死は一度選択肢になると抜け出せない
いろいろなことをエッセイとして書いていきますが、
あくまでも私の考えであり、それは真理ではありません。
私が経験してきたこと、関わってきた人、様々な要因で私の今の価値観ができ、私の考えがあります。
読み手の皆さんに押し付ける気はありません。
私の話に「正しい/間違っている」ことなんて何もありません。
「良い/悪い」の話でもありません。
ご了承ください。
「死という選択肢」という言葉を聞いて、違和感を覚える方も多いだろうと思う。
前述したとおり、ほとんどの人間にとって「死」は回避するべきものであるため、自身の行動選択において「死」が選択肢になることはほぼないはずなのだ。それは、「選択肢」とは「選択」という文字通り、能動的なもだからだ。
回避すべき「死」は理不尽に押し付けられる受動的なものであろうと思う。
だからこそ、「死」は多くの人にとっては選択しようがないのだ。
行動選択の多くは自分の行動のとその結果をそれぞれ天秤にかけることで行われている。
「夏休みの前半に宿題をさっさと終わらせる」という行動は苦痛を与えるリスクであり、それに対するリターンは「夏休みの後半思いっきり遊べる」というものだ。
「夏休みの二数で等分した用の宿題を毎日やる」という行動は「毎日勉強しなければいけないが、毎日遊ぶ時間も作れる」という結果を生む。
この二つを天秤にかけて自分にとってどちらが良いか判断し、夏休みの生活の仕方を選択するのである。
ある時一度でもその天秤に「死」を載せてしまうと、これから一生、本来は天秤に載らないはずの死が選択肢として存在し続けてしまうのだ。
今日生きることと死を天秤にかけてどちらの方が辛いか、どちらの方が幸福化の二通りで天秤にかける。
結果、生きることの方が苦痛で、死ぬことの方が幸福だと天秤が示す。
一度そうなってしまた人が、「死」を恒久的に選択肢から外すことは難しいのである。
一度「死」を自分にとっての救いであると認識してしまえば、その認識を覆すのは至難である。
読んでくださりありがとうございます。
読んだ方の中には不快になってしまう方や、あまりいい気持がしない方もいるかと思います。
申し訳ありません。
ただ、これは飾らない、等身大のリアルを書いていく作品です。
ご了承ください。