8-4. 恋のはなしはお泊まりの夜に(4)
女史の左右の手には、湯気の立つカップが1つずつおさまっている。甘い香りがシェーナの鼻をくすぐった。約束のホットチョコレートだ。
「はい、シェーナちゃん」 【悩める女の子には甘いもの、ね♡ 】
「ありがとうございます、シー先生」 【悩める、か…… うーん、悩むって希望があるときにしかしないよねえ…… どっちかというと今は、絶望的な感じが…… 】
1つをシェーナに渡し、もう1つを美味しそうに飲む間、ルーナ・シー女史はずっと無言だった。
そして飲みおわると、首をコキコキまわして 「よし! 」 とひとこと。
「さて、じゃあわたくしはもうひと仕事してくるわ? シェーナちゃんも、そろそろお休みなさいね」
「ちょっと待ってください」
「ん? 」
「そうかしら、で止まってますけど? そこはなにか良いことを言ったり励ましてくれたりするもんじゃないんですか? 」
「んーだって、キャラじゃないもん」
「そこは見識豊かな作家先生として頑張ってくださいよ。なにか希望をもてる格言とか」
「あら? 希望はときに残酷なものよ? 」
「いきなり下げてきた! なにやっぱりそんな絶望的な希望しかないんですか? 落ち込むじゃないですか。なにか秘訣みたいなのとか、本当にないんですか? 」
「…… 具体的になにが聞きたいのかしら、シェーナちゃん」 【えっ。落ち込むの? ユーベル先生ごときに? やめときなさいよ! 金と地位と権力があって少しばかり美人さんでも、あのひとは、しょせん…… ふにゃふにゃの溶けかけチョコレートよ? 誰にでもベタッてくっつけちゃうのよ? 】
「公爵を落とす方法ですよ、もちろん。プロポーズされたんでしょう、シー先生? 」 【わかってますよ、もう…… わたしにしかくっつかないチョコレートにしたい、だなんて高望みもいいとこだってことくらいは…… でもしたくなっちゃったらどうしたらいいんですか? 】
「それならシェーナちゃんはもう、クリアしてるじゃない? 婚約者でしょう? 」 【わたくしのアレで落とした、っていえるなら、サルでもユーベル先生を落としてるわね。あの頃の先生ったら、ほんとに誰でも良かったんだから……! 】
「そうでした…… 」 【やっぱり公爵ってそういうひと…… だよね。なにしろスノードロップのあのひと以外は、本当はどうでもいいんだもんね…… 】
ガックリと肩を落とすシェーナ。そもそも 『婚約者で溺愛されてるんだからまあいっか』 と割りきれないこともまた、問題だったのだ。
ルーナ・シー女史がぽすん、とシェーナの隣に腰をおろした。
「あのね。ユーベル先生がわたくしにプロポーズしたのは、たまたま都合が良かったからなのよ。それに、わたくしたちはある意味、似た者どうしで気が合ってたし…… 結婚しても、そこそこうまくやっていけたんじゃないかと思うわ。夫には内緒ね」 【けれど、そうしたら今、恋愛ものは書いてないかも? それからユーベル先生の寿命は確実に縮んでいたわね…… 】
「似た者どうし? そうですか? 」 【ええっ、恋愛ものを書かないシー先生だなんて! ヤンデレ旦那さんもなにかの役には立ってるってことなんだね、きっと…… 】
「ええ。お互いに、そのころからもう文章を書いていて…… お互いにケナしあう仲だったというか。そのころはユーベル先生のほうが人気があったから、わたくし悔しくて、よくつっかかっていっていたのよ。アドバイスももらいはしたけれど」 【でもって、他人をまったく信用していないという点において、それはもうみごとに一致というか…… お互いに口には出さないのに、その辺はわかっちゃうのよねえ…… あと、恋とか愛とか、小説に書きはしても自分がするのは心底どうでもよかったし】
「なるほど…… たしかに気が合いそうですね」 【というかソックリですよね、思考の一部が】
「そうでしょう? 」 【ちっ。うっかりユーベル先生の手助けなんてしてしまってるわね…… あのひとには徹頭徹尾みっともなくマゴマゴしていただいて、陰から美味しく鑑賞だけする予定だったのに! 】
「メイリーちゃんも、シー先生は公爵と結婚すれば良かったのに、って言ってました。どうして、伯爵とだったんですか? 押しの一手? 」 【でもシー先生って、なんだかんだでユーベル先生大好きなんじゃ……? 】
ルーナ・シー女史はくすくすと笑い、話すと長くなるから言わない、と答えた。たしかにこのときルーナ・シー女史の頭の中を駆けめぐった情報は膨大な量であり、シェーナが心の声として聞き取れたのはほんのわずかだった。
つまりは現クローディス伯爵とはごく幼いころに知り合ってそれからずっと一緒にいる、ということらしい。
「夫はね、自分でも勘違いしてるけれど、実はわたくしにものすごく依存しまくっているだけなのよね」 【それに独占欲も強くて、別にいいんだけどときどき息苦しいのよね】
「ヤンデレとはメイリーちゃんから聞いてましたけど…… 失礼ですが、いったいどうしてそんなひとと」 【独占欲ばりばりの依存体質って、いったいなにがいいのかな】
「うーん…… 若かった…… から、かしら? 」 【だってシドさんてばヤキモチやくとすごく可愛いのよ? もうついつい、つついたりナデ回したりしたくなるの必至というか……! 】
「なるほど」 【つまりは変態どうしでしっくりいった、と…… 】
シェーナが飲み終わったカップを受け取ると、ルーナ・シー女史は 『さてと、仕事しごと』 と立ち上がった。なんらかのアドバイスをしてくれる気などは、やはり特になさそうだ。
「そうそう。似た者どうしと思ってたけれどね、本当はユーベル先生のほうが、わたくしよりずっと優しい人で、ずっと寂しがりだったのよ。スカしてるくせに笑うでしょ? 」
「…… 寂しがり? ですか? 」
「そうよー。もっっのすごく。とんでもない寂しがりさんよ、あのひとは。だから、シェーナちゃんは一緒に住んだ時点でもう勝機はあると思うのよね…… シェーナちゃんの理想どおりでは、ないかもしれないけど」
寂しがりだから誰にでも見境なく優しいのだと、ルーナ・シー女史は言った。
「でも、そういうのって、誰にどれだけ優しくしても結局は寂しいのよね。だって、誰も心のなかにいないんですもの」
「でも、あのひとがいますよね? 数十年ごしの熱烈どん引きラブレターをコッソリ小説に混ぜこんで書いちゃうような相手が」
つい、モヤモヤが口をついて出てしまったシェーナだが、ルーナ・シー女史はあっさりと 「あー。アレじゃダメよ」 と答えた。
「彼女はとっくの昔にそんなこと割りきって別の愛する人をみつけて結婚して、子どもも生まれて幸せに暮らしているんだもの。現実にいないひとを想い続けているようなものだから」
「…… 誰なんですかそのひとは」
「気にしてもしかたないことよ? それに、予想は大体ついてるでしょう? たぶんそのとおりよ」
「でも正解が気になっちゃうんですけど…… やっぱり政治的ななにかで言っちゃダメなんですよね? 」
「そうねえ…… シェーナちゃんなら別にいいと思うわ? けどね、それは本人に聞いてごらんなさい」
「思いっきりはぐらかされそう」
「そういうときはどうするの? 」
「…… 待ちます。言えるようになるまで」
ルーナ・シー女史はひとつ、大きくうなずいた。大きな紫の瞳にとても優しい光が宿ったが、かんじんなことはやっぱり、何も言ってはくれなかった。
「さて、そろそろ本当に仕事しないと! 」
勢いよく立ち上がって、もういちどシェーナの肩にショールを巻き直す。
「あのね、シェーナちゃん」
「なんですか? 」
「あのひとを、ちゃんと好きになってくれて、ありがとうね」
「いえ、べつにそんな」
じゃーね、と軽やかな足取りでルーナ・シー女史が廊下の奥に消えていくのを見送ると、シェーナはうめきつつ頭をかかえた。
―― 思いやりあふれる友人としてのことばにさえ、つい 【あなた公爵の何様!? 】 と内心でツッコんでしまう自分が、イヤだった。




