6-2. 婚約者の身バレは偶然に(2)
温室とはいっても公爵家のそれは、室内庭園のような趣であった。小川が流れ、岩場の珍しい草花の周囲には、ルーナ王国ではまったく見かけない鮮やかな色あいの蝶がたわむれている。中央には、虹色の水しぶきをあげて落ちる滝。
その涼しげな音にまじって、男女の話し声と笑い声が延々と響く。そちらへ向かってシェーナはそろそろと歩き続けた。頭の中でこれからする挨拶を繰り返しつつ、聞こえてくる声をたどっていると、不意に視界が開けた。
庭園より多少実用的な、ハーブの畑だ。その向こうに置かれたテーブルで、公爵とルーナ・シー女史が談笑しているのが見えた。ふたりともがよくくつろいでいるのが、遠目にもわかる ―― 長年付き合ってきた友人どうしの気安さなのだろう。
堂々としていればいい、とシェーナは先程のアライダのことばを反芻した。
(堂々と、堂々と…… って、なんでわたし、こんなにコソコソしてるの……! )
己にツッコミを入れてみても、なんかもうこの親しげな空気を壊すのがこわい。やっぱり絶対に 『おじゃま虫』 と思われそう、とおじけづいてしまう。
そのくせ、会話の内容は気になってつい足が止まりがちだし、目立たない物陰を探しがちだ。いけない、と考えながらもシェーナは、背の高いジャスミンの棚の陰に身をひそめた。無数に咲く白い花がかぐわしい匂いを放っているが、今はそれどころではない。なぜなら、ふたりの話はちょうど、このたびのシェーナとの婚約に及んでいたのだから。
「ロティとグルになって、シェーナの婚約者候補に僕を推薦したんだって? 」
「あらグルだなんて。王妃殿下に聞かれたから答えただけよ。あなたなら適任、ってね、ユーベル先生。受けていただけて良かったわ」
「…… 彼女が可哀想だとは思わなかった? 」
「いいえ、まったく。だってあなたはいい男ですもの」
冗談めかしてころころと笑っているが、ルーナ・シー女史は心の底からそう信じているようで、シェーナはほっと息をついた。
―― 少なくとも彼女の心の声には、悪意や嫉妬は混ざっていない。
「それに、今さらですもの。いくら引きずってたって、あなたもそこまで傷つきはしないでしょ」
「…… 僕が? なにに傷つくというんだい? 」
公爵の心の声は、なにか音を立てていたが、はっきりとはわかりづらかった。この感じはマイヤーに似ている、とシェーナは思った。あの執事代行も、己の心にふたをすることに慣れていた。さわられたくないのだ。人として普通の仮面をつけて生活するために、自分でもどうしようもないなにかを、自分自身ですら触れられぬように封印している ――
だが、ルーナ・シー女史は容赦なかった。
「ああら。まさか、ひとに聞かなければおわかりになりませんの、ユーベル先生? そんなことだから、わたくしごとき小娘に追い抜かされるのでしてよ? 」 【ふっ、ふふふふふ…… 先月の読者アンケート結果…… ふふふふふ。ざまぁご覧なさい!? おーほほほほ! 】
「別にかまわないよ、僕は。むしろ、あのイイ子ちゃんな駄文しか書けなかったお嬢ちゃんがよくここまで成長したものと、感慨深いねえ」 【長い余生も、多少の役には立つものだね…… きみに会えたことは、本当に良かったよ】
「まあね。そのあたりは、おかげさま、と申し上げておこうかしら。いい踏み台になってくださって感謝するわ」 【おーほほほほ! 所詮は負け犬、せいぜい吠えるがよくってよ、ユーベル先生! ……という割には吠えないわね? もっと悔しそうにしてくれたら気分いいのに! 】
そろそろおいとまするわね、とルーナ・シー女史は軽やかに立ち上がった。
「はやいね。なにも書き物は持ってこなかったのかい? 」
「ええ。今日はもともと、別の用事で外出の予定でしたの。そうそう、ここへは、忘れるところだったけれど忠告にきたのよ」
「忠告? 女性からのお誘いならもう、断っているよ? お堅いご令嬢をベタベタな口説きでからかったりもしていない。なにしろ、夜会もお茶会もすべて欠席しているんだからね」
「まあご立派。とってもお偉くてよ、ユーベル先生」
なぜか自慢げな公爵に対し、いかにもおざなりなほめことばを投げかけてから、ルーナ・シー女史はずばりと切り出した。
「あなたがその昔わたくしにプロポーズした件。早めに、シェーナちゃんに言い訳しといたほうがいいわよ? 」
「んっ、ぐ、けふんけふんっ」
飲もうとしていたハーブティーにむせかけて、公爵はギリギリで止めた。珍しく慌てている。
「今日はほら、うちの娘とシェーナちゃんがお茶しに行ったでしょ? 絶対にばらしてると思うのよね、あの子」
「それなら、きみからシェーナに言ってくれないかな? なにもなかったんだってね」
「あら珍しく弱気じゃないの? 女性は口説くのが礼儀だと信じてる人とも思えない」
「…… 彼女をガッカリさせずに説明できる自信がないんだよ。ひどい目に遭ったあとに現れた婚約者が実は鬼畜でした、じゃ気の毒すぎるだろう? 」
華やかな笑い声が温室に響いた。
「本当のことなんだから、しかたないでしょう? あのときのユーベル先生ったら、本当にヒトデナシだったものね」
「僕なりには真剣だったし、悪い取引とは思っていなかったよ。今でも、きっと僕たちはうまくやっていけただろうと思っている…… けど、あのプロポーズのしかたは、あまりよくなかった」
「ふふふ。まさか今ごろ、そんな反省を聞かせていただけるだなんて」
公爵の手が、くすくす笑っている白く柔らかな頬につっと伸び、耳に口が寄せられる。実際の声は聞こえなかったが、心の声のほうは聞こえた。
【あのときは、本当にすまなかったね】
「いいのよ、昔のことですもの。かわりにわたくしは息抜きできる場所を得られたわけですから、悪くはないわ」
「うちで息抜きしようなんて考えるのは、今も昔もきみくらいだけどね」
「もったいないこと。こんなに素敵なところなのに」
ふたりはなにごとも無かったかのように笑みかわした。さて、とルーナ・シー女史がふたたび立ち上がる。
「とにかくね、ユーベル先生。それはきちんとご自分でおっしゃらなければ」
「…… こんなに頼んでても、ダメ? 」
「だーめ。がんばってね」
大袈裟に頭をかかえてみせる公爵にひらひらと手を振り、未だ少女めいた面差しの貴婦人はダンスのステップのように軽やかで優雅な足取りで、シェーナの前を通りすぎていった。
※※※
「それで、いかがでしたでしょうか、奥様」
「…… ダメでした」
「まあ! なんてことでしょう! 」 【まさかなのです! シー先生だけは信頼していましたのに! あの女もそのあたりの女狐と変わらなかったのですね! ふんすっ】
「あ、違うんですアライダさん。そうでなくてですね、自分の心の声に負けてダメでした…… 」
「奥様のほうが断然お若くて、かわいらしゅうございますが? 」 【それはシー先生はたしかに、童顔ぎみで若々しく見えますが…… しょせんは子持ちの既婚者なのです! 】
「いえ、そのあたりはわきまえていますんで、無理しないでくださいね、アライダさん。そうでなくてですね…… 」
ルーナ・シー女史にも公爵にも挨拶することなく温室をこっそりあとにしたシェーナは、馬車に乗り込むと盛大に落ち込んだ。両手で顔をおおって肩を落とす、その頭の中をめぐるセリフはただひとつ。
「…… 単なる謝罪であそこまで接近する必要あるっ!? 」
「まあそこは、あの坊っちゃまでございますので…… 」
「あとなに? なんであのひとには、なにげに甘えたりしてるわけ? わたしには甘やかしてくるいっぽうのくせに! 」
「まあなんといいますか、数少ない気のおけないご友人ですから…… 」
「…… ですよね。わかってます」
ひととおりのモヤモヤを心置きなくシャウトして、シェーナはふう、と息をついた。
「公爵にとってはあれで普通、ってことはわかったんです。わたしが勝手に、とってもイライラしちゃっただけで」
「かしこまりました。今後は、奥様以外の女性には接近禁止かつ、甘えるならば奥様に甘えますよう、坊っちゃまにしかと申し上げておきます。ですので、どうぞご安心くださいませ」 【ふんすふんすふんすっ】
「え、いえ、そこまでしなくても……? 」
「いえ。よくお考えくださいませ。それらを許していて今後、幸せな結婚生活になるとお思いでしょうか? 」 【もしクライセンがそのような感じでしたら! わたくし、殴っておりますわっ! 】
「う…… 物理的にはじゅうぶん幸せですし、あれだけ優しくしてもらって幸せじゃないとかいうと、ぜいたくすぎて神罰くだるレベルでは…… 」
口ごもるシェーナの耳の奥では、ルーナ・シー女史が最後に残していった心の声がこだましている。【ユーベル先生、あなたもそろそろ、幸せになっていいのよ】 ―― 彼がどんな過去をたどってきたのかは、まだよく知らない。ともかくもだがしかし、嫉妬も打算もなく純粋に友だちを思いやるその気持ちこそが正解なのだと、シェーナは思ってしまった。己が心から愛されているかとか、そんなことばかりが気になって婚約者の幸せを願ったりしたことのなかった身勝手さが醜く見えて、恥ずかしかった。
「あれも公爵の習性なんでしょうから、制限するのもお気の毒でしょう? わたしが慣れたほうがいいかな、って思ったんですけど」
「なにをおっしゃいます、奥様」 【ああもう、奥様のほうが良い子すぎて気の毒なのですよ! ビシバシ制限するくらいでちょうどなのです! 男などという生物は甘やかすとつけあがるのですからっ】
アライダはまっすぐにシェーナを見て、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を発した。
「奥様。女性が結婚するのは、家のためでも世間体のためでもありません。幸せになるためなのですよ」
「そのセリフって…… 」
たしか、ルーナ・シー女史の小説に出てくるあり得ないほど都合の良い救済美形が言っていたものだ。
アライダさんも読んでたんですね、と問うと、この外見いかにもお堅い侍女長の顔は、珍しいほどに真っ赤になってしまった。シェーナの心がふっと凪いで、軽くなる。
―― 今回の件は、公爵やルーナ・シー女史がことさらに悪かったわけではないけれど、それは、シェーナだって同じなのだ。
小説といえばもうひとつ、シェーナには気になることがあった ―― ルーナ・シー女史が公爵のことを 『ユーベル先生』 と呼んでいたことだ。
(まさか、公爵があの……? 会話はそれっぽかったよね。でも、単なるニックネームかもしれないし…… )
考え込むシェーナ。ニックネーム、という線はじゅうぶんにあり得る。だって公爵が、もしシェーナが多少耳にしたことのある 『ユーベル先生』 その人だとしたら、びっくりするよりも似合いすぎて笑えそうだからだ。
「どうされました、奥様」
「あの、アライダさん。図書館にユーベル・フォイトマンの本ってありましたっけ? 」
「はい、ございますが……」
怪訝そうに答えるアライダの心の声は、ものすごく動揺していた。




