34.サクヤの本音
『龍神の谷』の東に位置する名もなき山。『裁きの地』として名高いマレー山脈の中でも一切の動植物が生息していない場所。山の上は平たく、横から見ると綺麗な台形の形をしている。頂と呼べるか怪しいが、山頂は干ばつのあった地のようにヒビ割れた大地が広がっていた。サクヤはただ一人、そこに立っている。
龍神の巫女として守備隊と共にここに来たサクヤはゆっくりと辺りを見回した。サクヤがすぐ戻るように促したため守備隊の姿はすでにない。目に映るのは荒涼な風景と岩でできた巨大な祠のようなもの。
「本当に何もない所なのね…」
サクヤがこの地に来たのは初めての事だった。基本的にこの地は許可なく立ち入ることはできず、年に一度の巫女の舞は集会所のさらに奥手にある祭壇で行う。
「生き物もいない…」
ここまで何もないと途方も無い寂しさが襲いかかってくる。サクヤは頭を振ると、気持ちを切り替えた。
「私は私の役目を全うしよう」
谷の人達を守る、その思いだけで歩を進める。そうでなければ祠から感じる威圧感でサクヤは一歩も前に進める気がしなかった。とにかく懸命に、時には自分自身を叱咤し足を動かす。
祠は縦横五十メートルほどあり、器用に岩が積み重なってできていた。光を通さず、目の前が見えないほどの闇が広がっている。
サクヤはゴクリと唾を飲み込み、手にしている松明に目を向ける。巫女としての正装、外の世界でいえば踊り子の服を着ているため、松明以外持ってくることはできなかった。
一度大きく深呼吸すると松明に手をかざす。そしてバチィッと電気を放つと松明に火がつき、祠内を照らしだすと、サクヤは大きく目を見開いた。
祠の内部は思ったほど広くはなかった。松明の火に当てられ見えなかった部分が鮮明になると同時にお目当てのものが目の前に現れる。
全長は三十メートルを優に超えている。血のように真っ赤な鱗には傷一つなく、黒い棘が尻尾の先端や背中などに生えていた。背中にある翼は身体の割に小さく、恐らく飛ぶ必要を感じなかったため退化したのであろう。前、後ろ両方の足にはサクヤの身体ほどもある鋭利な爪が、松明の火を反射して黒光りしていた。今は体を丸めているため、長い尻尾はそのなりを潜めている。普段は閉じられているであろう、その双眸はしっかりとサクヤを見据えていた。その余りに雄大な姿に神々しさすら感じる。
'炎竜'の中でも伝説的な存在、'炎龍'がそこにいた。
サクヤは松明を持っていることも忘れ、跪く。
「龍神様、お目にかかれて光栄にございます。私は龍神の巫女、サクヤと申します」
サクヤはが地面を見つめたまま続ける。その身体は細かに震えていた。
「龍神様のご就寝の間、私がこの身体にあなた様の糧を蓄えてまいりました」
炎龍は少し首を伸ばすと、サクヤの近くで鼻をひくつかせ、その匂いを嗅いだ。サクヤは顔を上げずにいる。間近で見てしまえば気を失ってもおかしくない。
「どうか私をお納めください。そしてもう一度深い眠りへとついていただくよう、お願い申し上げます」
恐怖を感じないといえば嘘になるが、後悔はしていなかった。自分が谷の人達を守ることができるという達成感を感じる。ただ少し心残りのことがあるとすれば、
(お母さん…)
いつも暖かく自分を見守ってくれた。巫女になると言った時も涙を流していたが「サクヤがそうしたいのなら」と笑顔で背中を押してくれた。
(お父さん…)
忙しかった自分の父。たまに家に帰ってくると仕事中の厳格さが嘘のように自分に構ってくる。正直うっとうしいと思っていたけど…今はそのうっとうしさが懐かしい。
(そして…お兄ちゃん…)
ニールを思うと心が痛む。最後まで私が巫女になる事を認めてくれなかった。普段は私に強くいうことはない兄なのに、あの時ばかりは一歩も譲らなかった。自分も意地になって、初めて兄と喧嘩した。喧嘩しながらも巫女にしたくない兄の気持ちがわかったから、心の底で喜んでいた。
走馬灯のように家族を思い出していると、不意に同居人の二人の顔が頭をよぎり、思わずクスリと笑ってしまった。
(あの人達もいたね…今だけは私の家族かな)
昴を初めて見た時からニールに似ていると思った。だからなのか、信頼することができた。
タマモは無邪気な笑顔でいつも自分に元気をくれた。妹ができたみたいで嬉しかった。
ふと地面に水滴が落ちるのに気がついた。水も枯れ果てた大地なのに、と不思議に思っっていたらすぐに発生源が判明する。
「嘘…私…泣いてる…?」
思わず自分の顔に手をやると、いつの間にか涙でビショビショであった。
「そうか私…」
今の今まで気づかずにいた、死を目前にしてようやく気づいた自分に思わず自嘲の笑みを浮かべる。
死ぬことは恐ろしい、死にたいなんて思わない。でもそれでもいいと思った。谷の人たちは自分にとても親切に接してくれた。自分が巫女だからなのかもしれないが、それでも自分が巫女本来の役目を全うすると知った人たちは涙を流し、別れを惜しんでくれた。そんな人たちのために自分の命を犠牲にするのは苦じゃなかった。
「死ぬことが嫌なんじゃなくて、もう会うことができないことが嫌なんだ…」
考えたこともなかった。生贄になった自分は死ぬ、それは覚悟していた。でも死んでしまったらもう自分の大切な人たちには会うことができない、それがとてつもなく悲しかった。それにやっと気づけた、でももう遅い。
サクヤは目の前で涎をたらしている炎龍に視線を向ける。
「竜神様、最後に私の言葉を聞いてください」
身体の震えはいつの間にか収まっていた。
「あなたのその膨大な破壊の力、恐れ多くあります。その力を封じるためならばこの身を喜んで差し出します」
その声は先ほどよりも凛としていた。炎龍が口を大きく開けるがそれを見ても一切ひるむことはない。
「もしあなたが次に目覚めたとき、私の大切な人々を傷つけるのであれば…」
涙は流しているが、その目には強靭な意志が宿っていた。
「そのときは私があなたを殺しにまいりますのでそのおつもりで」
サクヤの宣言と同時に炎龍が顔を突き出す。サクヤは自分の言った事に満足しながらスッと目を閉じた。
(みんな大好き…そして、ありがとう)
突如として訪れる浮遊感。サクヤは炎龍に噛み付かれたまま持ち上げられたのだろうと思った。しかし身体を牙が貫く感覚はおろか、一切の痛みを感じない。
「…そんな情けない顔をしているやつに巫女は務まらない、と前に言っただろう」
それは今一番聞きたいと思っていた声。ぶっきらぼうで無愛想で、それでいて愛情深い声。サクヤがあわてて閉じていた目を開く。
「お兄…ちゃん…?」
「やはりお前は巫女失格だ。死ぬ寸前に泣くやつがあるか」
そこには銀色の鱗を纏った兄の姿があった。サクヤを抱えたまま翼をたなびかせ、祠の外を飛んでいる。我を取り戻したサクヤが慌てふためき始めた。
「なんで…?どうしてお兄ちゃんがいるの?何で私を抱えてるの?こんなことしたら谷がどうなるかわかってるのっ!?あいつが暴れだしたら───」
「お前を助けに来た」
その一言でまくし立てるように騒いでいたサクヤが言葉を失う。ニールは目も合わさぬまま祠から離れたところにサクヤを置く。
「谷の者にも手出しはさせない。あいつは俺が倒す」
「倒すって…谷の掟は…?」
兄の口から信じられない言葉が飛び出してきたため、サクヤは唖然としながら兄の背中を見つめる。
「掟を守ることよりも、もっと大切なことがある。…どっかのいけ好かない野郎に教わったからな」
それだけ言うとニールはサクヤの方を見ずに祠へと飛んでいった。
「お兄ちゃん…」
残されたサクヤは、ダメだとは思いながらも、兄に助けられたことへの喜びがあふれ出し、とめることはできなかった。
「グォォォォオオオオオォォォォオオォォォオ!!!!」
辺り一帯に龍の咆哮が響き渡る。目の前でご馳走を奪われ、怒り心頭になった炎龍は力任せに尻尾を振り、祠をぶち壊した。少し離れたところにニールは降り立つ。頂上で唯一あった祠が吹き飛ばされ、見渡す限り何もなくなった。
炎龍が血走った眼をニールに向ける。それをニールが真正面から受け止めた。
「せっかくのご馳走をお預け食らって憤慨しているだろうが、それは俺も同じことだ」
ニールは愛槍’ファブニール’を呼び出すと、魔力を滾らす。その目は怒りに燃えていた。
「俺の妹を泣かせるんじゃねぇよ」
’ファブニール’を携え、亀裂が走るほど地面をけると、猛々しい銀竜は炎龍へと飛び掛った。