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生きることは自分を養うこと

いろいろなことをエッセイとして書いていきますが、

あくまでも私の考えであり、それは真理ではありません。

私が経験してきたこと、関わってきた人、様々な要因で私の今の価値観ができ、私の考えがあります。

読み手の皆さんに押し付ける気はありません。

私の話に「正しい/間違っている」ことなんて何もありません。

「良い/悪い」の話でもありません。

ご了承ください。

自殺を考える人の中には、度合いは様々だが、乖離の状態にある人が多いように感じる。

人間は自分を傷つけることを不得意とし、他人を傷つけることを得意としている生き物である。

喧嘩の時に思いきり殴る威力で自分を殴るのは難しい。どうしても自制が働いてしまう。

ではなぜ自傷行為や自殺ができるのか。その鍵が「乖離」である。

私は大学生の時に、拒食と不眠の症状が出てメンタルヘルスクリニックに通院したことがある。その時、医師からは「あなたの拒食は自己虐待です」と告げられた。

ひどく納得したのを覚えている。

体は空腹なのだ。空腹で胃が痛くなっており何かを食べたいと思う自分がいると同時に、その自分にものを食べさせずに虐めようとしている自分が第三者視点で自分を見下ろしている感覚に近かった。

自分が嫌がることや苦しむことはどんなことか自分が一番わかっている。

そんな自分が、自分を客観視しする自分がいて自分に苦痛を与えて優越感に浸っているのだ。

私は肉体や本能といった部分と理性や欲求、感情の部分が乖離している。前者をAとし、後者をBとすると、BがAを俯瞰視し、コントロールしている。

この場合、どちらに自分の主体があるかというとBだ。BはAをいじめて優越感に浸ると同時にダメージも受け、辛さも感じるわけだ。


生きていくには働かねばならないというのが人間の在り方だが、私にとっては違う。乖離している人間にとってAに肉体があるため、Aを維持するための代償をBが払うのだ。つまり、BがAを養っている状態だ。そうなってくると、生きることは最低限の無意識化で確保すべきラインからずれていってしまう。

日々、「今日Aを生かすために働くか、Aを殺して楽になるか」という考え方ができてしまう。Bから見て、Aは生き地獄を味わってまで生かすほどの価値がある存在なのかという疑問が常に根底にある。

Aを殺せばBは生き地獄から解放されるのである。

「自殺は自分を殺す殺人である」とはよく言ったものである。

まさに、自分の中で乖離したBがAを殺そうと殺意に満ちているわけだ。

読んでくださりありがとうございます。

読んだ方の中には不快になってしまう方や、あまりいい気持がしない方もいるかと思います。

申し訳ありません。

ただ、これは飾らない、等身大のリアルを書いていく作品です。

ご了承ください。

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