20.飯島冴子
飯島冴子はいらだっていた。朝、新しいクラス分けを昇降口で見たときは自分の思い人と同じクラスになれて天にも昇る気持であった。それなのに帰りのホームルームが終わった今、冴子はいらだっていた。
「なんであの女と…」
呻くように呟く。クラス分けを見た後、スキップしたい気持ちを抑えて新しいクラスに入ると、自分の思い人がちょっと前まで自分がいじめていた相手と仲良く話していたのだ。まるで恋人同士のように。
噂では聞いていた。恵子が昴達と仲良くなっていること。ただここまで仲良くなっているとは思っていなかった。その現実を目の当たりにした冴子は一気に天国から地獄に叩き落されたような気分になった。
「せっかく楠木と同じクラスになれたのに…」
冴子は悔し紛れに親指の爪を噛む。クラスメートたちはさっさと帰ってしまったみたいで今教室には冴子一人しかいない。
「あっ…」
そんな誰もいないはずの教室で声がした。冴子が声の主に目を向けると、見られた相手は身体を委縮させる。そんな姿も冴子をさらにイラつかせた。
「何しに来たのよ」
とげとげしい様子を隠すこともせずに冴子は問いかける。
「え、えーっと…忘れ物を取りに…」
恵子は弱弱しく言うと、自分の席に足早に向かって机の中から荷物を取り出した。そしてそのまま教室を出ていこうとする。
「ちょっと待ちなよ」
冴子が呼び止めると、恵子は肩をビクッと震わせた。
「ご、ごめん。昴君が待ってますから」
その言葉によって冴子のリミッターが外れた。"昴君"、確かにこの女はそう言った。自分が呼びたくても呼べない相手の名前を軽々しく呼んだ。その事実だけで十分だった。冴子は不敵な笑みを浮かべる。
「へぇ…ずいぶんと仲がいいんだね」
「……………」
「なに、あんたあいつの彼女にでもなったの?」
「い、いや。そういうわけじゃ」
冴子の笑みはさらに悪質なものに変わる。
「そうだよね。あんたみたいのが楠木と付き合えるわけない。仲良くしてるのも北原のお情けで一緒にいるだけなんだろ?本当に汚い女」
「……………」
「言い返さないところを見るとあたしの言う通りなのね。最低。自分が一緒にいたいからって他人を利用するなんて人間の屑だね、あんた」
冴子は席を立つと少しずつ恵子に近づいた。
「自分が分不相応の相手と仲良くしてることがわからない?あんたみたいなのは一生一人でいるのがお似合いなんだよ」
「わ、私も…」
「あ?なによ」
「私も不釣り合いなのは自覚してます」
「へぇ…なら…」
二人の距離はもう手が触れあうとこまで来ている。
「それでも一緒にいると楽しいですし、みんなも楽しそうにしてるから」
冴子が恵子の髪を思いっきりつかんで顔を寄せる。
「夢見てんじゃないわよ。あんたにはあんたの場所があるの。気づかない?あいつらに気を遣われてるのが」
「そんなことは…」
「あんたがあいつらと一緒にいることであいつらの評価が下がってるのよ」
「…!?」
思いがけない冴子の言葉に目を見開く。
「可哀そうな砂川…いや可哀そうなのはあんたと一緒にいる楠木たちの方かな…」
「…そ、そんな」
恵子は言葉をつづけることができない。そんな恵子に冴子はいやらしい笑みを向ける。
「そんな可哀そうなあんたに救いの手をさしのべてあげる」
「……………」
「登下校の時もお昼の時も、あたしがずっと側にいてあげる」
「…え?」
「そうすればあいつらに迷惑もかからない、あんたも寂しい思いをせずに済む」
ね、いい案でしょ?と精一杯の笑顔で恵子に言い放つ。何も言うことができない恵子を掴んでいた手を乱暴に離した。
「じゃあ明日からそうしましょう…断ったらわかってるわね?」
無機質な声でそう告げると、恵子は青白い顔で小さくうなずくと、そのまま逃げるように廊下を走っていく。冴子はそんな恵子の様子を満足そうに眺めていた。
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それから恵子にとって地獄のような、冴子にとっては鬱憤をはらすだけの日々を過ごしていった。
登下校時には冴子からの罵詈雑言を聞き、お昼になればお弁当をひっくり返されるのはいつものこと。水をかけられたり、腐った食べ物を食べさせられたりした。
冴子の仕打ちは日に日にひどくなっていった。直後は嗜虐心が充たされたが、結局は冴子の心の渇きが潤うことはなかった。
今日は担任の先生に叱責を受け、かなりむしゃくしゃしていたので恵子の靴箱に牛乳をぶちまけてやった。靴箱を見た恵子の顔を想像して笑いをこらえる。やっぱり直接見た方が笑えるかな?とそんなことを考えていた冴子の目の前に思わぬ人物が立ちはだかった。
「お前の仕業か…飯島」
声のした方に目を向けると昴が立っていたため冴子は慌てて視線をそらす。
(えっ…楠木が私に話しかけてる)
胸が高鳴るのを感じた。昴が自分だけを見ている、そう思うだけで顔が綻びそうになる。冴子はそれをさとられないように極力つまらなそうな顔になるように努めた。
「お前の仕業かって聞いてんだよ」
「昴君!冴子ちゃんは関係ないですよ!」
恵子の声を聞いて冴子は固まる。
(あっ…そういうことか。砂川の靴箱を見て私のところへ来たのか)
「恵子は黙ってろっ!!」
(恵子って呼んでるんだね)
さっきまでの胸の高鳴りが急速にしぼんでいく。
(砂川のために怒ってる。…あたしのためには怒ってくれることなんてないのに)
「あんたには関係ないでしょ」
(砂川なんかのために怒らないで)
「前にも言われたなそれ。もっとましなこと言えないのか?」
「っ!何様よ、あんた!あたしに関わらないで!」
「関わってるのはそっちだろ。もっともそっちが関わらないでくれるなら願ったりかなったりなんだが」
(やめて…そんな目で見ないで…関わらないでなんて言わないで)
「別にちょっかいなんてかけてないわよっ!!」
「それなら一切俺たちに話しかけるな。近づくな。関わりをもつな」
「なによ…あたしが誰と関わろうがあたしの勝手でしょ!!」
(俺…たち?あぁ…そうか…砂川は…いやでも砂川は…)
「…なにあんた、こんな地味な女のことが好きなの?趣味悪っ!きもいから消えてくんない?」
(お願い!好きじゃないって言って)
「お前よりも百倍恵子の方が魅力的だな」
(あたしよりも…こんな地味な女の方が魅力…的…?)
「はぁ!?あんた目が腐ってるんじゃないの!?」
「腐ってるのはお前の根性だ」
「っ!?」
(腐ってる…あたしが…?)
「つ、付き合ってらんないわっ!!」
冴子は落ち込む気持ちをひた隠しにし教室から出ていこうとする。だがそれでもまだ自制心は失われてはいなかった。
「恵子のことが好きか聞かれたけど一つだけはっきりしていることがある」
そんな冴子に止めとばかりに昴が声をかける。
「お前のことは嫌いだ」
(っ!?き…らい…?あたしのことが嫌い?)
涙があふれてくる。ここで泣くわけにはいかないため勢いよく廊下に飛び出す。そのまま昇降口に向かいながら腕で目をごしごしとこすった。
(嫌いって言われた…楠木に嫌われた)
冴子は絶望の淵にいた。この場から、この現実からとにかく逃げ出したかった。そんな冴子のことを呼ぶ声が聞こえる。声をかけてきたのが誰かわかった冴子はそのまま進み続ける。
「冴子ちゃん!待ってください!」
「うるさいっ!来るなっ!」
顔もむけずに冴子は答える。絶望は段々と憎しみに変わっていった。
「昴君も本気で言ったわけじゃ…」
「その名前をだすなぁぁぁぁぁぁ!!!」
廊下に冴子の絶叫が響き渡る。冴子は足を止めると恵子を視線で射殺すように睨みつけた。
「あたしは楠木を許さない!絶対に!!今夜…屋上でケリをつけてやる…」
最後の方は呟くように言った冴子はそのまま走り出した。恵子はそんな冴子の背中を見つめることしかできなかった。
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午後6時30分、冴子は屋上で景色を見ていた。空には星が輝いているだろうが、分厚い雲に阻まれ見ることはできない。月は雲の間から時折顔を出しているが、今は雲に覆われているため屋上には闇が広がっていた。
冴子は息を吐きながら手に持ったものを見る。刃渡り三十センチメートルの包丁。冴子の覚悟の証。
(嫌われるくらいならいっそのこと…)
屋上を選んだのは昴を殺した後に自分もすぐに後を追えるため。昴のいない世界に興味なんてない、そして昴に嫌われてしまったこの人生に意味などない。冴子は静かに憎悪、いや愛憎を滾らせていった。
ふいに開けられる屋上の扉。冴子は時間には少し早いと思いつつも相手の方に目を向けず気持ちを落ち着かせる。近づいてくる足音が少し後ろで止まったのを感じた。冴子はゆっくりと目を閉じる。意を決して振り返ろうとしたところで声がかけられた。
「…昴君じゃないですよ、冴子ちゃん」
驚いた冴子が急いで振り返るとそこにいる人物をみて目を見開いた。
「な…んで…」
「少し…お話ししたかったんで…」
開いた口が塞がらないといった様子の冴子に恵子は優しく微笑みかける。
「あ、あんたと話しすることなんてないのよ!」
「好きなんですよね?」
「はぁ…?」
「昴君の事」
「なっ…!?」
動揺を隠せない冴子。そんな冴子を恵子はじっと見つめる。
「そして…殺すんですよね?」
「っ!?」
恵子の思いもよらない言葉に冴子は完全に思考停止に陥った。
「否定しないってことはそうなんですね…なにやら刃物も持っているようですし」
慌てて包丁を背中に回すも時すでに遅し。恵子はすっと目を細める。
「あなたに昴君は…私の大切な人は殺させません」
「どうしようっていうのよ!?」
冴子は包丁を前に出して威嚇する。恵子に…こんな女に自分の考えが見透かされていたのが許せなかった。
「あなたは私が…自分が下だと思っていた人が昴君と仲良くしているのが許せない。自分を見てくれない昴君が許せない」
「……………」
図星をつかれて黙り込む冴子。そんな冴子を気にせず恵子は話し続ける。
「私が昴君の命にかわるものを用意すれば昴君を殺すのをやめてくれますよね?」
「…かわりのものって何よ?そんなものあるわけ…」
「私の命を差し上げます」
恵子が笑顔で答えた。冴子は恵子の言っている意味が全く理解できない。
「な、なに言ってんの!?あんた頭おかしいんじゃない!?」
「いえ…あなたを止めるには…昴君を助けるにはもうこれしかないと思っています」
恵子が一歩踏み出した。それに合わせて冴子は一歩後ずさる。
「く、来るな!本当に殺すぞ!?」
「だからそうして欲しいと言っているんです。それとも…怖いんですか?」
冴子が包丁を前に出すのもお構いなしで恵子は一歩、また一歩と近づいていく。
「やめろ…来るな…」
「所詮はその程度の人間だったということですね。好きな人に嫌いと言われただけで憎しみにとらわれるような可哀そうな人」
「やめろ…」
「自分から好きになってもらう努力もしないで、好意を向けてもらうことを望んでいるおとぎ話のお姫様みたいなおめでたい考えの人」
「やめろ…」
「弱い人をいたぶって自己満足に浸るような誰よりも弱い人」
「やめろ…!」
「そんな卑怯者で汚いあなたが私は嫌いです」
──────お前のことは嫌いだ。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!」
完全に理性を失った冴子は目をつぶり、一直線に恵子に向かって突進した。
ブスッ。
冴子は自分の手に何か生暖かいものが流れてくるのを感じ、恐る恐る目を開けた。そこには真っ赤に染まる自分の手があった。
「ヒィィィィィ!!」
自分が刺したにもかかわらず大量の血を見て腰を抜かす冴子。恵子は自分のお腹に刺さっている包丁を抜き、その辺に投げ捨てる。
抜いた瞬間花火のように鮮血が散ったが、気にせずにそのままフラフラと屋上の端まで歩き始めた。
ゴホッと咳を手で押さえると、その手は血に染まっている。恵子は弱々しく笑うと屋上のフェンスを越え、ゆっくりと振り返った。あたりを見回し、扉の付近を見て何かに気が付くとニッコリと笑みをうかべる。
「来るのが早いですよ…昴君」
そこには呆気にとられた表情を浮かべる昴の姿があった。