6-3. 婚約者の身バレは偶然に(3)
【おっ奥様っ! どうして急に、ユーベルの本なんか!? も、もしやシー先生への対抗意識で、夜のお勉強をなさろうと……? けれど、あれは主に男性向けなのです、奥様っ! 女性向けならシー先生のお色気小説のほうが…… なんてオススメすべきでしょうか!? きゃ、さすがに恥ずかしいのですっ! 】
ものすごい勢いでまくしたてられたアライダの心の声からもわかるとおり、 『ユーベル先生』 はおもに男性向けのエロ小説を書く人である。
ただのエロ小説ではない。いまやルーナ王国全男性のバイブルとなっているほどのスゴいものである。ただしジャンルはひたすらノーマルにひとりの女性を愛でつくすものであるため、とんでもなくイヤらしいが女性からの評判も悪くはない。なんでもユーベル先生のおかげで身勝手でひとりよがりなナニをする男性が減ったのだとか。 ―― ちなみにシェーナは読んだことがないが、ハインツ王太子がこっそり隠し持っていたことは知っている。
それはさておき、この心の声から察するに、どうやらアライダは公爵がルーナ・シー女史から 『ユーベル先生』 と呼ばれていることを知らないようだ。
(もしかして、公爵は本当にあのユーベル・フォイトマンで、家の人には秘密にしている……? )
もしそうならば、ここでバラしてしまっては申し訳ない、とシェーナは思った。
―― けれど、確認はしたい。もちろんまだ 『小説家ユーベル = 公爵』 とは決めつけられないし、ユーベルの著書を読んだところで、それがわかるとも限らないが…… シェーナは、少しでも手がかりがほしかったのだ。
「いえあのアライダさん。夜のお勉強とかじゃなくてですね…… そうそう、ちょっと、近代史のお勉強ですよ。ほら、マキナが王国だった時代をベースにした普通の恋愛もので、なぜか最近になって新聞の書評欄で酷評されていたのがあるじゃないですか。ユーベルのエロと比べれば平凡の極み、とかなんとか」
「ああ、たしか…… 『アーヴェ・ガランサス・ニヴァリス』 でしたっけ。図書館にもございますよ」
「よく覚えてますね」
「読書好きな奥様の侍女としては、当然のことでございます」 【忘れるわけがございませんとも! 月刊セレナで連載中は、毎月それは待ち遠しかったのですよ! ふんすっ】
「えっまさかのリアルタイム読…… いえ、なんでもないです。じゃあちょっと今から、図書館に行ってもいいですか? 」
「あの、奥様。命令されればいいのですよ? 奥様なのですから…… 」
「んー慣れたら、考えてみますね」
たぶん慣れても無理だろうな、とシェーナが考えている間に、アライダが御者に行き先の変更を告げ、やがて馬車はゆっくりと、夕陽に染まった大きな建物の前で止まった。
図書館とはいっても、公爵家のそれは一般に公開しているものではない。歴代の当主が広く書画を蒐集した結果、保管庫が大きくなったものである。貴重な文献や版画が多くほかの王族も閲覧にくるため、専任の係員がついて過ごしやすいように体裁が整えられ、図書館と呼ばれるようになったのだ。
入口で係員に挨拶すると、アライダは 「のちほどお迎えに上がりますので、ごゆっくり」 と言いおいて帰っていった。天井まで届く書棚が並ぶホールは、シェーナひとりだとやたらとしんとして、寂しく感じられる。そこを通り抜けると、窓の大きくとってある小部屋だ。ルーナ王国でここ数十年のうちに盛り上がりを見せた大衆小説が集められており、入口付近のラックには最新の月刊誌や新聞も並んでいる。
この部屋のソファに埋もれてルーナ・シー女史の恋愛小説を読みふけるのがシェーナの楽しみだったが、今日は違う。
「ユーベル、ユーベル…… あった」
代表作はエロい美女を溺愛するあまり時・場所を問わずに日夜元気にやりまくるだけの話 『ネーニア・リィラティヌス』 である。勇気を出して手にとってみたものの、シェーナは最初の20ページほどでお腹いっぱいになってしまった。
ついでに、不安になった。もし公爵がユーベル先生だったとして、本心ではこの小説のレベルの美女を求めているとしたら…… 美しさも胸と尻の大きさも奔放さも淫乱さも、とてもシェーナには追いつかない。
(そうよね。メインディッシュっていうのは、こんな妖艶な美女のことを言うんだよね。わたしには、パセリがお似合い…… かな)
若干しょんぼりといじけながらシェーナは 『ネーニア・リィラティヌス』 を書棚に戻し、安全パイであるほうの1冊に手を伸ばした。
『アーヴェ・ガランサス・ニヴァリス』 ―― ユーベル作品では唯一の、エロなしヒストリカル悲恋ものである。
舞台背景はマキナ王国政変前のルーナ王国を模したと思われる、ポエナという国。幼馴染みで婚約関係にあったロレッタ王女と公爵令息アレクトが、隣国との政略婚により関係を引き裂かれる。相思相愛であったロレッタ王女とアレクトは抵抗するものの、どうにもならない。婚約が整う直前、ふたりはついに駆け落ちを決行する。
―― 公爵は、小説家のユーベル・フォイトマンなのか。そのヒントを得るために読みはじめたはずが、シェーナはいつの間にか物語に引き込まれていた。共感したのはロレッタよりもむしろ、アレクトのほうである。
公爵令息とはいえまだ自身の感情に素直で政治的な意識の低い少年は、愚かといえば愚かだが、その愚かさも含めてシェーナに近いような気がしていた。国や政治といった巨大なものを前にしても、自己都合を押し通して駆け落ちを実行するシーンでは、シェーナは完全にアレクトを応援していた。現実ならば諦めるしかないし、実際にシェーナも王太子から婚約破棄を打診されたその日のうちにはもう諦めていたけれど…… 物語の中でまでそうする必要はない。
だが、物語はご都合主義では終わらなかった。駆け落ちはいったんは成功したものの、そのために国は混迷する。終盤、貧しい民に親切にされたことがきっかけで、ロレッタは決心を変える。身をもっても自国の民を守るのが己のつとめと思い直し、隣国との婚約に同意するのである。
隣国に嫁ぐ日、ロレッタとアレクトはそれぞれ自身の紋章を刺繍したハンカチを交換して別れる。ロレッタの紋章はガランサス・ニヴァリス。
ロレッタは言う。
「お願い、アレクト。もしわたくしのことをまだ想ってくださるなら、この国を守ってね。この国の森はわたくしの髪、湖はわたくしの瞳。民は、わたくしの心臓よ」
「私の余生のすべてで、そうするよ」 とアレクトは答え、ふたりは堅い誓いをかわして別れる ――
最近のわたしは泣き虫だ、とシェーナは思いながら、まぶたをぬぐった。『余生』 という言葉が胸に刺さっている。聖女でなくなることが決まったとき、同じことを考えた。残りの人生は余生なのだと。なすべきことをしつくしたあと、晴れ晴れと迎える余生ではない。一生懸命がんばったつもりだったのに結局はポンコツで、失敗ばかりして、なにもできなくて…… それでも一方的に終わりがきてしまったから、なんとかして消費するしかない、残りの、長すぎる余りものの人生だ。
物語の最後は、現実の世界ではマキナで起こった政変が、アレクトたちの国ポエナで起こって終わる。抑圧されてきた民衆の圧倒的な暴力で王家が滅ぶのだ。アレクトはそのころ、ロレッタとの約束を守るため王国側の軍人になっていたが、国を裏切って民衆についたために処刑される。処刑後に彼の遺体を改めたところ、ふところから血に染まったガランサス・ニヴァリスのハンカチが出てきた。
一方でロレッタは隣国で、アレクトへの想いを胸に秘めつつも王妃として幸せな日々を送っている。ポエナの政変の報が届いたのはちょうどアレクトが処刑された日であった。ロレッタは肌身離さず持っているアレクトの紋章入りのハンカチをこっそり取り出して眺め彼の無事を祈るが、幼い子どもたちが駆け寄ってきて母親の顔に戻ったところでフィナーレ ――
「奥様、読書中に申し訳のうございますが、もうじき晩餐の支度が整います」
扉の外からアライダの声がして、シェーナは現実に引き戻された。すっかり没頭してしまっていたのだ。
「もしよろしければ、借りていかれてはいかがでしょうか。大衆小説は館外に持ち出し可能でございますので」
「大丈夫、ちょうど読み終わったところですから ―― でも、借りようかな。もう一度ゆっくり読みたいかも」
「かしこまりました。わたくしが運びますね」
本のタイトルを確認したアライダの心の声が 【やはり奥様もハマっちゃったのですね! わかりますとも! ふんすっ】 と叫んだ。
【わたくしも、連載開始当初は坊っちゃまの破談に寄せている話なので念のためにチェックしていただけのはずだったのですよ! なのに、すぐに続きが楽しみになってしまったという、ね! 】
「え…… 公爵が、破談? 」
「ああ、奥様もおわかりになりました? お若いころの坊っちゃまに、かなりかぶせているのでございますよ、この話は」
「アレクトのモデルが公爵っていうことですか? かなり、設定が違うと思いますけど…… 」
「もう少し似せていたら、出版社にクレームを入れるところでしたよ、まったく。そこは上手くかわしていますけれど、著者はかなりの事情通と思われます。いったい何者なんでしょうね、ユーベル・フォイトマン」
それはもしかしたらお宅の坊っちゃまのことですよ、とシェーナは思ったが、それよりも気になるのはもちろん 『公爵若きころの破談』 のほうである。
本邸へ帰る馬車の中でたずねると、アライダは意外とあっさりと教えてくれた。