19.親友
会議室を出た雫は一直線に訓練場に向かった。訓練場には人っ子一人見当たらず、雫はおもむろに木刀を取り出すと無心でそれを振る。響き渡るのは木刀が空を切る音だけ。ここには雫の心をかき乱すものは何一つなかった。
「…これから砦に行くっていうのに剣の稽古?」
不意に後ろから声をかけられ、雫は木刀を振る手を止め振り返る。そこには親友が神妙な面持ちで立っていた。
「あぁ。なんだか落ち着かなくてな」
「そうなんだ…魔族との戦いだもんね」
香織は雫に近づくわけでもなく、後ろで手を組むとゆっくりと訓練場内を歩き始めた。雫はそれを黙って見つめる。
「雫達が城を出たら、私はここに結界を張らないといけないね」
「そうだな。【聖属性魔法】が使える者の中で一番結界魔法に長けている香織にしかできない大仕事だ」
「…私が砦に行かない理由は本当にそれだけ?」
探るような視線を向けられた雫は思わず口をつくんだ。
「ふふっ…ごめんね。意地悪なこと聞いて。でも雫の顔を見れば本当じゃないってわかるよ」
香織が寂しげに笑う。
「親友だもん」
「……………」
雫は香織の顔を直視することができず、目を背ける。
「だから本当のことを教えて?」
香織の表情は真剣そのもの。親友にこんなに切なげに尋ねられて、雫には黙っていることはできなかった。
「…今回の魔族の襲撃では高確率で近接戦闘になる。香織は、確かに強力な四属性魔法が撃てて、回復魔法は誰よりも得意で効果も高い。しかし近距離での戦闘となると分が悪いのは明白だ」
「…そうだね。私はあんまり直接敵と戦うのは得意じゃないかな」
「ここで香織を失うことは王国にとっても私たちにとっても痛手だ。リスクの高い戦場に活かせるわけにはいかない。それに…」
「それに?」
雫は顔を上げると真正面から香織の目を見つめた。
「私が香織を失いたくない」
静かに、だがはっきりと雫は自分の本心を香織にぶつけた。それを聞いた香織は目を俯かせ、困ったように笑った。
「…私はまた誰かに守られるんだね」
「香織?」
「ねぇ…雫」
雫が心配そうに顔を覗き込むのもお構いなしに香織は笑顔で問いかける。
「雫は楠木君の事好き?」
「えっ?」
思いがけない言葉に雫は目を丸くする。そんな雫を見て香織は楽しそうに笑った。
「元の世界にいるとき、雫がいっつも楠木君のことを見ているの知ってたから」
「私が…楠木を?」
「うん…最初は雫は楠木君の事が好きなのかなって思っていたけど、途中でわからなくなっちゃった」
「わからなくなった?」
訝しげな顔で聞き返す雫に香織は頷いて答えた。
「だって雫が楠木君を見る目は恋する乙女のものじゃなくて…なんていうか…痛ましいものを見ているようだったから」
「痛ましい、か…」
香織の指摘に雫は自嘲の笑みを浮かべた。砂川恵子の一件からその重荷をすべて背負っている昴に、そういう感情を抱かなかったかと聞かれたら嘘になる。学校で昴を見るたびに、いつも前の昴に戻ってほしいと心の底から願っていたのだ。
「そう見えたか?」
「うん…なんか楠木君に引け目を感じているというか…それが原因なのかな?」
「原因?」
「雫が自分を偽っていること」
香織の言葉に、雫は驚きを隠せない。それを見て香織が悪戯っぽく笑った。
「気づいてないと思った?私は雫の親友なんだよ?」
まさか香織にばれていたとは…。驚く半面どこか納得している自分もいる。高校に入って一番長く接してきたのが目の前にいる親友なのだ。雫が香織のことがわかるように、香織も雫のことをよく理解している。
自分を見透かしている香織にこれ以上仮面をかぶっていてもしょうがない、そう思った雫は苦笑いを浮かべながら優等生の「霧崎雫」を脱ぎ捨てる。
「まいったなぁ…うまく隠しているつもりだったんだけど…」
「そうだね…割と上手かったかな?気づいたのも最近だし」
肩を竦める雫を見て、香織はふふふっ、と楽しげに笑った。雫は少し悩んだ後、真剣な眼差しを香織に向ける。
「昴はね…過去に傷を負ったのよ。あたしだったら耐えられないような大きな傷をね」
雫のまとう雰囲気が急に変わったことに香織は驚いたが、すぐに雫の話に耳を傾けた。
「あいつは困っている人を見たらほっておけないようなお人よしだったの。今の昴からは想像もつかないでしょ?」
「そう…だね。でも心当たりはある」
「心当たり?…そうなんだ」
雫は意外そうな表情を浮かべたが、少し嬉しそうに笑った。
「そんなあいつにあたしはたくさん助けてもらった。恥ずかしいから面と向かってお礼とかは言ってないけどね」
少し照れたように頬を染める雫。しかしすぐに真面目な表情を浮かべ香織の方を見た。
「さっきの答えはノーよ」
「ノー?」
「あたしは昴に恋愛感情を抱いていない」
雫がきっぱりと告げると、香織は信じられないといった顔をした。
「えっ?えっ?今の流れじゃ完全に…」
香織が言い切る前に雫は首を横に振って否定する。
「あたしが昴に抱いているのは憧憬の念と親愛の情よ。私はあいつを家族のように思い、そして憧れているの」
「憧れている…?」
えぇ、と雫は頷いた。
「昴は他の人にはない強さを持っている。あたしは幼いころからその強さに守られてきた。だからあたしも昴のように強くなりたいってずっと思ってた。それに…」
それまで饒舌にしゃべっていた雫が急に口を閉ざし、彼方を見つめる。
「…あたしが強ければ、昴に頼られるくらい強ければ、あいつがあんなに追い込まれることもなかったのに」
雫が自分の唇を血がにじむほど強く噛み締める。
「だからあたしは強い「霧崎雫」になろうとした。守られるだけの存在じゃない完璧な「霧崎雫」に。…でもだめだった。隼人にも言われたよ。そんな雫の姿はだれも望んじゃいないってね」
雫は苦笑いを浮かべる。香織は雫と隼人がこの場で打ち合った時のことを思い出した。あの時は何かを話しながらしばらく剣を交えた後、隼人がいなくなり雫が急に泣き始めたのだった。
「あの時に言われたの?」
雫がばつの悪そうな表情で頷く。
「隼人にはあたしのこと全部見透かされちゃってたな…香織と同じで」
「私は…雫がこんな性格だって見抜けなかったよ?」
「そりゃ人一倍気を遣ったもん!香織と仲良くなればなるほどボロが出そうだったからね」
「ボロって…そんなの出しちゃってよかったのに」
香織はなんとなく納得がいかない様子で唇を尖らせた。
「ごめんごめん!…でも弱い自分に戻りたくなかったからさ」
「雫…」
「…今はね少し迷っているんだ。これからも生徒会長である『霧崎雫』を演じていくかどうか。今更こんなあたしを見せるのもなんか恥ずかしいんだけど…隼人が言ったようにこんなのは間違っていると思うから、この世界に来た皆には本当の自分を見せたいって気持ちもある」
照れたように笑う雫はどこか強がっているようにも見えた。香織は雫に近づくとそっとその身を抱き寄せる。
「か、香織!?」
突然の出来事に目を白黒させている雫の頭を香織はポンポンと優しく撫でた。
「大丈夫。雫は強い子だよ」
「っ!?」
雫は大きく目を見開かせる。香織はそのまま優しい口調で話を続けた。
「私もね…楠木君に守られたんだ」
「昴に?」
「うん…『恵みの森』行った時にそこで私達の班が’グリズリーベア’に襲われたのは知っているよね?」
「それは知ってるけど…」
雫が微妙な表情を浮かべる。あの時のことは思い出したくないだろうと思い、お互い話題にするのは避けてきたのだ。
「その時にね、私は’グリズリーベア’に襲われそうになったところを楠木君が横から抱きかかえて助けてくれた…あの時の楠木君、かっこよかったな」
香織はその時の光景を思い出すようにそっと目を閉じた。
「前から雫が気にしている男の子ってことで楠木君のことは気になっていたんだけど、あの時から気になる意味が変わったんだよ」
「そんなことがあったんだ…」
「雫が楠木君のことを好きかどうかわからなかったから今まで言わなかったけど、雫が恋愛感情を抱いていないんだったら…」
雫は香織の肩が震えていることに気がついた。
「普通に恋、できたんだけどな」
香織は明るい口調で言う。でも本心はその流れる涙が物語っていた。雫は親友の身体に腕を回し力強く抱きしめる。
「…あたしの親友を泣かせるなんて、本当に昴はダメなやつだ」
「…うん、そうだね」
二人は抱き合いながら目を瞑った。
「ねぇ…雫」
「なに?」
「私、守るよ。お城もみんなも全部…楠木君が私を守ってくれた時のように。それが私にできる精一杯の恩返しだから」
自分に言い聞かせるように香織が宣言する。雫はゆっくりと頷いた。
「そうね…あいつも喜ぶよ」
「うん。…だから雫もちゃんと帰ってきてね」
「…わかった」
雫は香織の言葉をしっかりと胸に刻みつけた。