう前に、バシッと言ってあげないと」
「結局は公爵家の評判落としても使用人として雇い続けるでしょうね、きっと」
「それ、すごくありそうですね…… 」
ルーナ・シー女史の予想を聞くまでもなく想像できることだったが、シェーナとしてはマイヤーとふたたび公爵家で顔を合わせるのは非常に気まずい。
「…… そうなったらもう、婚約者やめちゃおうかな…… 雲隠れでもして」
「何を言ってるの、シェーナちゃん。そこは迫るとこでしょ。わたしとマイヤーどっちが大事なのぉっ、て」
「いえメイリーちゃん、ちょっとそれは 「全然ありよ、シェーナちゃん」
引きまくるシェーナに、ルーナ・シー女史もたたみかけた。
「あのひとに 『きみがいないと寂しい』 まで言わせたら、あとひと押しでしょう、きっと」
「えっ、そんなこといつ…… 「あー昨日のお茶の時間! お母様、寝てると思ったら聞いてたの? 」
「聞こえたのよ。ユーベル先生があんまり珍しいことを言うものだから」
「………… そういえば」
その他のことが重大すぎて気を取られ、すっかり忘れていたシェーナであるが、言われてみれば、言われていたのだ。
「………… そんなだいじなこと…… 落ち着いたときにしっかりじっくり言ってほしかったです…… 」
「んーとね、たぶん、ドサクサにまぎれてさらっと言うから言えたのよね。あのひとの場合」
「…… そんなこと知ってますけど…… 」
「じゃ、シェーナちゃんは雲隠れせず、おじさまをあとひと押しでしっかり落としてね。あと、マイヤーさんの今後のことも考えとくこと」
「ひええ……」
いろいろなことが難題かつ責任重大、と引きまくるシェーナに 『公爵夫人になるんだったらその程度当然よ? 』 とクギをさし、メイリーはふたたびノートをトントン叩いた。
「目下の問題は議題その1。どうやってマイヤーに真実を吐かせるか…… これはシェーナちゃんの話を聞く限りでは、マイヤー夫人 ―― マクシーネさんに協力を頼むのがいいと思う」
そうと決まれば、あとは行動あるのみ。
わたくしならば顔パスで行けましてよ、とのたまうルーナ・シー女史に付き添われ、シェーナとメイリーは王宮に向かった。一応はリーゼロッテの代理でノエミ王女を見舞う、という理由と書状 (偽物) を用意してある…… だがそれを使うまでもなく、門番の兵士たちはルーナ・シー女史が 「ごきげんよう」 とにこやかに挨拶しただけですんなりと通してくれた。これだから私とお父様が社交で苦労するのよ、とはメイリーの言である ――
「ちぇいじょたまと、おともだちのみなたま? おみまい、あいがと。ノエミ、ちょっとだけいたかったけど、もうだいじょうぶなの」
心配していたノエミ王女は以前とかわらずおっとりとして懐っこかった。今は外に出してもらえないのだ、と少し不満そうだが、夏にはハインツ王太子と別荘に行く約束をしているので、いい子で待つことにしているのだという。かわいい。
ルーナ・シー女史が内心で 【実は子どもって苦手なのよね】 とぼやきつつもノエミ王女の相手をしてくれるというので、シェーナとメイリーはさっそく、侍女のマクシーネの説得にかかった。
ノエミ王女が倒れてから大変な日々を送っていた割に、マクシーネは元気そうだった。 「王女殿下にご心配をおかけするわけには参りませんから」 という口調は慈しみにあふれている。マクシーネを知っている人なら誰でも、彼女がノエミ王女服毒事件の犯人であるはずがない、と言うだろう。だがその穏やかな顔と口調は、夫のマイヤーの名前を出しただけでさっと曇ってしまった。
「あのひとと、これ以上関わりあいになりたくありません」
「でも、マクシーネさん。マイヤーさんは、関係ない女性に罪をなすりつけて、悠々ともとの地位に戻ろうとしてるんですよ? 悔しくないですか? 」
「…… 公爵に逃がしていただくまで、わたくし、ずっと、あのひとが殴るのはわたくしが悪いんだと信じていたんです。だから、なにもかもあのひとの言うとおりにして、あのひとの機嫌を損ねないことだけを考えて、それでも殴られて…… 」
マクシーネは紅茶のカップを置き、震える手を押さえた。
「わたくし、リーゼロッテ様の侍女になったあとで、体術を必死で会得しました。だまって殴られるような人間には2度となるまい、と思って…… それでもまだ、あのひとが別荘にやってきたとき…… 震えてしまいそうになるのを我慢するだけで精一杯でした。わたくし、まだ、あのひとが…… こわいんです」
それもまたわかる、とシェーナはうなずいたが、メイリーは 「だからこそ、今回は乗り越えるチャンスですよ! 」 と身を乗り出した。
「ご存知ですか、マイヤー夫人? ルーナ王国のク○な法律では、妻は夫の許可がない限り勝手に離婚できませんが…… 特殊な場合には、公的機関の担当者の許可書をもらえば離婚できるんですよ? 」
※※※
牢では取り調べと貧しい食事のとき以外、なにもすることがない。時折、誰かの怒鳴り声や叫び声が遠くから聞こえる以外は静かな時間を、マイヤーはぼんやりと、目の前のしみを数えて過ごした。
縁がぼろぼろになって少々かびくさいカーペットやタペストリーに浮かぶしみは、幼いころの母との暮らしを思い出させる。母に客がくるといつも、狭い物置部屋の中に隠れて壁のしみを数えてすごしたっけ ――
公爵夫人…… は無理でも、公認の愛人程度の立場を狙ってマイヤーを産んだ母は、それが思いどおりにいかないことがわかると幼い子どもを邪魔なお荷物と認定した。記憶の中の母から、物語に当然のように紡がれている優しく愛情深い 『母』 を感じたことなど一切ない。気にくわないことをすると殴られた。なにもしていないからと殴られた。母の機嫌が悪いと殴られた。マイヤーは幼い日を、ひたすらビクビクと母の顔色をうかがって過ごしたのだ。
とはいえ、同じことをして返そうと妻のマクシーネに対して思ったことは一度もない。マイヤーは妻をとても愛していたし、今もずっと愛している ―― できるときはお姫様のようにかしずいて優しくしてあげたい、妻の望みはなんでも叶えてあげたいといつも思っていたし、今もずっと思っている。
しかし、マイヤーは知らないのだ ―― 親しい身内が意に添わないとき、どう振る舞えばいいのかを。母がしたように殴るのが正しくないことは、最初のうちはわかっていた。
だが…… 気を遣って話し合い、ときには譲歩せねばならないとしたら、それはもうあかの他人と同じではないか。マイヤーが夢見ていたなんでも許して受け入れてくれる温かい家族とはかけ離れている。
それでも気持ちをおさえて話し合おうとするとき、マイヤーの心の奥底では、幼い子どもが必ず叫んでいた ―― 『ボクはこんなの、してもらったことない!』
ガマンはしてみるのだ。それでも、限界はすぐにくる。心のなかの傷だらけの子どもが悲鳴をあげる。
マクシーネは付き合っていたときは素直でかわいい女だったが、結婚してみるとすぐに、マイヤーの苦労を思いやらずに不満をもらしたり、疲れているのにワガママを言ってきたり、という悪いところが見えるようになった。しかも意外と頑固で、マイヤーがぐっとこらえて優しく教え諭してもすねるだけで効果がなかった。家族なのにどうして言うことを聞いてくれないのだろう ―― マイヤーが困ったあげくにマクシーネを初めて殴ったのは、結婚してから10日経つか経たないうちだった。マクシーネは怯え泣いて謝り、もうやめて言うとおりにするから、と取りすがった。そのときマイヤーの心の中に住む子どもは、とても穏やかにこう呟いたのだ。
―― あぁわかったよ、かあさん。かあさんはボクを家族として一緒にいるために殴ってたんだね。かあさんはボクを愛していなかったわけじゃなかったんだ。よかった。ボクはまったく価値のないクズなんかじゃなかった。ちゃんとかあさんに愛されていたんだ……
それから、マイヤーはなにかというと妻を殴るようになった。心の通じない他人と一緒に暮らすためには、殴ってしつけることは必要なのだから。これは愛なのだ。それでも、うっかり傷が残るほどに殴ってしまったときは、愛しているのだときっちり説明し、泣いて謝った。
妻はわかってくれていたはずだ、とマイヤーは思う。今は 『王国一の女たらし』 という不名誉な称号をもらっている公爵に惑わされているが、それも今回の件で、誰が真実マクシーネを愛しているかを知ったことだろう ―― 騎士団にとらえられそうになったマクシーネの代わりに罪をかぶったのは、公爵ではなくマイヤーなのだから。
保釈されたあかつきにはきっと、理想どおりに従順で貞淑になった妻との穏やかで楽しい暮らしが待っている ――
(…… 36、37。しみが今度は、ずいぶんと少ないな…… )
マイヤーがぼんやりと首をかしげたとき、牢の外から声がかけられた。取り調べをするようだ。
(…… これ以上、なにを聞くのか…… 私は容疑を認めているのに…… やれやれ)
心にフタをして、誰かの要望に合う人間になりきるのは得意だ。物心ついて以来ずっと、そうしなければ生きていけなかったのだから。今はそう―― 悪女にそそのかされ罪を犯してしまった真面目な使用人。それ以外の自分など、どこにもいない ――
マイヤーは騎士のあとについてゆっくりと牢をあとにした。
だが、待っていたのはいつもの居丈高な取り調べ官だけではなかった。
「このひとです! このひとがわたくしを、こんなに痕が残るほど殴ったんです! 」
そこには、彼の愛する妻 ―― マクシーネが、まるで悪魔が取りついたような歪んだ形相で夫を指さし、にらみつけて立っていたのだ。




