ピーチマン・シンドローム
ブックショートアワードというところに投稿して落選した作品です。せっかく書いたので、誰かに読んでもらって供養したいと思い、こちらにアップさせていただきました。読んだらぜひ感想をいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします。
20XX年3月某日、午後7時半を少しまわった頃のことである。
東京都豊島区にある大友さん宅で、主婦の克美さん(39歳)が、食後のデザートの桃を包丁で半分に切った直後、突如として「鬼退治に行かなきゃ!」と叫びだし、あっけにとられる家族を尻目に家を飛び出していった。その後、克美さんは同じ町内に住む藤原さん宅に押し入り、日頃からご近所づきあいのあった主婦の紀子さん(47歳)へ殴る蹴るの暴行を加えていたところ、異変を感じて駆け付けた近所の人たちに取り押さえられた。
これが現在、世間を騒がせている謎の精神疾患「桃太郎症候群」の第一号である。
* * *
電車が線路をひた走るけたたましい音。めまぐるしく過ぎてゆく窓の外の風景。それらを意に介さず、ただ雑誌の紙面に釘付けになる私の瞳。
「なになに。……桃太郎症候群はその後、数週間のうちに全国に蔓延し、日本列島を震撼させている。きっかけは桃に限らず、何かまるっこいものを半分にパカッと割ることで発病することが多く、政府は円形状のものを切る際は中央から割らないよう、呼びかけている。……か」
私は電車の中で「桃太郎症候群」に関する雑誌の記事を読みながら、これまでの己の無知に恥じるばかりであった。
今日は日曜日。ひさしぶりに旧友と会って釣りを楽しんできた帰りである。友人がしきりと話題にしていた桃太郎症候群。私もニュースなどで知ってはいたが、自分には関係のないことと高をくくってあまり注意を払っていなかった。自分だけは大丈夫、そんな根拠のない決めつけが、知らず知らずのうちに私のこの目を無関心という色眼鏡で覆っていたようだ。
友人と別れ、駅の売店で『こんなに怖い、桃太郎症候群』という見出しを掲げた雑誌を見つけ、思わず購入して読みふけっていた。
考えてみれば恐ろしいことだ。何せ、ある日突然、自分が桃太郎になってしまうのだ。いや、桃太郎になれるならまだいい。桃太郎は悪い鬼を退治するヒーローなのだから。誰もがヒーローに憧れ、そうなりたいと思うのは当然のことである。問題は桃太郎になったつもりで凶行に走る、その異常性に尽きる。しかも原因は未だ判っていないときている。
私にも愛する家族がいる。もしも私が桃太郎症候群にかかり、妻や娘を傷つけてしまったら? 大切な友人を襲ってしまったら? また、もし私が暴行を受けたら? 想像がつかない。想像がつかないだけに、暗黒の恐ろしさを感じるのだ。
「怖いね、桃太郎症候群って」
「突然、鬼退治に出かけちゃうんでしょ」
私が読んでいる雑誌のページをちらっと見た隣の人が、その向こう隣の連れ合いと桃太郎症候群について話しをはじめた。
「桃、好きだったのに。おちおち食べられないわ」
「かかる人、増えてるらしいからね。他人事じゃないよ」
そう、他人事ではないのだ。いつかは私も桃太郎症候群の犠牲者になるかもしれない。人を傷つける形でか、人に傷つけられる形でかはわからない。今のところ、まるいものを半分に切らないようにする以外、気をつける手立てはないが、とにかく桃太郎症候群に対する意識を強めることが大切だと、雑誌を読みながら気持ちを新たにする私なのである。
そのときの私はまさかその数十分後に、桃太郎症候群の恐ろしさを目の当たりにすることになろうとは、知るよしもなかった。
駅に降り立った私は、家に帰る前にちょっと一杯ひっかけていこうと、行きつけのバーに向かって歩きはじめた。目的のバーはあまり人気のない通りにあった。
歩くにつれ、駅周辺のにぎやかさが嘘のように静まり返り、暗い夜道に私以外の人間が認められなくなってきた、その時である。
「助けて!」
と叫ぶ女性の声。ただならぬ事態を察して周囲を見回すと、前方数メートル先の通りを女性が走り抜けてゆくのが見えた。続いて「おのれ、鬼め!」と叫びながらその女性を追いかける男の影。
私は持っていた釣り具をほうり投げ、全速力でふたりを追いかけた。
男はその手にバットを持ち、女性を追いかけながら、しきりにその肩や背中や後頭部を殴っている。殴られるたび、女性はそのダメージで速度を落とし、男からの攻撃を受ける頻度が高くなってゆく。
私は必死になってふたりを追いかけた。ひさしぶりに走ったので、すぐに息があがってくる。歳はとりたくないものだ。
女性の足がもつれ、道路にどう、とからだごと倒れ伏した。男は倒れた女性の上に仁王立ちになると、バットを振り上げ、勢いよく女性の頭に振り下ろそうとする。
「やめなさい!」
バットが女性の頭蓋骨を砕く寸前に私は追いつき、男を後ろから羽交い締めにした。これでも私は若い頃、グレイシーに憧れて柔術をやっていたのだ。息もあがっていたし、もがく男の力に少し手こずったが、なんとか女性から引き離すことに成功し、素早く左手で相手の襟をつかんで大外刈りで倒した。すかさず袈裟固めで男の動きを封じ、バットを取り上げ、遠くに投げる。男は倒れたときに頭を打ったらしく、体重をかけて思い切り絞めたらあっけなく落ちた。
「早く! 警察に!」
男を押さえつけながら、よろよろと起き上がった女性に向かって叫ぶ。その額からは、血がしたたり落ちていた。
女性は慌てて携帯をとりだした。
私の前には、うまそうなカレーライスとビールが並んでいる。バーで安酒を一杯やるつもりが、思わぬご馳走にありつけることになった。私はカレーライスが大好きなのだ。
「さ、どうぞ、食べてください」
「はい、いただきます」
私はカレーライスをひとくち食べて「うまい!」と唸った。「これは他にない味ですね」
「そうでしょう」
女性は微笑んだ。「市販のカレー粉じゃないんですよ。ちゃんとうちでスパイス調合してるんです」
「へえ」
「しかもお水、使ってないんですよ。野菜から出る水分だけで煮込んだんです」
「無水カレーですか。それは本格的ですねえ」
私はカレーを立て続けに数口食べると、ビールをコップの半分くらい一気に飲んだ。ビールの炭酸が、喉を気持ちよく刺激し、豊かな麦の香りが鼻を突きぬけてゆく。最高だ。
「最高です」そう正直に言葉にした。
「たくさん作ってあるので、遠慮なさらずどんどん食べてください」
この女性の名前は石田美津子さんという。
桃太郎症候群の被害にあっていた美津子さんを助けた私は、警察で手続きを終えた後、話の流れで彼女の家に呼ばれることになったのだ。助けてもらったお礼がしたいというのだが、もちろん当然のことをしたまでだから、いったんは断った。しかし美津子さんは都内某有名大学に勤める学者さんで、桃太郎症候群の研究をしていると聞いて、ちょっと興味をそそられたのである。
「しかし桃太郎症候群の研究をしていて、その被害者になるなんて、びっくりですね」
「そうでもないんですよ。桃太郎症候群にかかる人は増加の傾向にありまして、現在すでに100人に1人の割合でかかっているという統計が出てるんです。鬼にされる人も合わせれば被害者は100人に2人。しかし桃太郎症候群は子供はかかりませんから、成人だけを対象とすれば3%近くになります」
「なるほど。誰もがその犠牲になる可能性はある、と」
「はい。それは私のような研究者だからといって、例外にはなりません」
「ううむ」
私は難しい顔で、カレーライスの最後のひとくちを食べた。うまい。ひょっとして私は桃太郎症候群のおかげでいい思いをした唯一の日本人なのかもしれない。
「細川さんも奥さんやお子さんがいらっしゃるんでしょ」
細川というのは私の苗字である。
「そうなんですよ」
「お子さんはおいくつなんですか?」
「まだ1歳ちょっとです。去年生まれたばかりの女の子でして」
「あら」
「実は一昨年、結婚したばかりなんですよ」
「それはそれは……」
美津子さんは目をまるくして私を見ていた。
「ただいま」
と玄関から声がして、ドドッと足音とともに、勢いよくリビングルームに女学生が入ってきた。少女は私を見ると、息を切らしながら「あ、このおじさんが?」と美津子さんに尋ねる。
「そう、この方よ」と美津子さんは答え、私の方を向いて「娘のユリです」と言った。
ユリちゃんと呼ばれたその少女は私にむかってぺこりと頭を下げると、「母が危ないところを助けていただきまして、本当にありがとうございました!」と元気よく声をあげた。私はただ恐縮するばかりだ。
「強いんですね」
「いいえ、ちょっと柔術をやってまして」
「へえ。すごい!」
とユリちゃんは目を輝かせる。
ユリちゃんはそれからすぐに美津子さんの側にいくと、「お母さん、大丈夫だった?」と心配そうに声をかけた。
「大丈夫よ。まだちょっとからだのあちこち痛いけど、大事はないって。でも一応、明日精密検査を受けてくるわ。走りながら軽くだけど、頭をバットで殴られたからね」
「お母さん!」
ユリちゃんは心配そうに母の頭の近くに掌をかざしている。美津子さんの頭には、痛々しい包帯が巻かれていた。
「今日はもうお休みになった方がいいですよ。では、カレーも食べ終わりましたし、私はそろそろ」
と私が腰を上げようとすると、「あ。ちょっと待ってください」と美津子さんは私を制し、「ユリ、冷蔵庫にメロンがあったでしょ」と言った。
「うん、持ってくる」と、ユリちゃんはキッチンへ小走りに姿を消した。
「どうぞお構いなく。今日はお疲れでしょうから」
「いいんです。ゆっくりしていってください」
「そうですか。それではお言葉に甘えて、もう少しだけ」
正直、私としてももう少し桃太郎症候群について話を聞きたかったのも事実だ。「それで、石田美津子さんは社会学者だとのことですが」
「はい」
「桃太郎症候群を研究されてるというから、医学者か心理学者さんかと思っておりましたが」
「いろいろな分野で研究が進んでいるんです。海外でもこの現象は“Japanese Peachman Syndrome”と呼ばれて興味深く受け止められてまして、米国フィラデルフィアのペンシルバニア大学などからも何度となく日本に視察が訪れてるんですよ」
「なるほど。確かに変わった病気ですからね」
「医学的には脳の神経疾患の一種とみられてまして、ドーパミンなどの神経伝達物質のバランスが何らかの外的作用で崩壊する、といった見方が一般的です。実は私が注目したいのはこの外的作用の部分、つまりなぜ、まるいものを半分に切ることで、人が鬼退治に走るようになるのか」
「はあ」
「つまり桃太郎という、日本人なら誰もが子供の頃に聞いた昔話、これが何らかの形で生粋の日本人の潜在意識に作用して、発病をきっかけに形骸化するということです。現に、この疾患は日本独特のもので、海外はもちろん、例えば日本に住んでいる外国人にも症例はみられません。ただし、日本で生まれ育った外国人の場合は、確率は少なくなるのですが、少し症例がみられる」
「ははあ」
「ことは昔話ですから、社会学だけでなく、人類学や民俗学の視点も取り入れつつ、日本人の文化的な側面からの影響を多角的に研究していまして……」
とそこで、ユリちゃんがメロンを胸に抱えながら、片手でお皿を数枚持ってやってきた。一番上のお皿の上には包丁が乗っている。私はちょっとドキッとした。
「ありがとう」
美津子さんは包丁をにぎると、テーブルの上に置かれたメロンに向かって突き立てた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
私は慌てた。「危険です!」
「あ」
美津子さんは包丁とメロンを見て、おほほ、とさわやかに笑う。「大丈夫ですよ。半分に切らなければ問題ありません。ほら」
と言って、美津子さんはメロンを縦に三等分に切り、それからそれぞれの断片をまた半分に切った。奇妙な切り方だが、なるほど確かにこれならまるいものを半分に切った、ということにはならない。
「私のように日頃研究している身としては、何が大丈夫で、何が危険なのかの境目がはっきりしているぶん、あまり神経質にはならないんです」
「そういえば、桃の売り上げが下がってるんだってね」
とユリちゃんが言った。「他にも犬を飼ってる人が手放したり、動物園でもキジや猿の檻には人が近づかなくなったり、いろいろ影響が出てるらしいよ」
「バカバカしいわ」
と美津子さんは笑った。「でも普通の人は何が危険なのかわからないものですしね。神経質になるのも無理ありません。このメロンも、今は桃太郎症候群のおかげで、まるい果物が売れなくて安くなってるんですよ」
「桃だけじゃないんだ」
さっそくメロンにかぶりつきながら、ユリちゃんが言った。
「ユリ、制服着替えてからにしなさいよ。それに夕食が先でしょ」
「いいじゃない。部活で疲れてんの」
とユリちゃんはメロンを頬張っている。
「部活は何をやられてるんですか?」と私は聞いてみた。
「吹奏楽部です」
とメロンをもぐもぐやりながらユリちゃんが答える。「フルート吹いてます」
「そうだ、ユリ、細川さんに一曲、披露してあげたら」
「うん、いいよ」
ユリちゃんは残りのメロンをふんがっ、と口の中にほうりこむと、ティッシュで口をひと拭きして、階段をドタドタ登っていった。なんだかさっぱりしていておもしろい子だ。
「まるいものといえば」
美津子さんはまた桃太郎症候群に話しをもどした。「先日はガチャガチャのまるいケースがすべて回収されたそうですよ。あれもまるいものが半分にパカッと割れますでしょう」
「そう考えると、まだ気がつかないところで、まるいものが半分に割れるケースっていろいろありそうですね」
「ええ。まるい容れ物だとか、まるい顔のパペットだとか、あと、ビー玉や水晶玉なども床に落としたら半分に割れる可能性がありますし、この世からまるいものをすべて消さない限り、発病のきっかけはどこにも転がっています、まるいものだけに……」
そう言って美津子さんはクスッと笑った。座布団一枚には足りなかったが、私は社交辞令ではっはっはっ、と笑っておいた。
「それで、治療法といったものはあるのでしょうか」
「あ。治療法ですか。今のところはありません。鬼と決めつけた人をひとしきり痛めつければ元に戻りますけれども。要は本人が鬼を退治したぞ、と納得できるところまで相手をぶっ飛ばせたかどうかが基準のようなのですが、だからと言って……ねえ、そうなるまで黙って見守っているわけにもいきませんから」
「それはそうですね。鬼にされた人が死んじゃう可能性もありますからね」
「ええ。さっきのわたしがそうです。あのまま細川さんが通りかからなかったら、今のわたしはこの世におりません」
確かにそれを考えるとぞっとする。私が追いついたときには、まさに美津子さんはバットで思いきり頭を殴られる寸前だった。あと1秒遅かったら手遅れだっただろう。
「ちなみに鬼にされる人はランダムなんでしょうか?」
「いえ、ある種の法則のようなものがあります。実はここが重要なポイントなのですが」
「ほほう」
「何が鬼として特定されるかは個人の潜在意識が大きく関係しているようなのです。日頃から受けている精神的なストレス。例えば最初の症例である東京都豊島区の大友さんの場合は、近所の人たちの証言によると、息子さんが飲酒運転でつかまったことを近所に噂話として広められたことで、藤原さんに反感を抱いていた、という事実が明らかになっています」
「すると、こいつ嫌なヤツだ、とか、こいつが邪魔だ、と思っている人が鬼にされるという」
「平たく言うと、そういうことになります」
「ちなみに今日、石田さんを襲ったあの青年は?」
「あの子はわたしが教えているゼミの生徒です。どうも課題のテーマをわたしが何度もボツにしたことで頭を悩ましていたようで……」
「なるほど。ストレスが溜まっていたのでしょうね」
「そういった日々の生活で無意識に抑え込んでいたストレスが、まだ大人としての社会的制御機能が身についていない子どもの時期に聞き親しんだ昔話の形態を借りて表象化する、それが桃太郎症候群の本質なのではないでしょうか」
「なるほど。理には適っているように思えます」
私は桃太郎症候群というパズルに抱いていた疑問の最後の1ピースが、美津子さんの仮説によっておぼろげながら埋まった気がした。
そこでドタドタドタ、と階段の音を響かせて、ユリちゃんがやってきた。片手にフルートを持っている。「持ってきた」と言ってリビングのちょっと広めの空間に立ってこちらを向いた。
「お母さん、伴奏やって」
「わかったわ」
「セギディーリャね」
今まで気がつかなかったが、リビングルームのユリちゃんが立っている場所のすぐ横のところにピアノがあった。美津子さんはピアノの前に座って蓋を開けると、一度ユリちゃんに目で合図をして、流麗に鍵盤をたたきはじめた。それが前奏になって、ユリちゃんのフルートがメロディを奏ではじめ、美しい音楽が心地よく耳に流れこんでくる。いい曲だ。
音楽に身をまかせながら、頬を赤らめフルートを力いっぱい吹くユリちゃんをじっと見つめた。うちの娘もあと十五六年ほどしたら、こんな可憐な乙女になるのだろうか。生命の神秘を感じるな。
そうだ、うちの娘にも音楽を習わせてみようか。ピアノ、いや、ヴァイオリンなんてどうだろう。そんな物思いにふけっていたら、大人になったわが娘が綺麗なドレスに身をつつみ、舞台の上でヴァイオリンを弾いている光景が自然と浮かんできた。このシチュエーションはコンクールか何かだろうか。そして観客席で涙を流す私。隣には愛する妻がいて。ああ、世間が謎の精神疾患に怯えるなか、かくも私ひとりが甘やかな未来の想像に胸をときめかせている。
そして静音が訪れた。音楽が終わったのだ。
私は力強く拍手をした。幸せをありがとう。
ぺこりと頭をさげるユリちゃん。その横でそっと微笑む美津子さん。
「よかったです。もうずっと聴いていたいくらい」
私が感想を言うと、ユリちゃんと美津子さんは顔を見合わせて、アハハと笑った。
「それでは失礼します。今日は本当にありがとうございました」
私は靴を履いて玄関に立っていた。充実したひとときは早く過ぎてしまうものだ。しかし中身の濃い数時間だった。美味しい食事とビール、デザートのメロンに可憐な乙女の演奏する優雅な音楽。そして楽しいだけでなく、有意義な学びがあった。何せタイムリーで気になっていた桃太郎症候群について、専門家の方からいろいろ聞くことができたのだ。
「いえいえ、こちらこそまだ感謝し足りないくらいです」
と美津子さんは頭の包帯に手をあてる。
「おじさん、今日はありがとう、また遊びにきてね」
ユリちゃんが美津子さんの後ろから顔を出し、笑顔で手をふっている。こんな少女におじさんおじさんと呼ばれると、私もそろそろそんな歳なのかと違和感を隠しきれない。
「そう。また遊びにきてください。家も近いですし」と美津子さん。
「ええ、今度はぜひ私がご馳走させてください。それでは」
私はドアを開け、外に出た。すると、後から美津子さんがサンダルを履いて、追ってきた。門のところで私の腕をとり「本当に」と小声でささやいた。「またぜひいらしてください。よろしければ明日とか、お茶でもしませんか?」
「は?」
私は面食らって声を失った。「明日……ですか」
「はい、わたし、あなたに興味があるのです」
そう言って、美津子さんは私の顔を見つめている。
「ま……まあ、また連絡しますよ。それでは、私はこれで」
私は手をふって、その場を逃げるように立ち去った。必要以上に妻以外の女性と近づきすぎるのは抵抗があった。後ろを振り返ると、美津子さんが笑顔で門の前に立ち、手をふっている。怪しい含みはないように見えるが、今の妙に積極的な態度はなんだったのだろう。
帰り道、私はちょっとドキドキした。私は今年31歳、妻は2歳年下で、もうすぐ結婚して3年目に入る。まだ浮気をする時期にはちょっと早い。というか、浮気はいけない。私は妻を愛しているのだ。
美津子さんは見たところ三十代後半といったところだろうか。あんな風に手をつかまれて、目を覗き込みながら「また会ってください」なんて言われると、それまでずっと感じていなかった年上の女性の魅力がふつふつと記憶の残像を塗り替えてゆく。
私はひょっとして、一生分の運を今日この日で消費してしまうのだろうか。いや、それ以前に私はラッキーなのだろうか。単に魔性の誘惑に絡めとられようとしているだけではないのか。
私は頭をふると、深呼吸をした。
空を仰ぎ、星空に妻と娘の笑顔を思い浮かべる。
「文美子(妻の名前)、一瞬でも邪な妄想をよぎらせた自分を許してくれ。尚美(娘の名前)、お父さんはお前たちをこの命にかえても守っていくよ」
そう夜空に浮かんだ家族たちに語りかけ、前を向いて「よしっ」と背筋をのばし、家に向かって歩いていった。
そして私はその夜、なぜか家に帰ることができなかった。
というのは、どこを探しても私の家が見つからなかったのである。私の記憶にあった、家族と住んでいるアパートの場所には、ぜんぜん別の建物が建っていたのだ。
私の妻は、娘は、どこにいった?
わけがわからず路頭に迷い、とうとうその夜、私は公園で一夜を明かした。夜の公園は寒さがからだにけっこう堪えた。美津子さんのところにいったん戻って助けを乞おうと思ったが、どうも別れ際の美津子さんの態度が気になって、躊躇してしまった。
明け方、「お父さん! こんなところにいた!」と声が聞こえて、公園のベンチで目が覚めた。からだを起こし、目をこすると、見たこともない三十代くらいの女性がこちらに向かって走ってくる。その向こうでは、初老の女性がてくてくと呆れ顔で歩いてくるところだった。
「あなた! 帰るわよ!」と初老の女性が叫ぶ。よく見ると、それは私の妻に似ていた。しかし私の妻はあんな年寄りではないし、あんなに太ってもいない。
「お父さん、もうボケたの?」
三十代くらいの女性が私の前で立ち止まり、怪訝な顔をする。
「あなたは誰ですか?」
そう私がたずねると、女性はびっくりした顔で後ろを向き、太った初老の女性に向かって叫んだ。
「お母さん! お父さんがボケた!」
私はふと、自分の顔をさわってみた。女性はまた私の方を振り向き、「しっかりしてよ、お父さん。わたしよ、あなたの娘の尚美よ」と言う。私はそんな言葉もろくに耳に入らず、あるはずもない顔のシワを指でなぞっていた。その手を上へと動かすと、脂ぎった頭の中央には毛が生えていなかった。
私は震える手を下ろし、そのしわくちゃでシミだらけの手をじっと見つめた。
* * *
20XX年8月某日未明、埼玉県の細川宏さん(62歳)が釣りに出かけた帰り、突如として心神喪失状態に陥り、自宅の場所がわからなくなって公園で寝ていたところを家族によって保護された。細川さんは家族の顔も識別できず、「私は昨日まで三十代の若さだった。数時間のうちに何十年もの年月がたっていた」と訴えている。
細川さんは発見される前日、街中で暴行を受けていた社会学者の石田美津子さん(39歳)を助け、お礼に石田さん宅に招待されていた。美津子さんは細川さんが家にいるときからなんとなく異常は感じていた、と証言している。
これが人を助けてお礼をされると、過去数十年の記憶を失ってしまう「浦島太郎症候群」の症例第一号である。
浦島太郎症候群は桃太郎症候群にかわって数週間のうちに日本列島に蔓延し、政府は人に何か助けてもらっても、お礼をするときは1週間以上の間をおくよう呼びかけている。