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君のため。
君のため。
全ては、君のため。
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「肝試しに廃病院とか、超定番」
「定番すぎて逆に新鮮じゃね?」
「逆の意味が分かんねぇよ」
ぎゃはは、と二人分の下品な笑い声と冷たい溜息が一つ、鉄骨がむき出しになるまで廃れた病院のフロントに響く。
肝試し最初の緊張の瞬間である病院の扉を開けるシーンは、考案者である戸倉によって早々に蹴り破られてあっけなく終わっている。
俺たち三人がいるのは阿白河病院という名前で、かつては個人営業だったようだ。
もう十年以上も放っておかれたこの建物は、街から外れた場所で夜に溶け込むように佇んでいた。
二階建てで、規模はそれほど大きくない。
病室も十室程度だろう。
それでも懐中電灯以外に光源のない朽ちた室内は、とても広く感じた。
昔は医者や看護師、患者が行きかっていたのだろうという見えない記憶も、そう感じさせる一つだろう。
病院で嗅ぐような薬品臭は既に消え、埃とカビの匂いが充満していた。
じっとりと染み込むような湿度も相まって、夏の夜の不快度が増していく。
通常の状態ならば間違ってもこんな場所には来ないであろう。
だが今の俺にはアルコールの力と、男としてのプライドが勝っていた。
「沙也加、怖い?」
「怖くないって」
俺は隣でつまらなそうにしている沙也加に話しかける。
彼女が首を振ると、さらさらとセミロングの髪の毛が揺れる。
この髪に似合う凛とした顔を俺は見つめる。
もう何度、こうやって彼女を盗み見ただろうか。
見つめるだけで、想いを伝えたことはないけれど。
大学に入って一目惚れした。
そして彼女を追いかける形で当初志望していたのとは違うゼミにまで入ったくらいには、現在進行形で惚れ込んでいる。
「だよなー、だよなー。
じゃ、先進もうぜ!」
「うぉ、さ、先に行くなよ、戸倉!」
背の高い短髪の男、戸倉が一つしかない懐中電灯を振り回しながら真っ暗な廊下へと歩を進める。
未だ沙也加への想いを伝えることが出来ない俺の背中を押す形で、今回のイベントに彼女を引っ張って来てくれた戸倉だが、彼自身の破天荒な言動は肝試し以上に冷や冷やさせる。
「なんだっけ?
全身血塗れの女の子の霊が出るんだっけ?
『助けて、助けて』って言いながら。
本当、定番すぎてもうちょっと捻ってほしいわ」
沙也加は呆れた顔で戸倉の後に続く。
無理やり連れてこられたであろう沙也加は、この肝試しにはあまり乗り気ではないようだ。
「有名な霊媒師が死んだとかってのも聞いたぞ。
つーか、怪談なんて、全部そんなもんだろ」
「でも幽霊でしょ?
よく知らないけど怨み辛みがあるから幽霊になるなら、ちゃんとした説明が欲しいじゃない。
そりゃ病院だから血塗れなんてザラでしょうけど、そんなのが全部幽霊になって出てこられたらたまったもんじゃないわよ。
ねぇ、どう思う?
手術ミスで死んだ子の幽霊?
それとも既に手遅れだった系とか?
その場合、怨念って病院に運ばれる前の場所に残るんじゃない?
そこのところどうなのよ、瀬田君」
「幽霊に理屈を求められてもなぁ」
そして俺に聞かれてもなぁ。
オカルティックな理屈をこねる沙也加に、俺は苦笑いをする。
そんなところも好きだけれど、真夜中の廃病院でまでこんな感じなのかと、俺はため息をつく。
「異常なーし!」
そんな俺たちを尻目に、戸倉が一つ目の部屋に入って出てくる。
「早ぇよ! 俺らの肝が全然試されてねぇじゃん!」
「だぁって瀬田ちゃんたち遅いんだもん」
既に検められた一つ目の部屋を俺も覗いてみるが、外からの灯りではほとんど部屋の中は見えなかった。
立てかけられたマットのないベッドと、個人スペースを区切るためのカーテンレール。
どうやら二人で一部屋のようだ。
だが光源のない状態では、これ以上覗いていても仕方がない。
恐怖を感じる間もなく、俺たちは戸倉を追いかけた。
「……これじゃ、失敗だな」
「なにが?」
「何でもない」
沙也加を怖がらせ、自分が男として良いところを見せるという我ながら幼稚な目論見は、彼女自身の理性と戸倉の破天荒で早くも崩壊寸前だ。
「んお?」
不意に戸倉が変な声を上げる。
「どうした?」
「ドアが開かねぇ。おら!」
二つ目の扉の前で戸倉が立ち往生している。
ガチャガチャとドアノブを捻っているが、全く開く様子がない。
ガン、と蹴りつける戸倉を慌てて止める。
「おい、乱暴にするなって」
「だってよぉ」
口を尖らせる戸倉に変わって、俺がドアノブを握る。
「……?」
この暑さと湿度の中、金属のドアノブはまるで氷のように冷たく感じた。
(いやいや、そんな)
俺は気を取り直してドアノブを捻ってみる。
「あ、本当だ。
何だろう、鍵がかかっているみたいな感じでもないけど」
鍵がかかっているだけならば多少はガタガタと扉が前後するだろう。
だがまるで、びっしりと接着剤で塗り固められたかのように扉は動かなかった。
……て
「なに? 沙也加ちゃん」
「? 何が」
疑問符を出し合っている後ろの二人を振り返って見てみると、戸倉が宙に視線を動かし、そして懐中電灯を沙也加に向けていた。
「なんか言ったでしょ? やめろよ、驚かせようってか? お?」
「私は何も言ってないわよ、あんたじゃあるまいし」
「またまたー」
……けて
「!」
「え?」
戸倉と沙也加が同時に肩をびくりと上げる。
なにか、様子がおかしい。
ドアノブを握っている俺にも、それが分かった。
戸倉も恐らく同じだろう。
「い、今、声、したよな? な? 沙也加ちゃん!」
「………」
こんなに重い空気だっただろうか。
湿気が鉄でも含んだかのように内臓に重くのしかかる。
戸倉は引っ張るように沙也加の肩を揺する。
彼女は無言で俺の開けようとしている扉を睨むと、戸倉の手を振り払い、俺を押しのけてドアノブを握る。
「沙也加?」
声をかけると、沙也加はキッと俺たち二人を睨みつける。
「ばっっっかじゃないの!?
二人して私の事を驚かせようとして、わざわざこんな仕込みしたわけ?」
彼女は俺たち二人を指差して、空気を割くように怒鳴る。
「な、なに言って……」
「どうせ部屋の中にレコーダーとかスピーカーとか置いてるんでしょ。
ばっかみたい」
彼女には、この空気が分からないのだろうか。
俺たちが止める暇もなく、「ふん」と沙也加は扉に向き直り、ドアノブを捻って力を入れる。
しかし
「きゃっ」
開かないと思って力を入れたその鉄の扉は、まるで紙のような軽さで彼女の力を受け入れた。
勢い余った沙也加の身体は、そのまま部屋の中に転がるように引き込まれる。
「沙也加!」
突然開いたドアの反対側に消えた沙也加を追うように、俺たちも部屋に足を入れる。
部屋の中は先程の一室目と同じく、広くない二人部屋のようだ。
「いったぁ。
やっぱりアンタたち、演技してたのね。
普通に開いたじゃないの。
……もう、最悪」
手前のベッド前で、沙也加は膝をついて手の平を払っている。
元から暗い病室が、ベッドの影でさらに闇の濃さが増していた。
「うぅ、本当、最悪だわ」
沙也加に駆け寄ってしゃがみ込むと、どうやら転んだ時に手のひらを擦り切ってしまったようだ。
小石やがれき、ガラス片が散らばっている床に血が落ちる。
二滴、三滴。
床に血液が散らばる。
思っていたよりも深く切ってしまったのかもしれない。
慌てて沙也加に声をかける。
「沙也加、血が出てるぞ。
大丈夫か?」
四滴。
五滴。
ぼた、ぼたと大小さまざまな形が床に落ちる。
「うそ、やだ!」
床に血だまりができ、新しい血液がぴちゃりと音を立てる。
自分の傷の具合を確認するために沙也加が手の平を見る。
「え……」
血が溢れている?
その異常さに気付いた俺たちは、彼女の手を注視する。
その血は確かに、沙也加の手の平から落ちていた。
正確には、沙也加の手のひらを伝って、落ちていた。
上に向けられた沙也加の手の平に注ぐように、一筋の赤い水が落ちてくる。
ぴちゃ、ぴちゃり。
「……な」
粘着質な音を立てて、手の平に注がれる血液。
一筋だった赤い流れは、粘度のある雨のように俺たちの足元に落ちて広がる。
どこだ。
何が、起こっている?
俺たちは、血液の流れを辿って、視線をゆっくりと上げる。
「う、ぁ……」
誰もいなかったはずだ。
何もなかったはずだ。
それなのに、俺たちの目の前のベッドの上には。
「ぁぁぁぁぁぁあ」
「ひっ!」
誰かが、俺たち二人を見下ろすように、身を乗り出している。
帳のように長い髪が俺たちに触れるように垂れ下がる。
女だ。
髪の長い、少女。
俺たちを覗くように見開かれた目が、合う。
しかし彼女は俺たちを見ていない。
いや、見えていない、だろう。
その眼球には、小指ほどの穴が幾つも開いていた。
血はそこから降ってきている。
目から。
喉から。
肩から。
胸から。
腹から。
髪の長い少女の身体に開いた無数の穴から、雨のように赤い血が俺たち二人に降りかかる。
少女が生きていないことは、確信できる。
なら、これは、何だ?
「ぅぅううぇぇぇえてぇぇぇええ」
喉を鳴らすように呻く異形の少女を前に、俺たちは言葉が出なかった。
俺たちを前に、彼女は穴だらけになった唇を動し続ける。
「たぁぁあすけてぇぇぇえええ」
後ろで、扉が閉まる音がした。