「死」と「生存本能」
いろいろなことをエッセイとして書いていきますが、
あくまでも私の考えであり、それは真理ではありません。
私が経験してきたこと、関わってきた人、様々な要因で私の今の価値観ができ、私の考えがあります。
読み手の皆さんに押し付ける気はありません。
私の話に「正しい/間違っている」ことなんて何もありません。
「良い/悪い」の話でもありません。
前回は、この社会が「死」に寛容ではないと書いた。
「死」は遠ざけるべきものであり、回避すべきものであると認識されている。
ましてや、昔から多くの人が「死」を克服しようとまで考えてきた。
さらにいうと、「死」自体の克服とまではいかずとも、「死の恐怖」を克服するために死後の世界を作り上げたわけだ。
(死後の世界が完全な空想であると断言はできないが。)
私は、「生存本能」と「死を忌み嫌うこと」とは本質的に異なっていると思っている。
生存本能は「本能」というだけあり、いちいち言語化したり自覚するようなものではなく、反射や勘に近いのではないだろうか。
それに対して、「死を忌み嫌うこと」は、そこに思考という行為が生じている。
「死を忌み嫌う思考」の多くは「〇〇したい思考」の裏返しである場合が多い。
家族ともっと一緒にいたい。もっと世界中を旅してみたい。
「もっと〇〇したいから死にたくはない」という思考だ。
生存本能を意図的にコントロールし、反対の行動をとるのは難しい。
自殺したいと常日頃思っている人が、自分の意思ではなく人に押されて車道に飛び出してしまったとする。
たとえ結果的に回避できなかったとしても、とっさに体をひねるなどして回避行動をとろうとしてしまうのではないだろうか。
せっかくめぐってきた「死」の瞬間であっても、生存本能にあらがうのは至難の業だ。
だが、「死を忌み嫌う思考」を一時的にでも押し殺せた人にとっては、生存本能ではどうしようもない状況に自分の体を置くことができてしまう。
ビルから飛び降りたり、線路に飛び込んだり、首を吊るなど。
生存本能がどんなに抗おうと、死ねる状況を作ってしまえるのだ。
これが、「自殺」がそれが恒常的な欲求ではなく、突発的なものであったとしても発生しうる理由ではないだろうか。
読んでくださりありがとうございます。
読んだ方の中には不快になってしまう方や、あまりいい気持がしない方もいるかと思います。
申し訳ありません。
ただ、これは飾らない、等身大のリアルを書いていく作品です。
ご了承ください。