6-1. 婚約者の身バレは偶然に(1)
室内は、疲労を軽減してリフレッシュをうながすさわやかなミントとレモングラスの香り ―― 背中をメイドたちに丁寧にマッサージしてもらいながら、シェーナは顔をしかめた。
夕方のダンスレッスンは流れて、公爵は来客、シェーナは侍女長アライダ自慢のエステタイム。エステ自体は文句なく気持ちいいものであったが、それを受けるシェーナの胸からは、モヤモヤが消えてくれないのである。
せっかく 『結婚=パセリでいいじゃない。かくなる上は公爵家の地位と権力とお金を利用しまくって貧民街を幸せにするんだから』 と振っ切れたところだったのに、タイミング悪くも公爵のもとプロポーズ相手である、面白くてキレイな女がきてしまった ―― すると、公爵はいかにも当然というようにシェーナとのダンスレッスンをキャンセル、彼女の応対を優先。その前に一応、シェーナに 『いいかい? 』 ときいてはくれた。だが、そのときの彼の心の声がけっこう嬉しそうだったせいもあり、またシェーナ自身が 『ダメ、って言うとしたらいったい何様よ、わたし 』 とつい思ってしまったせいもあり…… つまりシェーナは、めちゃくちゃ良い子ちゃん面してこう言ってしまったのだ。
『もちろん、どうぞ。そんなこと、わたしなんかにいちいちきかなくても良いんですよ。せっかく、お友達がこられているのに』
『いや、それはきくよ。君のほうが大切だからね』
公爵はこう答えてくれたわけだが、シェーナは 『そんなに気をつかわないでくださいね』 なんてニコニコしてみせつつ、内心ではしっかりツッコミを入れてしまっていた。
【わたしのほうが本気で大切なら、サクサク断ってくださいよ。そんなひと】
―― 我ながらイヤな子だと落ち込み、かつ、公爵が客にどんな態度で接するのだろうと気になって、どれほど肩や背中をもんでもらっても気はまったく晴れない。シェーナはつい、ふかぶかとタメイキをついた。
「あの、奥様。シー先生は既婚者ですから」
「知ってますよ、アライダさん」
「坊っちゃまとは珍しくも、色恋一切なしのただのお友達でして」
「プロポーズしたんですよね? 」
「昔の話でございますから…… 」
「イソイソと応対して何時間でもおしゃべりできる仲なんですよね? 」
「お言葉ですが奥様。坊っちゃまは、誰とでも2、3日は余裕で楽しくおしゃべりできるかたですとも! 」
「知ってます」
アライダの妙に焦った態度と 【奥様が嫉妬されてる……!? 違うんですったらほんとうに! 】 という心の声から、シェーナは己が相当とがった態度をとっていることを知った。これではいけない。
「ちょっと様子を見て…… じゃなくて、私もご挨拶してきます。親友のお母様ですし、おかしくはないですよね? 」
「もちろんですとも! 」 【今さらあのおふたりがどーのこーのは絶対にないと思いますけれど、新婚家庭に遠慮がないのはいただけませんものね! 新妻のご威光をばっちりと見せつけてあげてくださいませ! ふんすっ】
「………… じゃ、いってきますね」
新妻の威光なんてあるんだろうか。割って入って挨拶なんてしたら、表面にこやかに内心で 【おじゃま虫だね。見苦しい】 とか言われないだろうか ――
決意したそばから不安になるシェーナに、アライダが用意したのは柔らかなカラシ色のアフタヌーンドレスだった。ナチュラルなラインのスカートに細い糸で丹念に編まれたレースのボレロを合わせた気張らないけどさりげなくおしゃれなワンピースは、初めてデートしたドレス店 『イリス&ヴェーナ』 で公爵が見立ててくれたものだ。
『きみの髪にも瞳にもよく似合うよ』
公爵がそう言ってくれたとき、シェーナは、この人まじに遊び慣れてるんだなと思っただけだった。でも今考えてみれば、嬉しくもあったのだ。聖女の色である白でなく、シェーナに似合う色を選んでもらったのは、初めてだったから。
―― 悪すぎる前評判や、『結婚はパセリみたいなもの』 『溺愛しとけば喜ぶだろう』 などのちょっと受け入れがたい心の声を聞いて公爵にナメられているのだと決めつけていたから、素直に喜べなかったのである。
せっかく見せてもらっている好意に、しょっぱい対応をしていたのは、シェーナのほうだったのかもしれない。それでも公爵は、変わらずに過剰といえるほどの溺愛っぷりを示してくれているのだ ――
シェーナがドレスを着ると、アライダがすかさず、髪を整えて化粧を施してくれる。気のおけない来客にふさわしく、高すぎない位置での編み込みの髪型と濃すぎないメイクは、ドレスと相まって年若い女性の初々しさをよく引き出していた。
「上品でかわいらしさもあって、本当によくお似合いですよ、奥様」
「ありがとう、アライダさん…… あの」
「はい、奥様。いかがされました? 」
「表面、大切にしてもらっていたら、気持ちまでほしがるのはぜいたくですよね、やっぱり。そんなこと考えられたら、重くてウザいですよね? 」
「それは、奥様。ひとそれぞれですからねえ」
「わたし、大体のことは割りきれるほうなはずなんですけど…… 最近、どうしても余りが出ちゃう感じで」
「ですから、それは人それぞれかと存じますよ。割りきれるのがお好きなかたばかりでは、ないでしょう? 」
「…… そうですかね? 」
「僭越ながらわたくしは、坊っちゃまには奥様でよかったと思っておりますよ」 【その辺の 『やっぱり金と地位と権力よね♡ 』 とかいうスレた女狐でなくて、こんな普通のお嬢さんで本当に良かったのですよ! マナーも教養も社交も、これからガンガン教育して差し上げればなんとかなりますが、もとの性格だけはなおせませんからね! 】
「ひえええ…… 」 【ごめん思った! ついさっき思っちゃってました! 金と地位と権力よね、ってガッツリと! 反省するから、ガンガン教育するのだけは許して】
「ですから謙遜されなくても、奥様は奥様で堂々としていらしてくださいませ。さて、髪飾りはこちらのマーガレットにいたしましょうか。気張った感じがなくていいかと存じますけれど…… 」
「ええ、そうします。ありがとうございます」
アライダ内心の鬼レッスン発言には恐怖を覚えてしまったものの、励ましには勇気づけられたシェーナ。ひとつ深呼吸して大丈夫、と己に言い聞かせた。公爵とルーナ・シー女史の間に割って入って挨拶しても、公爵なら少なくとも外面は大変に優しくしてくれるはずだ。とりあえずは、それだけでじゅうぶんだと思おう。
「じゃ、行きましょうか、アライダさん」
「はい、奥様…… あの、あとひとつ」
「なんですか?」
「坊っちゃまも、意外と引きずるタイプなんですよ。実はけっこう面倒なところがあるんです」
「…… ああ、そうですよね」
シェーナはほほえんでいた。たしかに、もし公爵が、シェーナの推測どおりにプロポーズでフラれた件を16年も引きずっているとしたら …… 『意外と』 どころか 『とんでもなく』 面倒なタイプ、と言ってもいいだろう。
―― これまでシェーナは、彼の心が自分にないことばかりを気にしていて、彼が本当はどんな性格なのかと考えたことなど、なかった。彼のことを知ろうと思ったこともなかった。
心の声が聞こえるからと、それに甘えていたところもある。だが、心の声が全てなわけではない。
(どうして、忘れてたのかな)
貧民街にいたころは、他人がよほど酷いことを考えている場合以外はその人の言動のほうを、シェーナは信用することにしていた。人の性格やそうありたい自分というものは、思考よりもむしろ、言動のほうにあらわれるものだから。
だが聖女になって、貴族という本音と建前があまりにも違いすぎる人たちと接しているうちにいつのまにか、心の声だけが唯一の真実だと思い込むようになってしまっていたのだ。よく考えれば人は、それと気づかぬまま自分自身にさえ嘘をついていることだって往々にしてあるというのに。
「結婚するのならわたしも、もっと公爵のことを知らなければいけませんね。女たらしの悪評と、とっても優しいこと以外にも」
「奥様、そうはおっしゃいましても、ほかのかたよりは、もうずいぶんご存知のはずですよ」 【やっと坊っちゃまのことを真剣に考えてくださるおかたが…… やはり、このかたが奥様で本当に良かったのです! ふんすっ】
「ありがとう、アライダさん」 【ごめんなさい。お金と地位と権力狙いはいったん保留にするから。やっぱり心底からおとす方向で…… って、無理ぃぃぃ…… ううん。とりあえず、がんばろ…… でも、なにをどうがんばればいいのかがさっぱり、なんだけどね…… 】
シェーナはアライダと、馬車で温室に向かった。公爵家の本邸からこぢんまりした森を抜けた先にあるそこはルーナ・シー女史のお気に入りの場所であり、公爵家を訪れるときは必ずそこで作品の執筆をしているらしい。彼女は公爵家フリーパスなのだと聞いて、またモヤモヤしてしまうシェーナである。
―― 彼女が単に親友の母でかつ尊敬する小説家でしかなかったときは、こんなイヤな気持ちになることなんてなかったのに。
「ですが奥様。シー先生には見た目が美麗で中身がヤンデレなご夫君もおられますので、とても浮気は無理かと存じます」
「それも聞いてますけれど…… じゃあなんで、フリーパス状態で入り浸ってるんですかね? 」
「息抜きのためでございます! 」 【なにしろあの旦那様ときたら、四六時中ベッタリなんですから! 以前にシー先生がウチに家出してきたときなど、なんとウチの使用人に化けて連れ戻しにきたんですのよ!? 】
「ええっ、本当!? 」 【それって、公爵家のセキュリティーがアレなのかヤンデレのパワーがすごいのか、どっち? 】
「誓って本当でございます! ですから奥様、なにもご心配はいりませんのでね、堂々としていらっしゃいませ」 【絶対ないですから。なにかあったら殺されますから、坊っちゃまが】
「…… わかりました 」 【そっか。たしかメイリーちゃんも言ってたっけ。お父様が猛毒の砒素染料を発注するときの目がマジ、って…… 】
アライダには馬車で待ってもらい、シェーナひとりで温室に入った。滝の音に混じって、軽快なふたりの笑い声が聞こえる。
(楽しいんだわ。わたしなんか、いなくてもかまわないんだ)
ひがみっぽいのは好きじゃないはずなのに、どうしても思考が 『わたしはおじゃま虫』 なほうに片寄るのを止められないまま、シェーナはそろそろと歩を進めた。




