8-3. 恋のはなしはお泊まりの夜に(3)
―― 眠れない。
伯爵家の庭のどこかにいるらしいナイチンゲールに耳をすませながら、シェーナはそっと寝返りをうった。隣では親友のメイリーが少女らしい健やかな寝息をたてている。
頭の中で、争乱の時代の王女の悲恋物語をいくどもさらう。メイリーはあの小説が、公爵の数十年ごしのラブレターだと言った。公爵が作家のユーベル・フォイトマンであることがわかってしまえば、それもない話ではない、と思うしかないけれど ――
(公爵が若いころの婚約解消から取材してる話だから、そうなると当然、王女の最初の婚約者だったアレクトの身になって、公爵はあの小説を書いたはずよね…… けれど実際には公爵と王女は納得ずくで円満に別れた、って…… 心の声からは嘘だとは思えなかったし。でもラブレターってことは、やっぱり)
もし、公爵の心のあのひとが最初の婚約者の王女だったりしたら嫌だな、とシェーナは小さくタメイキをついた。
思い出したらまだ痛いから、普段は心にしっかりフタをして、意識の端にも上らせないようにしているひと。うっかり心のフタが外れて思い出してしまえば、痛くても、慈しまずにはいられないようなひと ―― その正体がもし公爵が少年のころの婚約者だというのなら、やっぱりシェーナではどう転んだってかなう気がしない。想いの長さでも、強さでも。
けれど認めたくはないが、状況はすでに決定的なところまで行っている。あのひとの正体が、ワイズデフリン伯爵夫人ではなく、公爵を同伴者なしでプライベートのお茶会や夜会に呼びたがる女性の誰でもないとすれば ――
(やっぱり、パセリになるしかないのかな…… せっかく、好きになったのに)
好きになったひとからは、いちばんに好かれたい。ほかの誰かなど、心の片隅にも入れてほしくない。
欲深くて身勝手だとはわかっていても、シェーナはそう思ってしまう。
(あーもう! ウダウダしててもしょうがない! まずは…… 確認あるのみ、よね)
小さな灯りをつけて、シェーナは本棚を探した。メイリーはあの小説があまり好きでなかったようだから、あるとすればたぶん下のほうだ。
『アーヴェ・ガランサス・ニヴァリス』 は、一番下の段の隅っこに、背表紙を奥にしてつっこんであった。
本を抱えて部屋をあとにする。クローディス伯爵家では、先代の夫人のときにはサロンだった部屋を改装して居心地の良い読書室にしているのだ。その手前で、シェーナは夜着のうえにショールを羽織った小柄な人影とはちあわせた。
「シー先生。もっと寝てなくて良いんですか? 」
「寝ていたら締め切りに間に合わないもの。明日よりは1時間たりともまけられません、って! シー先生なら絶対大丈夫、素晴らしいものを期待してますよ、って! ニコニコしながら言うのよ! 編集が! 」 【ご自分の仕事量が半端ないからって他人もそれができるとは限らないのよ、ジグムントさん! 】
「はあ…… 信頼されてるんですね、シー先生」
「まあ、ね。今回はどこぞのエロ小説家が家庭の事情で 『月刊ルーナ』 の連載に穴をあけたそうなの。大急ぎの代打で読者が納得するものを書けるっていうと、わたくししかいないのですって。だから、しかたなくはあるのよ」 【ふっ! ついに! ロティーナちゃんにわたくしのアナスタシア様とポリーちゃんが勝つ日が来るのよ! おーほほほほ! ざまぁご覧なさいませ♡ 】
月刊ルーナ ―― 王国の大衆小説誌の草分け的存在である。たしかユーベル・フォイトマンの 『ネーニア・リィラティヌス』 もこちらに連載中で、つまりは今や立派なエロ小説誌へと進化をとげているのだ。ちなみに 『アーヴェ・ガランサス・ニヴァリス』 が連載されていたのは月刊セレナ ―― こちらはもともと女性向け大衆小説誌だったが、現在は恋愛小説多めの文芸誌にクラスチェンジしている。
シェーナ含めた最近の一般読者の認識では、ルーナ・シー女史は月刊セレナの作家で、ユーベル・フォイトマンが月刊ルーナのほう、という区分けだったのだが……
「シー先生って、エロ小説もお書きになるんですか? 」 【ロティーナちゃんって、つまり…… 公爵、仕上げられなかったんだね結局…… がんばってたのに、残念だな】
「穴棒アーンはそんなに好きじゃなくてよ。直接的すぎて。けれど人はあますところなく美しいわ。心も、からだも…… みにくくても、美しいの」 【それで小説を書き始めたのに、今やお色気からかけ離れた恋愛ものばかり、ですものねえ…… ジグムントさんに乗せられすぎたかも。けど、娘がエロ小説を読む歳になれば…… もう誰にも遠慮は要らない! ふっ…… 久々に! アナスタシア様とポリーちゃんで読者の皆様をトロトロにとろかしてさしあげてよ! 】
「わたし、シー先生の恋愛もの好きですよ。けど、お色気ものも楽しみにしてますね! 」 【たぶんアライダさんも喜ぶと思います! それから、あのね、シー先生。メイリーちゃんの本棚を見た感じだと、あなたのお嬢さんは10歳くらいからエロ小説をたしなんでおられますよ…… 】
ありがとう、とニッコリしたルーナ・シー女史の表情が、ふっと心配そうなものに変わった。
「シェーナちゃんこそ、まだ起きていて大丈夫? 今日は疲れているでしょうに」
「わたしは、よく眠れなくなっちゃって…… 」
シェーナはメイリーとのやりとりをかいつまんで説明した。
「 『アーヴェ・ガランサス・ニヴァリス』 は、少し前に読んだんですけど、ラブレターとは思っていなかったので。こんどはそういう目で見てみようかな、って…… 」
「そう。覚悟しておいてね、シェーナちゃん。あれは、そういう目で見ちゃうと悶絶ものなのよ」
「うわ…… それって絶対に嫉妬しちゃう…… 」
ルーナ・シー女史は、あとでホットチョコレートを持ってきてあげるわ、と請け合いつつ肩からショールをとって、シェーナの肩にしっかりと巻き付けてくれた。普段は尊敬する作家先生として女史と接しているシェーナだが、こういうとき、なんだか母のことが思い出されてしまって困る。そういえば、亡くなったシェーナの母親も冬の前になるとありあわせの古布でコートを作ってくれていたっけ。
読書室の灯りをつけて大きめの1人用ソファにうずくまるように座り、おしゃれな金の象嵌がほどこされた革の表紙をめくる。
もう読んだ本であっても、この瞬間はいつでも心が踊る。ここにはない世界と、ひとびと ―― 作者の、心の声にさえあらわれることのない、もっと深いところにある秘密。シェーナが読書好きになったのは、心の声を気にせずに知らない世界を冒険できるからだった。
けれども今回ばかりは、ワクワクではなくビクビクしている。公爵の数十年ごしのラブレター …… そんなもの、見なくて済むなら見たくない。なのになぜ見ようとしてるのかといえば、どうしても気になって眠れないからだ。
(あれ? わたし、せっかく生まれて初めてな勢いで好き認定したのに、全然お花畑じゃない…… )
それどころか、本人のあずかり知らないところで勝手にモヤモヤしてウダウダしてヤキモキしている。
(あああ…… 一生に一度でいいから、お花畑な恋がしてみたかった…… )
方向違いに嘆きつつ、シェーナはページをめくっていった。普段はエロばかり書いているのでわかりにくいが、ユーベル・フォイトマンの文章は実は非常に端正で無駄がない。読者を楽しませるためにきちんと計算して書かれており、雑味となりそうなよけいな主義主張はすべて排除されているのだ。
だから、よく読み込まないと彼の秘密はわからない。うっかりすると読み飛ばしてしまいそうな細い糸口を、シェーナは注意して拾っていった。
1回目ならストーリーに気をとられてひっかかりもしなかった、セリフのはしばし。重くなりすぎないようにさらりと描かれた、心情の底にひそむもの ―― それはたしかに、ラブレターだった。とはいえ、書いたとしても投函されることのない (もしもらったら100%困惑してしまう) 類いのアレである。
―― ほんとうなら、だれにもじゃまされないところに、きみをさらって、にげたかった。
―― もし、かなわないのならば、なにもいらない。
―― ぼくときみをひきはなす、このくにが、にくい。
―― きみといっしょにいきていけないなら、このくにをほろぼして、ぼくもいっしょにしんでしまいたいんだ。
―― それでも、きみだけは、しあわせになって。
ベタだなあ、とシェーナはつぶやき、にじみ出てくる涙をぬぐった。まさしく 『どん引く』 『悶絶もの』 である。それがわかっているからたいていの人が、明るく楽しい未来を生きるためにどこかでふんぎりをつけて捨て去ってしまうような…… こんな想いを後生大事に数十年もかかえて生きているとしたら、ほかのものはパセリになってしまって当然だ、とシェーナは思った。
「やっぱり、どうジタバタしたって好きになってもらえないじゃん…… 」
「そうかしら? 」
明るい声に顔を上げると、読書室の戸口からルーナ・シー女史が顔をのぞかせていた。




