4-1. 新旧婚約者の対面は平和のうちに(1)
「失礼いたします、奥様。おはようございます」
呼び鈴を待ち構えていたように寝室に入ってきたのは、ガラス製のティーセットと菓子ののった盆だの洗顔用のタライだのを捧げ持ったメイドたちを従えた、アライダだった。本人は両手に柔らかなタオルと部屋着、肌や髪のお手入れ用品がこまごま入ったカゴを抱えている。
「本日のおめざは、ラズベリージャムのクッキーとオレンジミントのお茶でございます」
「え…… その、ありがとうございます。んで、おはようございます」
「今朝は特に予定はございませんので、ごゆるりとお支度くださいませ」
「はあ…… わかりました…… 」
アライダは、とても張り切っていた。昨夜のエステでの会話からシェーナの好みをつかみ、気に入りそうな菓子とハーブティーを用意。洗顔のタライは2つ。1つは牛乳、1つは薔薇の花を浮かべたぬるま湯である。
【完璧! メイドの数は少なくても完璧なのです! 奥様もきっとご満足されるはずです! ふんすっ】
荒い鼻息入りの心の声をもらされては、粛々と従うほかはない。
甘酸っぱいジャムが美味しいサクサクのクッキーと爽やかな香りのハーブティーをじっくり味わい、洗顔と着替えと肌と髪の手入れを済ませたあと、シェーナはやっと、聞きたかったことを聞いた。
「あの、アライダさん。公爵はどちらに? 」
「旦那様なら今日は休暇で朝から図書館にこもっておられるようでございますが」
「図書館? 公爵も読書好きでいらっしゃるんですか? 」
「いえ、さあ? 読書しておられるところは、あまり拝見したことがございませんが…… 」
アライダによると、本邸にある公爵の自室は執務室であり、プライベートの時間を過ごすときには図書館の1室にこもるらしい。広い公爵邸のなかでそこだけは、誰も立ち入り禁止なのだとか。
「初夜明けの奥様を放っておいてなさることじゃございませんよね。坊っちゃまには、あとでよくよく、言い聞かせておきますから! 」 【お願いですからこの結婚やっぱやめる、とか言わないでくださいね奥様! 奥様だけがわたくしの希望なんですからっ…… 】
「いえ、いいですよ、アライダさん。公爵だって、ひとりになりたいときくらいあるでしょうから」
「……。あの、奥様。もしかして、その、痛かったりとか短かったりとか長過ぎたりとか…… あるいはまさかとは思いますが未遂でしたとか…… なのでございましょうか? 」
「…… へ? 」
「あっ、答えにくい質問を、大変失礼いたしました。ええとですね、奥様。いくら片方が熟練者でも、片方が初めてのときにはうまくいかないことも多々ございますようでございますので…… あの、その一晩の経験だけで決めつけられませんように…… その、うまくいけば大変に素晴らしいものでございますので、できましたら次も、参戦していただけましたら大変にありがとう存じますのですが…… 」
めちゃくちゃ焦った 【あの坊っちゃまが…… 初めてじゃないかしら!? 奥様を放って雲隠れしちゃいますとは、きっとかなりショックだったのですね。それとなくお慰めするよう、あとでクライセンに申しておかなければ! 】 というアライダの心の声と現実のセリフをあわせてみてやっと、シェーナは相手が何を言わんとしているのかを悟った。
(これは…… はい、って返事していいのかどうか迷うやつ)
未遂といえばそれがいちばん近いが、そもそもが次戦どころか初戦も行われていない。でもこれを言ってしまえば、アライダが 『旦那様・奥様の初夜をコッソリ推進したい委員会』 を作ること確実だろう。
迷った末、シェーナは話題を変えることにした。
「そうそう、図書館! 今日とくに用事がないなら、わたしも、ぜひ図書館へ行ってみたいです。ええと、アライダさんオススメの本はなんでしたっけ? 」
「それでしたら、朝食ののちにリストをお渡ししましょう。昨日のうちに作っておきましたので」
「仕事早っ」
「そのようなことはございません」 【ああ奥様の感心された眼差し……ああこの充実感! これです! これですわ! ふんすっ】
「すごいですね、アライダさん」
「とんでもないことでございます。侍女として当然でございますので」 【ふんすっ! ふんすっ! ふんすっ! 】
アライダの表面はあくまでお堅く上品だが、内心の喜びようと鼻息はすごかった。内面を知れば嫌いになれない ―― 世の中そんな人ばかりならいいのに、と思わずにいられないシェーナである。
それから朝食までは、あっという間だった。良いお天気だからと、本邸の裏庭に出たテラスに整えられた席をなでるようにふくそよ風には、ほのかに花の香りが含まれている。きけば離れのほうには小さな農場があり、今はラベンダー畑が盛りなのだそうだ。テーブルの上には、まだ温かな焼きたてのパンや新鮮なサラダ、チーズやベーコンエッグといった朝食らしいメニューがずらりと並び、いかにも美味しそうだ。
そしてその席にはなんと、先客がいた。艶やかな虹色の髪と湖の青の瞳、全体に花の飾りをあしらった派手なドレスを着こなしたその美女は、シェーナを見つけると嬉しそうに手を振ってくれた。元婚約者の姉、ルーナ王国王女にして侯爵夫人のリーゼロッテ ―― コスプレをして街にお忍びに出るのが、若き頃からの趣味。ただし最近は、14歳になる息子が恥ずかしがって 『いい加減にしてください母上! 』 と怒るので、彼が見ていないときしかしない ―― である。ちなみに今日の衣装は、季節外れだが春の女神フローラだろう。
「シェーナちゃん、おはよう。今朝の王宮はとっても平和だったけれど、夜中には悩める若者のうめき声が延々と漏れ聞こえていたそうよ」
「リーゼロッテ様!? こんな朝早くから、どうさたんですか? その若者ってもしかして、また自家撞着に陥って思考の迷路を延々ループされてる王太子殿下ですか? 」
リーゼロッテは首をややかたむけて、にっこり微笑んだ。 【よくあのバカ弟のことわかっているのよね。本当にいい子だわ、シェーナちゃん】 と心の声が言っている。だが十中八九、その自家撞着の原因を作ったのはパーティーでのシェーナの 『真実の愛』 発言で間違いないのだが。
―― ハインツ王子はたぶん、愛ではなく単なる政略で結婚しようとしている己を責め、己に対する言い訳を試み、その言い訳をまた、ずるいと責めて…… といった思考ループに陥っているのだろう。
変かもしれないけれど、そういうところも可愛かった、とシェーナはほほえましくなった。
「どなたか、ご気分をうまく変えて差し上げる方がいらっしゃるといいのですけど」
「それがあなたほど上手にできる人は、今のところはいないわね…… 本当に残念だわ」 【わたくしは反対だったのに、老害どもが。たしかにノエミ王女は大陸の国家バランスを崩す可能性のある爆弾 ―― 手元に置いて管理したいのはわかるけれど、その方法が結婚しかないなんて頭が古びてカチカチに干からびたパンよりもカチカチよね。とっとと引退すればいいのにカビも死滅した古パンどもが】
どうやらリーゼロッテは、姉王女という立場であるため公式には謝罪などできないぶん、シェーナのことを気にかけて様子を見に来てくれたようだった。
シェーナが礼をいうと、ごめんなさいね、とつぶやくような返事があった。【謝って済む話ではないけれどね。なのにこんな気軽に、ごめんなさい、ですって? 】 心の自分ツッコミがいかにも、ハインツ王太子のお姉さんらしい。
「リーゼロッテ様、あまり気にされないでください。仕方なかったんでしょう? ハインツ様は悪くないです」
「シェーナちゃんは大人ね。わたくしの弟とは大違い…… ところで、ラズールは?」
「ぶっ…… ごほごほごほっ。失礼しました」
公爵家の農場から直送されているという牛乳を飲んでいたシェーナが公爵の居所を尋ねられて慌ててむせてしまったのは、ちょうど昨夜のことを思い出していたからだ。
ハインツ王太子に対してこれだけ寛容でいられるのも、昨晩にたくさん泣いてスッキリしたおかげ…… と考えていたら、公爵の広い胸の感触などが急に蘇ってきて内心で赤面していたところに、程よいタイミングだったわけである。
「ラズールったら。同居2日目の新妻を朝から放置して、いったいなにをしているわけ? 」
「あの。まだ婚約中で、妻なわけでは」
「似たようなものでしょう。国王が婚約を命令されたんだから、結婚確定も同然ではないの」
今ちらっと心の声が 【老害No.1】 とか言っていた。穏やかな風貌とそれにぴったりの気さくで慈愛あふれる言動が国民に親しまれている王様にも、実の娘は辛辣だ。
「公爵なら、図書館のほうにいらっしゃるそうです」
「あら。では、昨日はなにもなかったのね。イヤがったらあっさり引いたんでしょ」
「なんでわかるんですか…… 」
「同じ年齢の王族どうしで長い付き合いだもの。あのね、ラズールは評判はとっても悪いけれど、本当は優しすぎるだけなのよ」
「その辺は大体わかりました」
「引いた以上はベタベタしないほうがいい、と判断しただけで、シェーナちゃんに冷たくしようと思っているわけではないのだと思うわ。仕事もあるしね」
「仕事? 軍人のですか? 」
「それは…… そうね、彼に直接聞いてごらんなさい」 【言いづらいのよねえ、なにしろアレだもの。けど、シェーナちゃんならきっと大丈夫】
どうやらシェーナの新たな婚約者は、公爵で海軍で、しかもなにやら口に出すのがためらわれる仕事をしているようだ。とっても気にはなるが、リーゼロッテが言う気がない以上は追及するわけにもいかない。
それからシェーナはリーゼロッテと別の話題でおしゃべりを楽しみつつ、朝食をしっかりと味わった。リーゼロッテによれば、公爵家の食事は王宮よりも食材が新鮮で美味しいのだとか。
さて、その別の話題とはなにか、といえば ―― 王太子の新たな婚約者。隣国の旧マキナ王家の血を引く、ノエミ王女の件である。なんと彼女は昨夜から、リーゼロッテの嫁ぎ先であるアテルスシルヴァ侯爵家の別荘に滞在しているそうだ。
「わたくしも一緒に別荘に泊まったのだけれど、ノエミちゃんったら、とんでもなく可愛いのよね」 【もうなに、なんなの? 幼女ってあんなに可愛かったかしら? わたくしが3歳のころとはくらべものにならないわぁ! 】
リーゼロッテは目を細めてノエミ王女の愛らしい幼女っぷりの数々を話してくれた。たしかにそれらの行状は、耳にするだけでもメロメロに悩殺されてしまいそうなものばかりである。
「やだもう! ノエミちゃんったら可愛すぎる……! 」
「でしょう? 本当にかわいいのよ! 実はね、ノエミちゃんもシェーナちゃんには会いたがっているのよ。もしシェーナちゃんさえ良ければ、これから一緒にどうかしら? 用事があるのならば無理はしないでね」
「いえ大丈夫です。行きます」
「即答ね。図書館はいいの? 」
「たぶん、図書館に行く機会はまだあるので」
「たぶん、ではなくて、確実に、よ? シェーナちゃん」
「正直いうと実感はないのですけれどね」
「実感なんてなくても、そうなるわよ」
「ですよね…… 」
なにしろ国王命令の婚約が簡単に覆るわけはないし 『逃すものか』 と張り切っている侍女長もいるのだから、図書館はいまや、気にはなってもまったく急ぐ必要のない案件である。
それに先ほどのリーゼロッテとの会話から、シェーナはあることに思い当たってもいた。
―― もし今日、リーゼロッテの誘いを断って図書館に行き、そこで公爵とはち合わせしてしまったら…… どういう顔をすればいいのか、まったくわからない ――
そんなわけで、シェーナは敵前逃亡をはかることにした。すなわち、朝食後にアライダが約束どおり持ってきた分厚いオススメ本リストを預かってリーゼロッテの馬車に乗り、アテルスシルヴァ侯爵の別荘に向かったのである。
馬車が動き出すと、リーゼロッテはノエミ王女を預かることになった経緯を、小さな声で説明しはじめた。
「 ―― ノエミ王女の目の前で、婚約破棄してみせたのがマズかったのよ…… 」