9-1. 事件の真相は心のなかに(1)
ナイトテーブルの上のクリームたっぷりのケーキをベッドに寝転んだまま、ひとくちつまむ。
狂乱のワインぶっかけ祭りと化した誕生日パーティーから5日後 ―― ワイズデフリン伯爵夫人ことイザベルは、ホールを出入りする職人たちのざわめきを耳にしながら、目の前の客に一瞥も送らずにぶすくれていた。
あのときワインで汚れたタペストリーやカーペットは、染めなおすことも考えたが結局は総入れ替えをすることにした。ワイン色のタペストリーなど、見るたびに身の程知らずの小娘にしてやられたことを思い出してしまいそうだからだ。だが予定外の出費は痛かった。おかげで、注文していたドレスと装飾品ひとそろいを丸々キャンセルせざるを得なかったし、スケベな紳士がたに特別サービスをちらつかせて出資もねだらなければならなかった。色ごとは嫌いではないが、イザベルが好きなのは女神のごとく崇められることであり、身勝手な紳士に奉仕することではないというのに。だがこのたびは仕方なかったのだ。まったくもう、イライラする。
そのうえ、罠にはめて監獄送りにしようとした当の小娘は、クローディス伯爵家でのんびりぬくぬく過ごしているという。
「もう、ラズールときたら! せっかく婚活にガツガツしてる女の子たちをけしかけてあげたのに、全員放置してあの小娘のほうにかけつけるなんて…… まさか本気で溺愛しているとでもいうの!? …… ないないないない、どうしたって無理よねあのまな板じゃ。あと、それから! どうしてあのタイミングでリーゼロッテの一派がわいて出るのよ!? 」
「あなたがもともと、彼女らからマークされていたんでしょう。罷免された聖女だからと、王族との関係を軽視していたのが失敗でしたね」
来客 ―― 穏やかな風貌だが目つきが異様に暗い彼は、皮肉げに口元をゆがめた。
「公爵の婚約者を目の敵にしていたあなたが、いきなり本人を招待すれば ―― 誰でも、なんらかのことを仕掛けてくると考えるはずですよ。騎士団にタレこんでおいてそちらの対策は一切なしとは…… 失礼ながら、少々おめでたすぎたのではないでしょうか」
「うるさい! 」
顔のすぐ横をクリームつきのケーキがかすめて飛んでいったが、彼の表情はまったく変わらなかった。
「黙って聞いてなさいよこのイモ虫! そもそもあなただって、情報持ってくるならもう少し協力してくれてもよかったじゃない? そしたら、このあたくしを抱かせてあげても良かったのに! 」
「残念ですが…… 私が愛しているのは妻ただひとりですので。ほかのかたを抱く気にはなれません」
「ふん。愛? 聞いて呆れるわ」
嘲笑を男はうつむいて受け止めたが、顔をあげるときっぱりと反論した。
「なんといわれようと、私は妻を心から愛しています」
「ふん」
鼻先で笑うイザベル。彼女にとっては、愛などどうでもいいことである。男は金を持っていて言いなりになる者が最高なのだ。
「ともかく、こういうことだから謝礼はナシよ? 当然よね。あなたの情報、結局は役に立たなかったのだもの」
「謝礼など…… 必要ありませんよ。では私はこれにて、失礼します」
夫人の前であるのに、彼はコートをはおり帽子を目深にかぶったままだった。挨拶のために帽子を取ることすらしない。ほんと失礼な男、とイザベルが吐き捨てる間もなく…… どやどやと、職人たちとは別のやかましい気配が近づいてきた。
ばん、と乱暴に扉が開けられる ―― そこに立っていたのは、騎士団の制服を着た男たち。
「なんなの、あなたがたは!? 無礼じゃなくて? 」
「ワイズデフリン伯爵夫人、いや、イザベラ・ワイズデフリン。ノエミ王女の件の重要参考人として、本部にて事情をうかがいたい」
「なんですって? あたくしではなくて、犯人はあの小娘でしょう! 教えてあげたじゃない!? あとあたくし、イザベラじゃないわ。イ・ザ・ベ・ル よ! 」
「…… とぼけても無駄だ、ワイズデフリン。嫉妬からシェーナ・ヴォロフ男爵令嬢に罪をなすりつけようとして、ノエミ王女の侍女を使いジャムに毒を入れさせたことは、わかっている。おとなしく連行されたほうが身のためだぞ」
「あたくしではないったら! 無能な騎士どもが何をするのよ!? 」
叫ぶような抗議の声を背に彼は騎士たちの横をすり抜けて廊下に出た。そのまま、足早に去っていく。
(謝礼など…… 罪をかぶってくださるだけでじゅうぶんですよ。おろかな平民のお姫様)
その場をあとにした彼の口元には、ほのぐらい笑みが浮かんでいた。次に向かうのは、騎士団の本部。彼にとっても公爵の婚約者がやすやすと逃げおおせたのは不本意であったが、このままで終わらせる気はない。この事件は、まだ ―― そう、まだ、使えるのだから。
※※※
貴族の中ではさほどでもないそこそこの金持ちに過ぎぬが歴史だけはそこそこ古めな名家、クローディス伯爵家の最近の朝の食卓は、女の子たちの笑い声で華やかに彩られている ――
「ねえ、シェーナちゃん! ナターシャ特製のシャーベット、イチゴとラズベリーとブルーベリーのどれにする? 」
「イチゴとブルーベリー」
「あれ? ラズベリーは? 」
「いっいらない……! 」
いつぞやの公爵とのやりとり (公爵を名前呼びしようとして 『ラズベリー』 とか呼んでしまったアレ) を思い出し、シェーナは耳をほんのりと染めた。
親友のメイリーが 「ははあ、さては」 とでも言いたげな顔をする。
「シェーナちゃんの口の中で溶けちゃうおじさま…… ギルティーね? 」
「なっ、なんのこと!? それからメイリーちゃんって、ほんとにまだ15歳? 」
「ほんとだよ? 両親が変態だから、その辺すすんじゃったのかなあ…… なにしろあの人たち、わたしの目の前でもギリギリセーフなところまでイチャイチャするから」
「あ、いちおうギリギリで止めてはくれるんだ」
「うん。小さいころからずっとそうなのよ。 『メイリー、残念ながらお父様とお母様はとっても忙しくなってしまった。すまないが、しばらくナターシャと遊んでいてください』 って奥の部屋に姿を消すでしょ、追いかけていくと扉の向こうから…… 」
「なんか教育に悪そうなことはよくわかった」
あら教育に悪いだなんて、と眠そうに半ば目を閉じながら横やりを入れてきたのは、メイリーの母親で人気作家のルーナ・シー女史。
「人間、服を脱いだときが勝負なのよ? 身にまとったもので人を判断するなんて、おろかな 「あーはいはい。わかってるわかってる」
メイリーにおざなりに返事をされて満足そうにひとつうなずくと、テーブルにつっぷした。おそらくはまたしても徹夜明けなのだろう。
「これでこのひとは母親やってるつもりなんだから、もう」
文句を言いながらもその口調も心の声も温かいのは、両親に愛されていることをメイリーがちゃんと知っているからだ、とシェーナは思った。
シェーナの場合は、母親はたしかに愛してくれていたが、父親のほうはよくわからない。父親がシェーナに教えたのは、上流階級でもなんとか通用するレベルの礼儀作法と、貴族の誇りとやらいう腹の足しにもならぬものと、貧民街の住民たちを血筋と教養とマナーの点からひそかに見下すことだった。
貧民街の友だちのなかにも人間的に尊敬できる子はたくさんいると知っているシェーナにとって、父親の思想は受け入れがたいものだったが…… いくら反論しても聞いてもらえたためしがない。父親にとって貧民街の住民はあくまで 『血筋が悪く、下品で教養のないクズたち』 であり 『一緒に遊んでも染まるな』 と命令され続けてきた。
シェーナの話にまったく耳を貸してくれない父親は、シェーナにとっては 『貴族の血筋と誇りしか大事じゃないひと』 だった。娘に少しでも愛情があったのか、それともあわよくば玉の輿にのせる道具としてしかみていなかったのか ―― それは聖女になって実際に玉の輿が近づけば近づくほど、ますますわからくなっていったことだった。
―― と、久々に父親のことなど思い出していたがために。
「失礼します。シェーナ様あてに、ヴォロフ男爵とおっしゃるかたがお見えですが」
クローディス家最古参の侍女であるナターシャからこう告げられたとき、シェーナは叫ばざるを得なかった。 「なんでいま!? 」 と。
「シェーナぁぁあ! 久しぶりだな! うまくやってるそうじゃないか? 」
「うまくやってる人がどうして公爵家じゃない場所にいると思ってんの、お父さん? 」
「お・父・様、だ、シェーナ。男爵令嬢なのだから親子といえども礼儀正しくしなくては、な? 」
「…… お情けでもらった一代爵位のくせに」
「なんかいったか? そもそもだな、我が家はフェニカでは中央神殿の長も輩出した名誉ある…… 「あーはいはいはいはい」
父の長くなりそうな家柄自慢に適当すぎる相づちを打つ。ほんとうざい。血筋が真に役立つなら、娘が聖女になるまでもなく父はルーナでも神殿の要職についているはずだ。だが父は、シェーナが聖女になったおまけで男爵位と小役人の仕事をもらうまでは港の荷運び人足だった。もちろん荷運びだってだいじな仕事だけれど、父の気にいらなかったのは明白である。なにしろ父は機嫌が悪くなると 『おまえたちのために、こんなつまらない仕事にも耐えてやってるんだ。わかってるか!? 』 とシェーナと母に説教をしていたのだから。
「で、今日はなに? いっとくけど、お父さんの家には帰らないからね? 」
「…………! 」
つきつけたひとことは、シェーナの父にクリーンヒットしたらしい。やはりか、と思うシェーナ。公爵邸に押しかけてまでシェーナを連れ戻す勇気のなかった父はおそらく、シェーナがクローディス伯爵家に滞在中という噂をききつけて 『伯爵家なら、まいっか』 とばかりにやってきたのだ。つくづくイヤらしいひと、とタメイキが出そうになる。
「公爵とうまくやってるのは喜ばしいことだがな、シェーナ。だがしかし、せめて式用のドレスや手回り品などはこちらで用意して、我が家から送り出してやりたいと…… お母様が生きてたら、きっとそう思うはずなんだ」
「いやでもお母さん亡くなってるし」
「おっおまえは……! そんな冷たい子に育てた覚えはないぞ! 」
「いやむしろ、4分の1くらいはお父さんに育てられてるのに、あんまりイヤミな人間にはならなかったことをほめてほしいんだけど? 」
「……! じゅうぶんイヤミだろうが……! 」
「イヤミじゃなくて本心ですー。昔のお父さんは筋肉ちゃんとついてて強くてカッコ良かったところもあったけど、今は腕も腹もゆるゆるで上にはヘイコラ頭さげて自分より下だと思ったら当然みたいな顔して見くだすだけの、しょーもない小役人になっちゃったよね」
「なんだと……! 宮仕えの大変さがおまえにわかるものか……! 」
「とにかくわたしは、結婚式の朝に涙しながら 『お父さん今までありがとう』 だなんて挨拶する気なんて、絶対にないから」
「うぐぅ……! これまで育ててやったのに……! おまえはお父様の夢を踏みにじる気なのか!? 」
「うん、300%、そのつもり」
「………………! 」
父は予想よりもショックを受けたらしい。シェーナの顔を呆然と眺めつつ、内心で 【あのかわいかったシェーナがぁぁあ! ニモラぁぁあ! どうしよぉおおお! 】 と泣きまくっている。ちなみにニモラはシェーナの母親の名だ。
心の声だけ聴くと、父にも娘への愛情はあったのだとウッカリほだされてしまいそうになるが…… 現実のシェーナに対する父親の態度はこれまで、理不尽のかたまりだった。やたらと厳しく礼儀作法を叩き込まれ ―― これはまあ、のちに役に立たないでもなかったが、当時はつらかった。だって黒パンのかけらと水を前に、エアナイフとエアフォークを使う訓練をさせられても、ひたすら虚しいとしか思えなかったのだから。教えられたことがきちんとできるようになるまで、1年に1回も食べられないごちそうである母特製のドライフルーツのプディングをお預けにされたこともある。そのときは、できるようになったときにはプディングが半分くらいに減っていて、文句をいうと 『あさましいことを言うな! これだから貧民街育ちは! 』 と怒られた。2度言っちゃうが理不尽である。
これだけの扱いをされても父はやはり父であり、完全に嫌いにはなりきれないのがまた、ツラいところ ―― だからといってシェーナはこれ以上、この権威主義者の言いなりになるつもりはなかった。
やがてシェーナの父も、どなって願望を押し付けるだけでは時間の無駄だと悟ったらしい。態度を変えて、猫なで声を発した。
「たがな、シェーナ。公爵家も今、たいへんだろう? お世話になりっぱなしでは、心苦しいと思わないのか? 」
「たいへんって…… お父さん、なにか知ってるの? 」
「知らないのか、シェーナ。公爵家の使用人のひとりが、騎士団に自首してきたんだぞ? 」
「え……? 」
シェーナは驚いて聞き返した。自首というとやはり、ノエミ王女服毒事件のことだろうか―― たしかにあれは、公爵家も疑われてしまってもしかたない状況ではあった。だが、本当に公爵家の人間が犯人だとは、シェーナはまったく思っていなかったのだ。
「だれなの、そのひと。いったい、なにしたの……? 」




