27.ベヒーモス
昴は背後で気配を感じ、抱きついているタマモをゆっくりと引き離す。不安そうにこちらを見るタマモの頭をもう一度優しく撫でた。
「タマモ、少しの間だけ隠れていられるか?」
タマモはまだ少し不安そうな顔をしていたが、コクリと頷くと木の枝に跳び上がった。それを確認すると昴は’ベヒーモス’の方に身体を向ける。
ほとんど日が傾きかかっているため、ただでさえ暗い森の中はほとんど先が見えない状態であった。昴は【夜目】を発動し、ついでに魔力を巡らせてみる。視界は明瞭になったが魔力の方は案の定練ることができなかった。
「…まだだめか。でも、もう少しって感じだな」
昴は値踏みをするように目の前で威嚇する敵を見据える。ランクAの魔物が’狂化’され、しかも昴は一切【黒属性魔法】を使うことができない。その上、この辺りは’ベヒーモス’の縄張り、地の利は相手にあるときている。
「まっ、ちょうど良いハンデかな」
落ち着き払った様子で器用に’鴉’を回すと’ベヒーモス’に向かって駆け出した。’ベヒーモス’は振り下ろされた’鴉’を前足で防ぎながらくるりと空中で一回転し、尻尾を叩きつけてきたが昴は咄嗟に真横に飛びそれを躱した。叩きつけられた地面は陥没し、その衝撃波だけで周りの木々をなぎ倒す。昴もその余波を受けバランスを崩し、なんとか体勢を立て直そうとするも、目の前には’ベヒーモス’がすでに飛びかかって来ている。
「危ないのじゃ!!」
タマモの言葉に反応し’鴉’を目の前に交差させるも、’ベヒーモス’は思いっきり前足を振り抜き、昴をガードごと木に叩きつけようとする。昴はその力に逆らわずに、受け流しながら自ら後ろに飛んだ。
「スバルっ!!」
「大丈夫だ、心配すんな!…しっかしこいつ、予想以上にパワーとスピードがありやがる」
グォォォォォン!!目の前で猛る’ベヒーモス’を見ながら昴は瞬時に思考を巡らせる。先ほどの’鴉’の一撃を易々と前足で防いだところを見ると、”烏哭”を抜きに奴の体に傷をつけるのはかなり厳しい。もう少しとはいえ、魔力が練れるのはいつになるのかわからない。あれこれ考える昴を待ってくれるほど敵はお人好しではなかった。’ベヒーモス’が腕をクロスさせるように振ると、無数の風の刃が昴めがけて飛んで来る。
「魔法まで撃てんのかよ!?」
風の刃を’鴉’で斬り伏せようにも数が多すぎるため、昴は致命傷になりうるものだけを選び、’鴉’を振るう。刃は容赦無く、昴の腕や足を切り刻んでいった。
「スバル!!どこじゃ!?」
風の刃が切り倒した木によって上がった土ぼこりにより、昴の姿を見失ったタマモは必死にその姿を探す。’ベヒーモス’この攻撃によっての辺りは伐採されたように丸坊主になっていた。そんな中、土埃から飛び出した人影を見てタマモはほっと息をつく。手近の枝の上に飛び乗った昴は、身体の至る所から血を流してはいるものの大した傷はない様子。
心配そうな顔でこちらを見ているタマモに大丈夫である事を手を上げて伝え、木の枝から飛び降りた。
「魔法が使えて近距離戦闘もお手の物、か…。てっきり"狂化"してるから突っ込んでくるだけだと思ったが」
【状態異常耐性】のスキルを持つ'ベヒーモス'は完全には理性を失っていなかった。狂ったような闘争本能を抑えることはできていないものの、戦闘時の動きは通常と変わらず。むしろ"狂化"でステータスが底上げされている分、普段と比べ格段に手強い相手になっている。
確実に仕留めたと思っていた獲物が飛び降りて来たのを見て、'ベヒーモス'は多少の苛立ちを感じた。魔力を一気に高めると、天に向かって甲高い咆哮をあげる。
「おいおい…まじか…」
昴のこめかみから一筋の汗が流れる。'ベヒーモス'が使ったスキルは【形態変化】。筋肉は隆起し、体を一回り以上大きくさせ、爪は紫色を帯びながら、一本一本が鋭利な鎌のように鈍く光っている。ただでさえ大きかった牙はもはや地面に届きそうなほどに伸びている。
「こっからが本番ってことね」
昴は気を引き締め直して'鴉'を構えた。目の前の'ベヒーモス'は地面が陥没するくらい踏み込むと一瞬のうちに消える。いや、消えたと思うくらいの速度で昴目掛けて突進してきていた。単なる体当たりが強化された身体から放たれるだけで、大砲から発射されたかのごとく、樹々をなぎ倒しながら昴へと進む。
昴は'鴉'を滑らせ、'ベヒーモス'を横へと受け流した。'ベヒーモス'はそのまま身体を半回転させ、連続で昴に爪を立てる。もはや眼でとらえられる速度ではない'ベヒーモス'の動きを、昴は【気配察知】を駆使し、ほとんど勘で避けていた。
'ベヒーモス'の攻撃は常軌を逸してた。引っ掻かれた地面は抉れ、振り回された尻尾によって木も草も根こそぎ吹き飛ばされる。気がつけば昴と'ベヒーモス'の周りは台風が通った後のように荒れ放題になっていた。昴は防戦一方になりながらどんどん山を下りていく。
タマモは必死に枝を飛び移っていた。昴達の側にいると、’ベヒーモス’が木を躊躇なく切り倒していくので少し離れたところから昴を見守っていた。タマモから見る昴は一切魔力による強化を施していない。今の昴からは昨日の結界を破壊した昴のような力強さを感じなかった。怒涛の攻めを見せる’ベヒーモス’に追い立てられるように山の中腹へと移動する昴を追いながら、タマモはハッ、と気づかされる。
「まさか昨日無理したから…」
昨日みせた昴の力ははっきり言って異常であった。あれがタマモを助けるため無理やり使った力なのであれば、そのせいで満足に戦えないのであれば、
「うちのせいじゃ…」
タマモは血が出るほど下唇を噛みしめる。昴の足を引っ張ることが、一緒に戦えないことがどうしようもないくらい悔しかった。このまま何もしないで昴を失うくらいであれば…。
タマモは【身体強化】を身体に施す。魔力は十分にあるが、身体の方が悲鳴を上げていた。そんなことはお構いなしに、今自分ができる最大の強化をする。
「うちも戦うのじゃ。スバルばっかりに無理はさせられん!」
タマモが昴達に目を向ける。’ベヒーモス’の目には昴のほかに何もうつっていなかった。あの猛攻を一瞬でも昴以外に向けることができれば、昴がその隙をついて’ベヒーモス’を倒してくれる。
タマモは音も無く二人が戦っている横にまわった。’ベヒーモス’に気づいている素振りはない事を確認するとタマモは意を決して大声を上げながら’ベヒーモス’に飛び掛かった。
「どりゃぁぁぁぁ!!!こっちを向くのじゃぁぁぁ!!!!」
‘ベヒーモス’はそれまで相手していた獲物から目を離すと、横からこちらに向かってくる小物へと目を向ける。タマモに気づくとまるで蚊を落とすように前足が振るった。
(今じゃ!!スバル!!)
タマモはギュっと目を閉じた。その瞬間何かに包まれたような感覚を覚える。覚悟していた衝撃がいつまでたってもおとずれないことに疑問を感じ、タマモはそっと目を開いた。目の前には自分を抱きかかえた昴がいた。左肩にはひっかき傷があり、ダラダラと血を流している。昴はタマモは抱えたまま’ベヒーモス’から距離をとり、タマモを下ろす。
「スバル、なんでうちを…」
「あほが」
「ふんぎゃっ!?」
タマモが言い終えないうちに昴が脳天に手刀を落とす。あまりの痛さにタマモは頭をさすりながら涙目で昴を見上げた。
「心配すんなって言っただろう。余計な事すんな」
「でもうちのせいで昴が…」
タマモは狐耳を垂らしながら俯いた。昴はタマモの肩にそっと両手をのせ、膝を曲げてタマモと目線を合わせる。
「俺があんな魔物なんかに負けるわけねーだろ?」
「……………」
「大丈夫だって。俺を信頼しろ」
「…わかったのじゃ」
昴に説得され申し訳なさそうに後ろに下がるタマモ。それを確認した昴はすぐさま’ベヒーモス’に目を向ける。’ベヒーモス’は身体を屈め、地面に亀裂が走るほど後ろ足に力を蓄えていた。昴は引っかかれた左手を動かしてみるが、’ベヒーモス’の爪には毒があるのか、痺れてうまく動かすことができなかった。
「あの紫色は見掛け倒しじゃねーってことか」
’ベヒーモス’の様子から、おそらく今までの速度とは比べられない速さでこちらに突進してくるであろう。対してこちらは右手だけで迎え撃たなければならない。
(さて、どうすっかな)
昴が防戦一方だったのは’ベヒーモス’の攻撃が苛烈であったからでもあるが、本当の狙いは時間稼ぎであった。なんとか魔力を使うことさえできれば勝てる、そう思っていた昴だったがそうも言っていられなくなった。今の’ベヒーモス’が放つ威圧感から、次の攻撃は片腕一本じゃ防げないと本能が告げている。
(できればこんな賭けはしたくはなかったが…)
昴は諦めたように軽くため息をつくと’鴉’を左腰に構え姿勢を低くすると静かに目を瞑った。頭に思い描くのは訓練場での手加減されたものではなく、子供のころから幾度となく見てきた本気の男の姿。
タマモは前に立つ昴の姿を見て息をのんだ。刀を構えたまま微動だにしないにもかかわらず、その身体からはあふれんばかりの殺気が流れ出ている。自分に向けられているものではないと頭では理解していても、【第六感】が今の昴には近づいてはならないと危険信号を発していた。
普段の’ベヒーモス’であればその高い【危機察知】の能力で危険を感じたであろう。しかし今の’ベヒーモス’は”狂化”しており、昴を殺すことしか頭にはない。限界まで溜められた力を解放し、地面と平行に跳躍する。その速度は現代の銃から放たれた銃弾のそれ。触れもしないのに周りの木を吹き飛ばしながら昴へと一直線に向かっていく。
昴はまだ動かない。脳裏に浮かぶ男の動きを自分の身体にトレースする。’ベヒーモス’がその自慢の爪で昴を切り裂こうと、前足を振り上げた刹那、流れるような動作で横一閃に’鴉’を振りぬいた。
静まり返る森の中。’ベヒーモス’と昴はすれ違ったまま互いに身動き一つしない。次の瞬間、’ベヒーモス’の身体から血が噴き出し、そのまま地面に倒れ伏した。
「すごい…」
タマモは呆気にとられた表情で呟いた。昴はふぅ、と息をつくと’鴉’を戻し、’ベヒーモス’の身体に目をやる。胴体部分に一筋の線が入っており、そこから血が流れだしていた。
「何とかうまくいったみたいだな。…でも、流石に隼人みたいにはいかねーか」
あいつなら奇麗に真っ二つにしただろうな、と内心考えながら、昴が’ベヒーモス’の亡骸を”アイテムボックス”に入れるや否やタマモが飛びついてきた。
「すごい!!すごいのじゃ!!昴は本当にすごいのじゃ!!」
「痛い痛い!!タマモ痛いって!!」
興奮冷めやらぬタマモを何とか宥めながら、昴は地面に横たわる。
「さすがに病み上がりには堪えたぜ…」
今になって身体中がずきずきと痛み出した。自分の身体を見て我ながら傷だらけだな、と苦笑いを浮かべる。タマモも昴の横にへたり込むように座った。
「スバル」
「ん?」
昴は静かな声で自分を呼んだタマモの方へ顔を向けた。
「まだ言ってないことがあったのじゃ」
「言ってないこと?なんだよ?」
「助けてくれてありがとうなのじゃ」
太陽のような笑みを浮かべるタマモ。昴は照れたようにぷいっと顔をそむけた。
「なんじゃ、照れておるのか?のうのう」
「うるさい」
タマモは昴のほっぺたをつつきながら楽しそうにからかう。昴がタマモの指を払いのけようとした時、タマモの耳がピクッと動いた。その表情が一瞬にして緊張の色を帯びる。
「…スバル」
「あぁ、わかってる」
昴も【気配探知】のスキルにより自分たちを百を超える魔物が取り囲んでいることに気が付いた。
「タマモのところまで行くのに大分倒したと思っていたが、まだこんなに残っていやがったとはな」
「…どうするのじゃ?」
タマモの声は明らかに緊張している。自分も昴も満身創痍で魔物の相手をするどころではに事は理解していた。昴はにじり寄ってくる魔物の気配を感じながら、静かに口を開く。
「逃げろ、タマモ」
「え?」
「俺はこの通りボロボロだ。追ってくる魔物を躱しながらなんてできそうにない。だけどお前なら」
「嫌じゃ」
昴の言葉を遮って出されたのは明確な拒否の言葉。あまりにはっきり言われたので昴は若干動揺した。
「嫌ってお前…このままだと二人とも魔物の餌食に」
「嫌じゃ」
昴がタマモの目を見つめる。その目には確固たる意志が芽生えていた。昴は大きくため息をつくと”アイテムボックス”から取り出したものをタマモに渡す。
「これはなんじゃ?」
見たこともない棒を手に取ってタマモは首を傾げた。
「〔着火くん〕だ。そいつに魔力をこめると先端から火が出る。それでその辺に倒れている木を燃やせ。…こいつらが火を怖がるかは知らんがな」
昴は魔物に目を向ける。どいうもこいつも白い目でこちらを見ながらのそりのそりと近寄ってきていた。
「でもそんなことしたらうちらも逃げられなくなってしまうのではないか?」
「時間が稼げれば俺の魔力が戻る可能性がある。そうすればなんとかなるかもしれん。それにこのまま何もしないでやられるよりはいいだろ?」
タマモは少し考えてからうなずくと倒れている丸太に火を放った。最初は小さかった火が木に燃え移り次第に大きくなる。あっという間に昴達は火に囲まれた。昴は魔物の気配を探り、思わず舌打ちをする。
「やっぱり理性が飛んでやがるから火なんて気にせずこっちに向かって来るな。…タマモ?」
燃え盛る炎をぼーっと見つめるタマモに声をかけるも反応はない。不思議に思いながらも、昴はなんとか立ち上がると再び’鴉’を呼び出した。タマモを背に魔物と向かい合う。
「いちかばちか正面突破するしかねーな。タマモ、走れるか?」
「……………」
「おいタマモ!聞いて―――」
昴がタマモの方へ顔を向けると信じられない光景が広がっていた。先ほどまで昴の周りで燃えていた炎が、手をかざしているタマモの上空に吸い寄せられるように集まっていた。そして一つの大きな炎となったと思ったら、無数の火の玉に分裂し、昴達の周りを漂い始める。
「タ、マモ…?」
予想外の出来事に言葉が続かない。タマモは一切昴に顔を向けずに、ひらいていた手をギュッと握りしめた。
その瞬間、漂っていた無数の火の玉が魔物目がけて一斉に飛んでいった。その火の玉は魔物にぶつかると大きな火柱をあげ、一瞬で消えてなくなる。そこに魔物がいた形跡すら残さない。なんの余韻も残さず、ほんの二,三秒で全ての魔物の命を狩りつくした。先程まで魔物に囲まれて絶体絶命だったのに、今この場に立っているのはタマモと昴の二人のみ。
「タマモ…お前…」
あまりの出来事にいまだ放心状態の昴。タマモがすっと手を伸ばすと森を燃やしてた炎が一瞬のうちに消える。そして昴に向けて妖艶な笑みを浮かべるとそのまま気を失った。慌てて昴は倒れるタマモの身体を受け止めタマモをの様子を伺う。その寝顔はいつもの無邪気なものだった。
───『炎の山』には炎を操る狐の化け物がいる
不意にダンクの言葉が脳裏によぎる。昴は少しの間腕に抱かれるタマモを見ていたが、背中に乗せると『炎の山』を下りていった。




