私は「生かされ」ている
いろいろなことをエッセイとして書いていきますが、
あくまでも私の考えであり、それは真理ではありません。
私が経験してきたこと、関わってきた人、様々な要因で私の今の価値観ができ、私の考えがあります。
読み手の皆さんに押し付ける気はありません。
私の話に「正しい/間違っている」ことなんて何もありません。
「良い/悪い」の話でもありません。
「私たちは社会や周りの多くの人から生かされている」と、いろいろなところで聞いたことがないだろうか。
本当にこの言葉の通りだなと思う。
言い換えると、「私たちは簡単に死ぬことを許されていない」。
本来多く使われている意味だと、「多くの人から支えられて生きている」という意味なのは私もわかっている。
だが、日本だけでなく世界は人類に「死」という選択肢を許していない。
受動的な死を恐れ、能動的な死を許さないのが今の人類のマジョリティーである。
能動的な死をしたければ、苦痛という代償を支払いなさいというのが人類のルールである。
人が、苦痛のない死を迎えるには、第三者の協力が必要不可欠なのは事実である。
もし、この世界で苦痛のない能動的な死を選択できる世界になったとしよう。
私が死にたいと思い薬物投与による自死を選択したとして、それは一人では実現ができない。
製薬会社やそれを処方する医師、自死に至るまで数回のカウンセリングがあればそのカウンセラーもいるかもしれない。
たとえ私が心の底から望んだ「死」であったとしても、「死」によって私が幸せになれたとしても、彼らや彼らを取り巻く人がそれを人助けだと思えるかは別問題だ。
誰の力も借りずに、自分一人で完結する苦痛のない自死の方法が存在するのであれば、世界のどこかでそれが許されているはずだ。
しかし、今世界で許されているのは、大病を患った人の安楽死のみである。
つまり、そんな方法など存在しない。
私のように「死にたい人間」もまたこの世界のルールや様々な人々によって「生かされ」ているのである。
「死ぬ権利」は認められておらず、「死なせて」はくれないのである。
私にとって「生かされる」ことよりも「死なせてもらう」ことのほうが幸福であったとしても「私の死に加担してくれる行為」は許されていない。
人類の生きる現代社会は「死」に寛容ではなさすぎる。
結果、やはり私は「生かされ」ているのだ。
読んでくださりありがとうございます。
読んだ方の中には不快になってしまう方や、あまりいい気持がしない方もいるかと思います。
申し訳ありません。
ただ、これは飾らない、等身大のリアルを書いていく作品です。
ご了承ください。