討ち取られて候
村の外れに桃の木があった。
それは村が出来るずっと前から根をはり、毎年鮮やかな花を咲かせながら村の記憶とともに年輪を重ねていた。
ある年の秋、桃の実が結んだ頃、その木の根に竹細工の籠が一つ置かれていた。
畑仕事に出向く前、桃の具合を確かめに来たその男は興味に惹かれるままにそれを覗き込んでみると、中に居たのは赤子が一人、まだ頭髪も生えきっておらず目も固く閉じてすやすやと眠っていた。
男が恐る恐る赤子を抱き上げると、小さな瞼がゆっくりと開き秋の日を受けて輝く黒目が現れる。一瞬まぶしそうに目を細めたが、眼前にある男の顔を見てはっきりと判る笑顔を浮かべると節くれも曖昧な両手を伸ばし、さかんに男の顔を触ろうとする。
当然届くはずもない。男は赤子を自らの顔に引き寄せると、小さな掌が男の頬と顎を何回も叩いた。
どうしてよいのか判らぬ、何故に笑うのかも判らぬ。
よほど男の顔が気に入ったのか、赤子は泣きもせず仕舞いには男の腕を枕に寝てしまった。
改めて空になった籠の中を見てみると、半紙が一枚だけ入っており簡潔にこの子が捨て子である事が書かれていた。
もしや人身御供にされたのかもしれぬ、そんな親御の思案など関係なしに、赤子は健やかに眠っていた。
この子をこのまま籠の中に戻す事だけは出来ず、己の両手をゆりかごのようにしそのまま家へと連れ帰った。
それから近所の村人が男の家に集まり大騒ぎになるものの、赤子は男の女房が敷いた布団にくるまって、騒動など人ごとのように寝ている。
「肝の据わった赤子だ」
男はそう言って赤子に巻き付いていた布をそっとめくってみた。
「なるほど、男の子であったか」
「どれ、儂にも見せてみい」
「いや、お主の顔はこの子に毒だ、儂の顔の方がよかろう」
集まった男たちは物珍しそうに赤子を見ながら我先にと抱き寄せようとする。誰も彼も他の物を笑い飛ばす事が出来ないほど厳つい面構えをしているのだが、その中でも際だって強面の男を前にしても寝息を立てている事から、自分であれば大丈夫と信じているのだろう。
ようやく一人が前に出て、そっと赤子の額に手を伸ばしたのだが、その気配を感じてか大きなまなこを開いたは良いが、次に聞こえてきたのは家中を響く鳴き声だった。
そうなるとどうしてよいか判らぬ、赤子以上に怯えた表情を造り、救いを求める目を赤子の拾い主に向ける。
男は仕方なく赤子を抱き上げると自らの顔に近づけた。
するとどうだろう、泣き増しやしないかとそわそわする村人の考えと反し、赤子は男の顔を見て笑い出した。
おうと皆が声を上げてもかまわず笑い続ける。
「お主の顔を見て笑うとは、肝が据わっていると言うより悪食だ」
「お前の女房とよく似ておる」
一同、腹をかかえて笑ったが、それよりも高くて透き通った赤子の笑い声に男は似合わない笑いを浮かべ、その後すぐにまじめな面持ちになった。
「儂はこの子を育てようと思う」
男の声に、村人の笑い声が一瞬で消え、男の女房も含めて目を見開いたまま無言で巌の顔を見ていた。
「正気か?」
「もちろんだ。このまま捨てておく事は出来ん」
「だが、判っておるのか? そのこは人の子だぞ」
もう一人の男の問いかけにも強く頷いて見せた。
「それも判っておる」
「判っておらんよ、お主は鬼だぞ」
その通り、赤子を抱いている男の肌は赤く、分厚い皮膚は岩のようだった。太い首の上に乗っている顔も岩石そのもので、頭には額の左右に角まで生えている。
赤鬼は赤子を抱いたまま頷いていた。
「そうだ、お主らと同じ鬼だ」
そして男を取り巻く村人も、男の女房も皆鬼だった。肌の色はそれぞれ異なるが、額には角が生えている。
赤鬼は唖然とする村人の視線をかわし、人間の赤子の顔を見つめた。
「よし、今日よりこの子は儂の子どもだ。ならば名前を付けなければなるまい」
あぐらをかいた太ももの上に、そっと赤子の身体を乗せた後、太い腕を胸の前で交差させ、赤鬼はうんと首をひねって見せた。皆も訳が判らずその様子を眺めていると、赤鬼は腕を解いて自らの膝をぴしゃりと叩いて微笑んだ。
「この子は桃の木から産まれたのだ、だから名前は桃太郎としよう」
赤鬼は両手でそっと赤子を包み込むと高々と抱き上げた。
「今よりお前の名前は桃太郎、儂はお前のおとうだ」
そして豪快に笑うと桃太郎も同じように笑った。
「そうか、気に入ったか。お前は儂に似て強い子になるぞ」
しかし笑っているのは赤鬼と桃太郎だけである。
村人は桃太郎を見て、口に出せないそれぞれの不安を顔に現していた。
鬼が人の子を拾って育てると言っても、それが赤鬼だけの事で済むはずもなく、その夜、村長の所に家長が集まって相談となった。
車座になって屈強な鬼たちが取り囲んでいるのは桃太郎である。まだ赤子なので寝るのが勤めと言うほど、折りたたまれた布団の上で気持ちよさそうな寝息を立てている。その寝顔を微笑んで見ているのは赤鬼だけだった。
赤鬼が拾った直後は物珍しさもあって、皆の興味を引いていた桃太郎も、この村にあって育てるとなると話は別だ。
「儂は反対だ」
いの一番に口を開いたのは紫色の鬼だった。背丈は小さいがかなり肥えている。紫鬼が身体を揺らすと造りのしっかりした床でもひずんでしまいそうだった。
「鬼が人の子を育てるなど聞いた事がない。むしろ赤鬼に出来るはずもない」
「なにも儂一人で育てるわけではない、かかあもよいと言っておる」
次に声を上げたのは緑色の鬼だった。身体は細いが背丈は赤鬼より頭一つ大きい。
「乳はどうする、人の子に何を食べさせるつもりだ?」
「村には山羊もおろう。食べるものなら木の根も魚も存分にある」
「儂らと同じ物を食べさせる気か?」
「人とて芋や魚は食うであろう、儂らに比べれば食べる量も多くあるまい」
そこに黄色の鬼が割り込んできた。この鬼は地肌こそ黄色いが全身を金色の体毛が取り巻いている。おまけに傷だらけで右目は閉じたままだった。
「この子が大きくなって、儂らに何かするのではないか、もしかしたらそのために人間が送り込んだのではないか?」
重々しいその言葉に、赤鬼は答えなかった。さらに黄色の鬼は話をつなげた。
「鬼が儂らだけになったのは、皆人間に討ち滅ぼされたからだと聞くぞ」
その言葉に、多くの鬼が頷いていた。
「では、この子はどうせよというのだ?」
「もとの場所に返せばよい。人間が拾えば人の子として育てられよう」
「儂らの村の外れにまで出向いて捨てられた子だ。恐らく川の下流の村の赤子であろう。去年も今年も飢饉と聞いておる。人に育てられるわけがない」
「ならばそれまでが赤子の定めというものだ」
しかし赤鬼は頭を振っていた。
「いや、儂にはできん」
「考え直せ、今は赤子故にお主の素性など判らず、ただ笑っているだけだ。大きくなって人の子となれば……」
「お主はどうしても、この子が儂らの首を取ると言うのか!」
「そうなるかもしれんと言っているだけだ」
黄色の鬼の落ち着いた声に、赤鬼は足を踏み鳴らして腰を上げそうになったが、
「落ち着くのだ、赤の、黄の」
上座に居た黒い年老いた鬼が、低い声で制していた。この鬼は村の長であり、一番の年寄りであるにも関わらず、力比べであれば赤鬼と同格という猛者である。
「儂も人の子をこの村に置く事はどうかと思う」
黒鬼はこの騒ぎの中でも、寝息を立てている桃太郎をじっと見た。
「この子は人の子だ。そして儂らは鬼だ。例え言葉が通じようと同じ物を食べても、大きくなれば自分が父親と違う事に気がつくであろう。その時に、赤のはどのように説明するつもりだ?」
問われた赤鬼は腰を落としてから、腕を組んでうなり声を上げた。長の言う事はもっともである。赤鬼にしてみると力でなく知恵で押されるのは苦手であった。
黒鬼はその視線を、考え込む赤鬼から青鬼に向けた。
「青の、お主はどう思う」
今まで一言も声を発せず、堅く目を閉じたままであった青鬼は、一呼吸してから桃太郎を見た。
「人が育てれば赤子は人と成り、鬼が育てれば鬼と成る」
青鬼はそれだけを告げると目を閉じて黙ってしまったが、黒鬼はそれ以上聞く事もなくゆっくりと頷いた。
「さりとて今すぐ川に流すわけにもいくまい、人の里の貧窮については儂も心得ておる。しかし飢饉も長くは続くまい」
黒鬼は赤鬼を見た。
「この子が十になるまで赤のが育ててみればよかろう。その歳になれば一人でも生きていけよう」
黒鬼はそう言って一同を見回した。数人は納得していないが、村長の提案であればと、あえて意見も出さなかった。彼らにとって不可解な存在であっても、桃太郎には興味があるという事なのだろう。
「儂は、反対だ」
黄色の鬼だけはその言葉を放ったが、それでも強く出る事は無かった。村人は、彼が人間を毛嫌いしている事、その理由も心得ているのでその言葉を収めさせようとしなかった。それでも赤鬼とにらみ合いをしていたが、桃太郎が目を覚まして大きくあくびをすると、赤鬼は視線を桃太郎に移していた。
そして不似合いな笑顔を浮かべていた。
桃太郎は健やかに育っていた。
緑の鬼が心配していた乳と食べ物は特に問題にならず、赤鬼が育て始めて一年程度は山羊の乳を飲ませていた。村でも子どもが居た時は、乳の出ない家でそうしていたと年寄りに聞いたからだ。歯が生えると穀物でかゆを作り、木の芽をつぶしてそれに混ぜた。
三つになるころには身体も大きくなり、立って歩くようになる。この頃になると鬼が普段食べている物でも口に出来るようになった。鬼と言っても人をとって食らうわけではない。川に出ては魚を捕り、山に入っては木の根や果物、兎や猪に鳥を捕って食べた。高台には畑があり旬の野菜を植えては育て、冬にそなえて裏山の洞窟に蓄えていた。
鬼は人間が思うほど好戦的では無かった。むしろ無用に血を流す事は好まず、贅沢とは無縁な生活をしている。
獣を捕るのもそう多くはない。自分たちが多く食らう事は判っているので、欲するままに捕ってしまえばそれらが居なくなってしまう事も理解していた。普段は畑でとれる物を口にし、果物で造った酒を飲む程度である。
故に鬼にしてみると、人間たちが何故自分たちを怖がるのか判らなかった。人間と相対せば力が強く、鋼のような皮膚をしている鬼が勝つのは自明の理だった。とは言え、数ではかなうわけもない。この村に居る鬼は五十人にも満たないのだ。
そもそも鬼が人の村を襲う理由が無かった。食べ物は足りていたし、着飾る癖もない。金銀財宝を奪ったとしても自分たちには価値が無いのだ。
人が鬼の村に迷い込む事は、過去にも多々あった。思ったほど凶悪ではない鬼の生活を見て、心を通わせた者も居る。しかしそういった人間も、ひとたび人里に帰れば「鬼に拐かされた」と同情され、実のところ鬼は恐ろしくないと訴えても「気がふれた」と言われるだけだった。
かと言って、鬼が恐ろしくないと理解されると、それはそれで面倒となる。鬼はお宝を蓄えていると噂されているからだ。それらに目がくらんだ人間が、徒党を組んで鬼の村に踏み込む事もあった。
好戦的ではないとはいえ、されるがままに殺される理由もない。人間が乱暴を働けばそれをいさめる、時には身を守るために殺める結果にもなった。人間は仲間の死骸などほっぽって、這々の体で逃げていく、鬼は自らが手にかけてしまった人間を不憫に思い、墓に埋めては供養している。
逃げ帰った人間は、やはり鬼がどれほど凶悪かを解くのである。そのうち、鬼と人の間に、踏み込んではならない境界線が出来ていた。赤鬼の住む村では桃太郎が捨てられていた桃の木がそれにあたる。飢饉にも関わらず、落ちるほど熟れた桃の実が木になっているのもそれを取って鬼に祟られるのを恐れての事だ。
むしろ桃太郎は、飢饉をどうにかして欲しいという人間が、供え物として置いたのかもしれぬ。黒鬼は別の村にて、鬼は滋養のために人の赤子を食らうと言い伝えられていると聞いたそうである。
そんな素性も知らない桃太郎が、言葉を話せるようになったのも三つを迎えてからだった。鬼は寡黙な者が多く、赤鬼もその一人である。なので言葉は遅れたが、五つになるころには鬼の言葉を話すのに不自由はなく、自らの意思表示も行えるようになっていた。
立って歩く、言葉を話すとなると、村人はさらに桃太郎を可愛がった。
それには訳がある。この村ではここしばらく、どこの家にも鬼の子どもが産まれていなかったのである。
いわば桃太郎は、この村皆の子どもであった。六つになると村人は、桃太郎を盛んに家へと招いていた。
名目は教育だ。十になって人里に返す事になったとして、何も出来ないのでは大変である。せめて一人でも生きていけるようにしなければならない、それは建前だが何かを教えることで、桃太郎を家に呼ぶ事は出来るのだ。
この村に住む鬼は、皮膚の色や体格や、角の位置や数が異なるのだが、お互いが持っている特技も違っていた。
例えば赤鬼は、村でも一番と呼べる体格と体力があったが、普段は畑仕事に専念している。特に未開拓の土地を耕し、その土に合った野菜を育てる事が上手であった。
青鬼は弓矢の才があった。桃太郎をつれて山の中に入り、自ら鳥を射落として、無言で道具を渡すのである。当然最初から上手くいくはずもなく、矢もまっすぐに飛ばせなかったがさりとて怒る事もない。そのうち青鬼を見よう見まねで思った方向に矢を飛ばせるようになり、初めて鳥に当てた時、青鬼は無言で頷くと桃太郎の頭をなでていた。
緑の鬼は魚釣りが上手い。竹竿に糸と針を付けただけの簡素な釣り具だったが、彼が釣り糸をたれると、まるで魚の方が喜んで針を銜えているのではないかと思えるほどかかってくる。無論捕りすぎる事もないが、桃太郎が初めて魚を釣り上げた日は家に帰るとそれを焼いて皆で食べた。
紫の鬼は山の中で木の芽やきのこを探すのが上手かった。例え冬であろうと、どこからか食べられる物を見つけ出す。それと同時に食べられない物を仕分けする目も効いていた。特に毒きのこや毒草については詳しく教えていた。
黒鬼は知恵者である。年寄りだけあって誰よりも色々な事を覚えており、算術については黒鬼にかなう者は居ない。初めは昔話を聞いていた桃太郎だったが、いつの間にか算術に興味を覚え、黒鬼も教えられる物は片端から教えていた。
黄色の鬼は相変わらずだったが、それでも桃太郎本人を目の前にするとさして毛嫌いの様子は見せなかった。彼は体術を得意としている。特に相撲を取らせたら赤鬼でもかなわない。もちろん彼相手に桃太郎がかなうはずもないが、掴んでは投げられ掴んでは投げられを繰り返すうちに、勝つには至らないが黄色の鬼の身体を寄せる程度は出来るようになった。その事を赤鬼の家で自慢する。自分が勝った事ではなく「桃太郎に押されて危なく負けるところであった」と、不服のように訴えてはその顔はゆるんでいた。
桃太郎は日替わりに鬼の家に訪れ、その日にあった事を家に帰っては赤鬼に報告する。決まってその翌日には前日桃太郎が訪れた家の鬼が赤鬼の家に訪れて、昨日はこんな事をした、桃太郎は覚えが早いとうれしそうに語るのである。
「もちろん、儂の子だからな」
「なにを言う、お主一人であそこまで育つはずがない!」
鬼どもはそうやって桃太郎を相手に自らが父親であるように振るまい、その家の女房は母親である事を実感していた。
さらに歳月は流れ、桃太郎は九つになっていた。
「おとう」
朝飯を食べ終え、畑仕事に出るために支度をしていた赤鬼の背中に、桃太郎は語りかけた。
背丈は赤鬼の腹の位置ほどだが、人の子どもとしては立派な体格をしている。黒々とした髪は赤鬼の女房が切りそろえているため短めである。大きなまなこは澄んでいてじっと赤鬼の事を見ていた。
村の鬼たちに色々な事を教わり、人間の子どもと比べると九つと思えないほど利発である。特に算術はこの村で黒鬼に次ぐ実力があり、新たに畑を作り、水路を計算する時は、桃太郎に相談するほどだ。最近では夜に黒鬼と山に出向き、空の星々の見方を教わっている。北の方角にある動かぬ星を中心に、星々は時間を経て天空を回転している事、明るい星を結んで形として覚える事、季節によって見える星が異なる事、月が一定の周期で満ちかける事などを星が見える間たっぷりと教え込まれた。
狩猟の腕前も上がり、最近では青鬼もまず桃太郎に狩りをさせる。もはや打ち損じる事はなく、百発百中であった。魚釣りも緑の鬼と一緒では魚を捕りすぎてしまうので、日の向きによって交代で釣り糸をたれている。
しかし桃太郎がなにより好んだのは、赤鬼と一緒の畑仕事だった。他の鬼たちが盛んに桃太郎を招くために、月に一、二度畑に向かえば良い方だが、それでも土仕事をする桃太郎の笑顔はどこの家に行った時よりも良いと赤鬼は思っている。立派な親馬鹿であるが、この村で親馬鹿で無い鬼など居なかった。
「どうした桃太郎」
「俺はいつになったらおとうのように、赤い身体になれるんだ?」
桃太郎はそう呟いて、赤鬼の太い腕をじっと見ていた。
「それにこんなに柔らかくては、相撲をとるたびに怪我をする。早くおとうのような身体になりたい」
眉を潜める桃太郎の顔を見て、赤鬼も表情を曇らせ、言葉につまった物の、すぐさま背を伸ばし、大きな声で答えた。
「お前はまだ子どもだ。大人になれば儂のようになる」
「本当か、おとう」
「おうさ、儂がお前に嘘を言うた事があるか? 大きくなりたかったら飯を食え。そして村の物に色々な事を教えてもらうのだ」
「判った、そうする!」
桃太郎は笑顔で頷いた。赤鬼は桃太郎の頭をなでて声を立てて笑った。
「今日は紫のおとうのところに行ってくる。山の中にはきのこが増えたから、それを取ってくる」
「うむ、迷惑をかけないようにな」
その後、桃太郎は赤鬼の女房に持たされたちまきを腰にぶら下げると、元気よく家を出て行った。赤鬼は手を止めて家の戸をじっと見ていたのだが、ほぼ入れ違いに白銀の鬼が入ってきた。
はて、誰か来るとしたら、昨日桃太郎が世話になった橙の鬼のはず、いぶかしげに訪問者を見ていると、
「今夜、村長の所で会合がある」
「何の会合だ?」
「柿色のが帰ってきた。その報告だ」
白銀の鬼は女房が差し出す茶を飲むまもなく、用件だけ告げると家を出ていった。その話し方と丸まった背を見て、良い報告では無い事を赤鬼は悟っていた。
「そうか……鬼はついに、儂らだけになってしまったか」
肩を落としてそう呟いたのは赤鬼だった。
村長の家に集まった鬼たちは、北にある鬼の村に出向いていた柿色の鬼の話を聞いた直後だった。北の村は往復で二ヶ月程度かかる距離にあり、規模はこの村よりずっと小さい。山の奥深くに造られ、人間との交わりもなく、ここと同じように子どもは居なかったが静かに暮らしていたはずだった。
音信が途絶えたのが半年前、その様子をうかがいに出向いていたのが柿色の鬼だったのだが、彼は何度もため息をつきながら自分が見てきた事を告げた。
「あの村に鬼の姿は無かった。かわりに人間が住んでいる」
「お主が村を間違えたのではないのだな?」
「それはない、山の中を存分に探したが、他に村もなく隠れている様子も無かった」
「では、村を捨てていずこに向かったと言う事か」
「さもなくば、人間に討ち取られたのであろう」
黄色の鬼の声に、皆は顎を上げ、そしてため息をつくとまたうつむいた。
彼はこの村から西にあった別の村の住人であった。その村の規模は赤鬼の村より小さく、桃太郎が拾われる一〇年ほど前に、財宝の話に踊らされた人間に踏み込まれ、彼を残して村は消えてしまった。戦上手の彼とて押し寄せた大勢の人間相手に手こずり、遠くより放たれた矢に目を貫かれ、崖から落ちて命を落としそうになるものの、何とか人目を避けて逃走する事が出来た。傷を癒し、村に帰ってみたものの、そこは無人となり、人々に荒らされ見る影もなかったという。
そして交流のあったこの村に身を寄せたのだ。彼が人間を毛嫌いするのはそんな理由である。彼の村の者がどこに消えたかは定かではないが、この村にたどり着いたのは黄色の鬼、唯一人であった。
あれから二〇年、この村を出て遠方に鬼の村を探しに出かけた者は数知れず、帰って来ない者も居るが、戻った鬼にしてみても語られるのはどこにも同胞の村は無いという悲しい知らせである。
「すると、もはや海を渡るしかあるまい」
紫の鬼はそう呟いたが、それがたやすい物では無い事など、ここに居る鬼どもにもよく判っている。彼らは泳ぎが苦手である。水につかると浮く事がない。故に桃太郎が初めて川に落ちた時はそれこそ大騒ぎになったものの、落ち着けば彼が川を泳いでいる事を見て驚いたものだ。
舟を作るにしてもせいぜい川を渡る程度であった。昔からの言い伝えで南に進んで海の向こうに大きな島があり、そこに鬼の村があるとは聞いている物の、そこを目指して旅立った鬼が帰ってきた事は一度もなかった。
すると、やはり鬼の村はここにしかないのだろうか、赤鬼は腕を組んで頭をたれるとそこに居た他の鬼たちも同じようにうつむいた。目の前に用意された杯も進まず、重い空気だけがかがり火を暗くしている。
「仕方有るまい、北の村から誰ぞ来れば、皆で迎えるしかなかろう」
黒鬼は自ら杯をとって空けるとそう呟いた。それに続いて橙の鬼も杯を持ち上げた。
「今度は儂が東に足を伸ばしてみよう。長も昔、東に村があったと言っておったであろう」
「うむ、確かにそうだが、そことも音信が無くなってすでに四〇年余り、今ではどうなっておるか……」
「向こうとて、ここと連絡が付かぬと嘆いているやもしれん。手土産に酒でも持って儂が様子を見てくる」
橙の鬼はそう言って飲み干した杯を白銀の鬼に向けた。ここの酒は白銀の鬼がこさえた物である。桃太郎にも教えたいところだが、まだ子どもなので酒を飲ませるわけにもいかず、なかなか自分の技を教えられない事を不満に思っていた。
「早く桃太郎も大きくならんだろうか。酒が飲めるようになれば、儂の元で仕込みの仕方を教える物を」
「そう言えば桃太郎も、そろそろ十になるのだな」
白銀の鬼の愚痴が酷くなるのを避けるように、黒鬼は赤鬼を見て呟いていた。話題が桃太郎になったとたん、居合わせた鬼たちの強面もどこかゆるんで皆が急いで酒に酔ったようにほころんでいた。
表情としてやや堅いのは黄色の鬼だけ、彼にしても緩みが表に出るのを必死に隠そうとしているのか、杯を空ける間隔が短くなっていた。鬼の中でももっとも無口な青鬼は腕を組んでいつものように何も語らぬが、それでも皆と思いは同じなのか、ゆっくりと頷いていた。
「そうそう、昨日は儂のところで土をこねくりまわしておった」
橙の鬼がそう言い始めると、皆のおとう自慢が始まる。
「それで何を作っていたと思う、赤の」
「さあて、儂には判らんが」
「まだ乾いておらん故に、見せる事もままならんが、出来上がったら、お主も驚くぞ」
「ううむ、明日は儂のところか。さあて何を教えたらよいものか」
「迷うておるのなら儂の家によこせ。この間儂の所に来た時は、儂の親父がようきたようきたと桃太郎を離さないで何も教える事が出来なかったからのう」
「それは儂のところも同じだ。お袋は桃太郎を甘やかすので困る。きちんと教える物は教えんといかん!」
鬼どもは盛んに桃太郎を自分の家に招こうと大声を出して主張した。そんな中で赤鬼だけはどこか浮かない顔で手に取った杯をじっと見ていた。
黒鬼の言う通り、桃太郎がこの村に来てから一〇年が過ぎようとしている。人間よりずっと長寿の鬼たちにとって一〇年はあっという間だが、みるみるうちに大きくたくましく賢くなる桃太郎は、すでにこの村に住む鬼たち全ての子どもであった。そこに一〇年前に黒鬼が決めた約束事など誰も覚えていないようだった。
恐らくそれを気にするのは黄色の鬼だけだろう、表向き、彼はそれを持ち出すかもしれんが、彼とて今では本気で桃太郎をこの村から追い出そうとは思っていない事を、他の鬼たちも心得ている。桃太郎が彼の家に向かうと、迷惑千万という顔をして見せても、相撲をとる顔に人間を見る憎しみはかけらも無かった。それより日に日に強くなっていく息子に向ける目は、普段見せた事のない輝きがあった。
「どうした赤の、何を考えておる?」
明日、桃太郎を招く役目の緑の鬼が、杯を傾けながら尋ねると、赤鬼も持ち上げたままの杯をゆっくりと降ろして大きく息を吐くと、こう告げたのだ。
「儂は、桃太郎を人間の里に帰した方がよいと思うておる」
鬼たちの歓喜で賑やかなそこが、一瞬でしんとなり空気が張り詰めていた。水を向けた緑の鬼も、赤鬼の言葉が理解できず、さかんに首をひねっており、黄色の鬼も杯を空けた姿勢でぴたりと止まっていた。
「赤の、お主、今何ともうした?」
「桃太郎は人間の元で育てるのが良いと言うたのだ」
「馬鹿な!」
大声を張り上げたのは紫の鬼だった。彼は突き出た腹を大きく揺らして中腰になると、赤鬼をにらみつけていた。
「さてはお主、桃太郎が儂たちの家に出入りして、お主の家に居ない事に逆恨みをしておるのか」
「そんな訳がない。桃太郎は儂に一番なついておる」
確かに赤鬼の言うのは事実だった。他の鬼の家に行った桃太郎は、その家の者が「泊まっていけばよかろう」と進めても「おとうと一緒に寝る」と必ず帰るのである。そこで無理強いをしても桃太郎が悲しそうな顔を向けるので、「赤のによろしくな」と泣く泣く送り出すのが常であった。
「では、何故そのような戯言をはく、お主、酒に酔うて気がおかしくなったか?」
「今は酒など一滴も飲んでおらん、飲んだとて酔う事も無かろう」
「では訳を話してみい、お主が桃太郎を人間の里に帰すなどとのたまう訳を」
「それは、桃太郎は人の子だからだ」
赤鬼はそう吐き捨てるように言って、杯を持ち上げたが首を左右に振りまた降ろした。
桃太郎は人の子、それは赤鬼が十分熟した桃の実の下、半紙一枚で捨てられた赤子を拾った時から曲げられない事実である。それを何を今更と周りの鬼たちは目で訴えていた。
「……いずれ儂ら鬼は皆、居なくなるのだろう」
赤鬼は車座の中央に顔を向けてそう呟いた。一〇年前、桃太郎を拾ったその日、ここで今と同じように鬼たちが会合を開く中、赤子の桃太郎が寝入っていた場所である。
「今や鬼の村はここだけになってしまった。しかもここしばらく鬼の子は産まれておらん。鬼はこの世から疎まれているのだと儂は思う」
「それはまだ判らん! どこかに鬼の村があるかもしれん!」
「儂らが散々探しても、見つかるのは誰もおらん抜け殻になった村か、そこに人間が住み着いておる。鬼の数が減る一方で、人間の村はどんどん大きくなっておる。そのうち、黄色のが言う通り、噂に踊らされた人間が、この村を襲うとも限らん」
すると、朱色の鬼がぱんと自分の膝を叩いた。
「そうなれば闘うのみ、儂らとて人間に負けはせん! のう、黄色の」
振られた黄色の鬼も当然とばかりに大きく頷いた。
「おうさ、儂とて苦汁をなめるのは一度で十分だ」
しかし赤鬼は首を左右に振って見せた。
「例え儂らが人間より強くとも、数にはかなわん。儂らが皆打ち取られたあと、残された桃太郎はどうなる?」
「儂らは最期まで桃太郎を守る!」
「それがいかんのだ。鬼の村に住んで、鬼に育てられた子どもが見つかれば、どんな仕打ちを受けるか判らないだろう」
赤鬼の言葉に、浮き足立っていた鬼たちの動きが止まった。中腰だった者はゆっくりとあぐらをくみ、言葉が無くなり重々しい雰囲気がその場に貯まり始めていた。
その沈黙を破ったのは赤鬼だった。
「儂は頭はよくない、しかし桃太郎がこの村に居るより、人間の村で人間として育った方が、より幸せになるのでは無いかと思うのだ」
赤鬼の言葉が終わると、黒鬼は腕組みのまま頷いた。
「だとして、桃太郎にはどう伝えるつもりだ?」
「儂が伝える。すまないが青の、桃太郎をここに連れてきてくれまいか?」
すると青鬼は何も返事をする事なく、すっと腰を上げるとそのまま大股に村長の家を出て行った。
小さな村である、青鬼が桃太郎を連れてそこに戻るのにさして時間はかからなかった。桃太郎は寝入りばなだったのかやや眠そうに目をこすっていたが、すぐさま赤鬼の側まで進むとじっと赤鬼の顔を見ていた。
「おとう、何のようだ?」
「うむ、これから大切な話がある、眠いかもしれないがきちんと聞くのだ」
桃太郎は赤鬼の真面目な言い方にどこか嫌な予感を覚えたのか、そこに集まっている他の鬼たちの顔をじゅんぐりと見ていた。彼にとってはみなおとうだ。肌の色が異なり、角の数も違うがみな、自分のおとうに変わりない。腰にちまきをつるして家に訪れれば笑顔で優しく出迎えてくれるおとうなのである。
しかし、今彼らは桃太郎と目を合わせるとそれぞれが珍妙な表情を浮かべて目をそらしていた。
しっかりと自分のまなこを見てくれるのは目の前の赤鬼だけである。だから桃太郎は赤鬼に向かって小さく頷いた。
「桃太郎、お前は儂の子どもではない」
赤鬼は端的にそう告げてからあぐらの両膝に手を添えてうんと力を込めた。
「お前は人間の子だ。鬼の子ではない」
「おとう、何を言っているんだ?」
「お前は人の子だ、儂の、鬼の子どもではない」
赤鬼が岩石のような顔で再度そう告げると、桃太郎もようやく言葉の意味を飲み込んだのか、大きく首を左右に振っていた。
「嘘だ、俺はおとうの子どもだ」
「しかしお前の頭に角はない」
「大きくなったら生えてくる、おとうはそう言っていただろう」
「お前は人間なのだから、大きくなっても角など生えぬ」
「生える! 飯を食って大きくなったらおとうみたいに大きくなって、身体の色だって変わって、角だって生えてくる!」
桃太郎は彼を取り巻いている鬼たちに、身体ごと顔を向けた。まずまっすぐに見たのは緑の鬼だった。
「身体が緑になったら、俺はもっと釣りが上手くなって、おとうにも食べきれない魚を釣ってみせる!」
次に紫の鬼を見た。
「紫になったら大きなきのこを取ってくる、そして果物もたくさん取ってくる」
さらに白銀の鬼に顔を向けて、
「白銀になったらいっぱい酒を造って、おとうにも飲ませてやる!」
次に青鬼を見た。
「青くなったらもっと大きな弓で大きな獲物を仕留めてみせる」
さらに黒鬼を見た。
「黒くなったら色々な話を覚える、星の見方を覚えておとうに教えてあげる」
それから次々とその場に居た鬼たちの色になった自分を語り続けた。その目は黄色の鬼にも向いていた。
「黄色になったら、きっと相撲がうまくなる、それで黄色のおとうも投げ飛ばして見せる」
桃太郎が力強くそう言うと、黄色の鬼も背筋を正して桃太郎をにらみつけた。
最期に桃太郎は赤鬼を、彼の顔を額に穴でもあける勢いで見ていた。
「俺は赤くなったらおとうと一緒に畑を耕す、そして芋とか大根とか人参を作ってみんなで食べるんだ!」
「……桃太郎」
「俺は赤い鬼になる。俺の一番、大好きなおとうの色になる、そう決めているんだ!」
桃太郎は両手を差し出して、赤鬼の太い腕にしがみついた、座ったまま巨石のように動かない身体をなんとか揺り動かそうと抱きついた。
「おとう、言ってくれ、俺は大きくなったら赤い鬼になれるんだよな、おとうのように強い鬼に……」
「桃太郎、お前は人間なんだ、どんなに大きくなっても鬼にはなれぬ」
とても静かにそれでいて力強く答えた赤鬼の顔を、呆けた表情で桃太郎は見ていた。
桃太郎は強い子だ。赤子の時こそ泣いて見せたが、言葉を話せるようになると涙一つ浮かべた事が無かった。その彼が、今双眸にあふれんばかりの涙を浮かべ、それがぽろぽろと丸い頬に伝わり落ちていた。
「桃太郎……」
「おとうなんか、嫌いだ!」
桃太郎はそれだけを告げると、村長の家から飛び出ていった。鬼たちはその小さな背中を目で追う事しか出来なかった。
残された鬼たちは、柿色の鬼の報告の時より重い雰囲気の中、ときおり思い出したように酒を飲むだけで誰も声を発する事が出来なかった。
特に赤鬼は背を丸め、顔は真下を向いている。いつも胸をはり、どんと座り込んでいるこの男にはとんと似合わない姿だが、誰もそれを笑う事など出来なかった。
現に、紫の鬼は桃太郎がここから駆け去ったときからめそめそと泣いている。彼は泣き上戸である。桃太郎と二人、山の中に入ってきのこを取っているときでも、桃太郎が見つけ差し出された大きなきのこを見るだけで、嬉しくて涙が出てくる。それを桃太郎に笑われるとまた嬉しくて涙が落ちる。先ほど桃太郎が自分の身体が紫になったらと例えられた時から、すでに涙腺は壊れていたのかもしれない。
緑の鬼も思いは同じだった。隣で嗚咽をあげる紫の鬼を羨ましくさえ見ている、そして泣くに泣けない自分の憤りを赤鬼にぶつけていた。
「これでもお主は、桃太郎を人の里に帰すというのか?」
「……そうだ」
赤鬼はうつむいたままそう呟いた。頭は下げようがなく、怒り肩がかくんと一回落ちただけである。
「あの様子を見て、儂は決めた。桃太郎はここに居てはいかんのだ」
「何故だ?」
「例え人が攻め込む事が無くとも、桃太郎はずっとこの村に居るだろう。いくら儂らの寿命が長いと言え、いずれ老いて動けなくなる、儂らに子どもはおらんのだぞ」
すると緑の鬼は「それがどうした」とばかりに自分の太ももを叩いていた。
「判らんのか、桃太郎はきっと老いた儂らの世話を焼く、儂らが一人も居なくなるまで世話をやく……あんなに強くて賢い子どもが、儂らの面倒で一生を終えてしまうかもしれん」
赤鬼は全身をゆすっていた。赤い身体を取り巻いている筋肉も大きく震えていた。
「鬼がこの世からいらんとされたのならそれで良い、儂は逆らおうとは思わん、だが桃太郎は違う、あれは人として立派になるはずだ!」
赤鬼の叫びに黒鬼が腕組みしたまま呟き始めた。
「儂は聞いた事がある。赤子が初めて瞼を開いて見た者を親と見極めると」
黒鬼はその後、目を閉じたままの青鬼に顔を向けた。
「桃太郎は赤鬼に拾われ、その顔を見た時にすでに鬼の子になったのかもしれぬ。いや、赤鬼の子どもになったのだろう」
「判っておる、そんな事は判っておる、あれは儂の息子だ。しかし人の子なのだ、人の子として立派に育つ方が良いのだ」
そこで黄色の鬼は赤鬼に向かって呟いた。
「立派になってこの村に攻めてきてもよいのか」
「黄色の! お主はまだそういう事を言うか!」
「人の里に帰せばそうなるかもと言うておるのだ、しかし、この村に止めておけば、そんなこともあるまい」
「それでは桃太郎のためにならんと言っておるだろう!」
「ではお主は、桃太郎に討ち取られてもよいと申すのか!」
赤鬼は顔を上げ黄色の鬼をにらみつける、腰は宙に浮いており、膝だった右足はどんと床板を踏み抜く勢いだ。
そこで、目を閉じたままだった青鬼が、ぱあんと自らの膝を叩くと杯を持ち上げた。
「打ち取られてやろうではないか!」
青鬼はかっと目を開くと杯を一気に空けて、まるで投げ捨てるように床に置いた。
「何を言うておる、青の」
「桃太郎がこの村に攻め込んできたら、打ち取られてやろうと申したのだ」
そこで青鬼は音も無くすっと腰を上げて見せた。
「思い浮かべてみよ、我が子桃太郎が立派に大人になり、きらびやかな武具に身を固め、この村に踏み込んでこう叫ぶのだ。
やぁやぁ我こそは桃太郎と申す者、罪無き村人を襲い田畑を荒らす不埒な鬼どもがここに居ると聞き参上つかまつった、これ以上の悪事、天が見逃すとも我は見逃すわけにはいきもうさん、退治する故に正々堂々といざ、勝負めされい!」
そこで他の鬼たちは大きな声を上げた。それに応えるように立ち上がったのは赤鬼だった。
「ぬうむ、こしゃくな、大見得にどこの命知らずとその顔見るために来てみれば、まだまだ小童ではないか、お前のような者が鬼にたてつくなど百年早いわ、その度胸に免じてこの赤鬼が、お主の冥土の土産に立ち会ってやろう!」
「小童と油断めさるなこの鬼め! 村人のためこの太刀の錆となれ!」
すると青鬼は如何にも腰にぶら下げた太刀をすっぱ抜くように手を払った、それに対して赤鬼は、両手で棍棒を振り回すように動かすふりをすると青鬼と相対して撃ち合いを始めたのだ。
最初は青鬼の太刀を棍棒で裁いていた赤鬼だったが、次第に追い詰められ、両腕を振り回しながら後ずさる、他の鬼たちが居る事も忘れ、徳利も杯も引っ繰り返して仕舞いには青鬼から「やあ」とのかけ声で袈裟懸けに斬りつけられた太刀すじにその場に俯せに倒れて見せた。
「うぬうむ、こしゃくな桃太郎……」
その赤鬼の背中を踏みつけた青鬼は、太刀を赤鬼の首に当てて一気に切り落とす真似事をしてみせると、その首を掴んで高々と上げるように見せた。
「極悪非道の赤鬼の首、確かに桃太郎が打ち取ったり!」
勝ち名乗りにしんとしていた鬼だったが、そのうち寝転んだままの赤鬼が小さく笑い始めた。
「成るほど、これは愉快だ」
そして身体を起こすとそこにあぐらを組んで、大声で笑って見せた。
「さすがは桃太郎、この赤鬼でもかなわないとは! して桃太郎殿、いや青の」
赤鬼がまだ首級を掲げたままの青鬼を見ると、彼は物言わずにかくんと頷いた。
「儂の首は手柄になるのかの」
「勿論だ、この村の赤鬼の首が、手柄にならないとでも思うのか?」
「それを持って行けば、桃太郎は名を上げる事が出来るのか?」
「おうさ、鬼の首を取った天下無敵の武辺者、それこそ都に出て美しい嫁御を貰って子々孫々まで栄えるに違いない」
「そうかそうか、ならなおさら愉快だ! 儂は桃太郎に打ち取られるぞ」
赤鬼がそう鬼たちに言い放つと、紫の鬼がおそるおそる赤鬼に問い始めた。
「もし、儂の首だったらどうだ?」
驚いたのは周りの鬼だった。気がふれた者を見るような目を向けられても、紫の鬼は動じもせず、ただじっと赤鬼の顔をにらみつけた。
「儂の首は手柄になるのかと聞いて折るのだ」
そこで赤鬼も青鬼も、同時に力強く頷いて見せた。
「当たり前だ。それだけの恰幅の鬼、打ち取っただけで大手がらに決まっておる」
「で、では儂はどうだ?」
今度は緑の鬼である。彼は感激のあまりに大声で泣き出した紫の鬼を押しのけると、上半身を乗り出し、目玉をむき出しにしていた。それに対しても赤鬼は頷いて見せた。
「この村では一番背丈が高いのはお主だ。それを打ち取ったとすれば手柄になる」
それから鬼たちは次々と赤鬼に、自分の首級に価値があるか問いただす、それだけではなく、自分はこうやって桃太郎に打ち取られるのだ、いや自分の方が格好良く切られてみせると自慢し始めた。
「くだらん!」
そこに大声を出したのは黄色の鬼だった。
「儂は打ち取られん、むしろ桃太郎を返り討ちにしてみせよう」
「お主にそれが出来るのか黄色の」
赤鬼は大きな声で笑いながらそう言った。
「馬鹿にするでない、桃太郎ごときに負ける儂ではない!」
「いつだったか、お主が桃太郎を投げ飛ばし、頭を打った桃太郎が目を回した時の事を覚えておるか?」
赤鬼は黄色の鬼を指さしていた。
「あの時のお主の慌て様は見ていて滑稽であったぞ。あれ以来、投げ飛ばす方向にいつでも気を使っておろう、儂にはよく判っておる」
すると、黄色の鬼を取り巻いていた者どもが、声に出して笑っていた。
「安心せい、お主の首も手柄になる。だが、桃太郎を返り討ちにすると言うのであれば、儂らが全て打ち取られてからにしてくれ」
赤鬼は真顔になってゆっくりと頷いていた。
「お主に討ち負けるのであれば、桃太郎とて本望であろう」
「ぬかせ!」
黄色の鬼はそう吐き捨てて杯を空けた。
「のう、赤の」
そこに、鬼たちの様子を見ていた黒鬼が、静かな口調で問いかけた。そこでまたしんとなる一同は、村長の険しい顔をじっと見ていた。
「儂はどうかの」
何の事かと目を見開いている赤鬼に対して、黒鬼は自分の手刀を黒い首に当てて見せた。
「儂の首は手柄になるのかと聞いておる」
その言葉の直後、口端を上げた黒い顔に向かって、赤鬼は口の中を真っ赤に見せびらかせて大声で笑っていた。それにつられるように他の鬼たちも笑い出していた。
「村長の首に価値が無い事などあろうことか。ここの誰よりも誉れとなる」
「さすれば儂は、黄色の前に討ち取られるとするか」
黒鬼は黄色の鬼の顔を流し見てから杯をあけた。
「無論、そうなってほしくはないが……確かに桃太郎の幸せ、赤鬼の言う通りかもしれん」
長の落ち着いた口調に、またもやその場が水を打ったように静かになり、青鬼もどすんと腰を落としていた。
「子はいつか親離れするもの、今がよい時なのかもしれぬ。のう、柿色の。確かお主は記憶を操る事が出来たはずだが」
「うむ、出来るが、それが」
「桃太郎の中の儂らの記憶、送り出す前に消す事は出来るか」
黒鬼の言葉にかっと目を開いたのは赤鬼だった。柿色の鬼は自分の掌を見てため息をついていた。
「成るほど、儂が桃太郎に教える事ができるのは最初で最後となるのか」
「柿色の、儂にそのやり方を教えてくれぬか」
それは赤鬼の言葉だった。
「ううむ、教える事は出来ると思うが、お主がやれるのか?」
「儂がやらねば意味があるまい」
赤鬼はなんとか微笑もうとしているが、それは無理があるというもの、柿色の鬼もそれを心得ているから声には出さず、小さく頷いただけだった。
その様子を見ていた黒鬼は「うん」と声を上げてから、
「よし、それでは桃太郎のために宴を開こうぞ」
「宴とな」
「左様。桃太郎の十の祝いの宴だ。それをもって、桃太郎を人の里に戻そう。今年は人の里も豊作と聞いておる」
「なれば桃太郎も餓える事はなかろう」
赤鬼は自分にそう言い聞かせて杯をあけた。酒は美味かったが酔う事は無かった。
赤鬼が家に帰ったのはかなり遅かったが、桃太郎はまだ起きていた。
もしや先ほどの言葉通り、自分の事を嫌っているのかと赤鬼は思っていたが、桃太郎は大きなまなこをまっすぐに自分に向けて居る事に安堵していた。
女房に聞くと、村長の家から帰ってきたと同時に「おとうにひどい事を言われた」と泣きじゃくっていたそうだが、それをなだめるのに苦労したという。
おとうが自分を嫌いになったのだろうか、落ち着くとそれが心配になって寝る事もままならなかったらしい。
赤鬼は赤く大きな手で、桃太郎の頭をなでていた。
「脅かしてすまなかった。鬼の子どもにはああ言って脅かすのが決まりなのだ」
「そうなのか」
「やはりお前は強い子だ」
「それでは、おとうは俺が嫌いになったのではないのだな」
「勿論だ。何故に儂が桃太郎を嫌いになろうものか」
「他のおとうも同じなんだな」
「当たり前だ」
赤鬼が笑うと、桃太郎の顔もやや上気して血色が良くなっていた。
「長が、桃太郎のために宴を開こうと言うておる」
桃太郎はその言葉の意味がよく判らず、小首をかしげたが、
「お前ももう十になる。さすれば酒も飲めるようになろう。その祝いだ」
「そうか、俺も酒を飲んでいいんだな」
「判ったら今日はもう寝るのだ。明日は白銀のところに行くがよい」
赤鬼がそう言うと、桃太郎は力強く頷いた。どこまでもまっすぐな瞳に、赤鬼はやるせない思いに手をふるわせていた。
桃太郎の宴にはやや日にちが置かれた。
赤鬼が柿色の鬼に教えを受ける事もあるのだが、村人が最後に一通り自らの技を、桃太郎に教えておきたいと申し出たからだ。本来なら情けが込みあがる事はしたくないのだが、それこそ他の鬼たちが本気で暴れそうな事に赤鬼も、黒鬼に説得される形で了承した。
順番はくじで決め、最初は白銀、最後は黄色の鬼となった。それがそれぞれの家での最後と悟られないようにする事が約束である。そのために涙は禁物と釘を刺されたが、紫の鬼だけは普段から涙もろいために致し方ないとされ、そこで皆の羨望をかっていた。
すでに桃太郎は鬼たちが教える事を十分体得していた。あえて教える事も無かったのだが、何もしないのは不自然に見える。だからどの鬼も桃太郎に今までのおさらいをするように教えた。
初めてにして最後となった白銀の鬼は、果物から酒を造る手順を説明した。まだ酒を飲んだ事のない桃太郎は、発酵がどのようなものか理解には及ばなかったが、それでも初見の事に真剣に耳を傾け、気になった事は構わず聞いた。翌日、赤鬼の家に訪れた白銀の鬼は盛んに「あと一年おれば、確実に教えられる物を」とぼやいては、持ち込んだ酒を一人で空けていた。
紫の鬼はやはり泣き通しだったようである。さすがに桃太郎も家に帰ってから「紫のおとうが泣きすぎて変だ」と言っていたから頬が乾く事が無かったのだろう。
どんなときにも青鬼は同じだ。最後の狩りでも始終無言だったが、赤鬼の家に帰す前に「上手くなった」と褒めてくれたと、桃太郎はうれしそうに赤鬼に告げた。
その他の鬼たちも、最後だと言うことを自分ではなんとか隠したつもりなのだが、桃太郎にはそれとなく気づかれている。赤鬼はそれを宴が近いからだと説明したが、言っている自分から何か伝わるのではないかと背中に冷たい汗をかいていた。
最後の黄色の鬼はどうかというと、彼もやはり一人のおとうに違いないようである。桃太郎を前にして、自分の片目が何故閉じたままなのかを詳しく話した。その後で、本気で闘うのならまず目を射貫け、さすれば誰でもかなうはずがないと言った。
「俺は誰かと本気で喧嘩しようとは思わない」
「そういう甘い事を言っておると、お主が命を落とす事になる」
「話を聞けば、みな判る。ここの村のおとうたちは皆そうではないか」
結局、その日は相撲を取る事なく家に帰した物の、翌日、赤鬼の前に訪れた黄色の鬼は「どこまでも甘い奴だ、命がいくつあっても足りん」と嘆く物の、本人は気がついて居ないだろうが顔が笑っていた。
本当の最後は赤鬼と畑を耕す事だった。そろそろ季節は冬に向けて寒くなる。新たに山の斜面を切り開きながら、桃太郎と二人、無心に土をいじっていた。
「おとう、この畑では何を作るのだ」
「まだ決めていないが、果物の木でも植えてみようか」
「ならば、桃の木を植えてくれ」
桃太郎は泥だらけの手で顔を拭きながらそう語りかけた。
「おとうの植えた桃の木で、俺が酒を造る。きっと上手い酒が出来る」
「ああ、そうだな、そうしよう。しかし桃の実がなるのに時間がかかる。それまでに白銀のに、酒の作り方をよく習うのだぞ」
夕日に溶け込んでしまいそうな赤鬼の顔に、桃太郎は笑顔で力強く頷いた。
その翌日、村の広場で鬼たちが集まり、桃太郎が十になった祝いの宴が開かれた。
村人全てが参加したそれは、宴と言うより祭りに近かった。各の家から女の鬼が料理を持ち寄り、白銀の鬼が仕込んだばかりの酒を振る舞った。
小さな村なので今まで祭りらしい祭りが開かれた事もなく、桃太郎も初めて目にする賑やかさに、始終頬を赤らめていた。
初めは唄い踊る鬼たちを見ていた桃太郎だが、やがて誘われるままに踊りの輪に入り、見よう見まねで手足を動かし、周りの声に合わせて唄う、赤鬼はその姿を微笑んで見ていた。
そのうち、橙の鬼が桃太郎を手招きする、踊りの輪から外れ鬼の元に近づいた桃太郎は、何かを手渡しされて赤鬼の前に出て、受け取ったそれを得意げに掲げて見せた。
それは陶器でできた鬼の面であった。しかもその色といい、顔の形といい、角の本数や位置といい、赤鬼の顔である事は一目瞭然である。
柿色の鬼の報告の時、橙の鬼が言っていたのは、桃太郎が造ったこれの事なのだろう。
赤鬼は驚いて言葉を詰まらせたが、すぐさま笑顔になって桃太郎から面を受け取ると、自分の顔と並べて見せた。そして赤鬼の周りに居る鬼たちに向けた。
「どうだ、儂と同じか?」
すると皆は笑いながら首を左右に振る。
「お主がそのような色男であるわけがなかろう。それは桃太郎が大きくなったときの面だ」
すると赤鬼は、再度面をしげしげと眺めて、今度は桃太郎の顔と並べて見た。
「うむ、確かにそうかもしれん」
「よいのか桃太郎、大きくなったら赤鬼になっても」
周りの鬼にそう問われて、桃太郎は当然とばかりに大きく頷いていた。
その後、あぐらを組んだ赤鬼の足の上に座り込んだ桃太郎は、赤鬼の面を懐に抱いて、鬼たちの宴を笑顔で見ていた。色とりどりの鬼たちは体つきも顔も皆異なるが、笑顔である事は同じである。
やがて日も暮れ、桃太郎の瞼もどこか重たくなる。
そこで青鬼が、徳利と杯を持って桃太郎の前に進み、まず杯を手渡した。
鬼にとっては小さなそれだが、桃太郎の手にはやや大きい。両手でそれをしっかりと捕まえると、青鬼はそこにゆっくりと酒を注いだ。
「俺が飲んでもいいのか?」
青鬼は無言で頷く、桃太郎をとりまく村人も、暖かい視線を向けていた。
桃太郎はそれに答えるように、杯に口をつけ、僅かに傾けると一口含んだ。
それを背後で見ていた赤鬼は、
「どうだ、美味いか?」
静かに問われた桃太郎は「うん」と頷くと、ゆっくりと瞼を閉じる、彼の手からこぼれ落ちた杯が足下に転がり、飲みきれなかった酒が、赤鬼の足をぬらしていた。
宴は終わったのだ。
今まで微笑んでいた鬼たちは、無言無表情に息子の寝姿を見ていた。
鬼の村には二つの川が接していた。
一つは桃太郎を捨てたと思われる村に続いている。もう一つはややはなれた所に小さな村がある。鬼たちは小さな村に通じる川辺に集まっていた。
日も暮れ、空には無数の星が瞬いている。明かりはやや欠けた月の物だけだが、夜目の効く鬼にはそれで十分だった。
鬼たちが乗るには小さいが、桃太郎には大きいほどの舟が、川辺につながれていた。女たちが舟の中央に布団を敷き詰め、男たちがこぼれ落ちそうな桃の実を積んでいた。途中で目を覚ました桃太郎が餓えないようにとの配慮である。
そして赤鬼が、眠ったままの桃太郎を布団の真ん中にゆっくりと横たえた。
手足を抱え込むその姿は、まるで赤子のようである。さらにこれから、桃太郎の記憶から自分たちの事を消さなければならない。
やり方を柿色の鬼に教わった赤鬼は、まず自分の大きな掌を見てから、それを桃太郎の額にそっと押し当てた。
桃太郎が最後に飲んだ酒には、眠り薬も入っている。例えどんな事があろうとも、桃太郎は暫く目を覚まさないはずだ。後は教わった通り、自らの手の中に、桃太郎の頭の中から記憶をもぎ取るつもりで念じればそれでよい。
だが、赤鬼にはどうしてもそこから念じる事が出来ない。まだ記憶を摘み取っても居ないのに、閉じた瞼に思い浮かぶのは桃太郎と暮らした一〇年間の思い出である。
朝から日が暮れるまで畑仕事をしたこと。二人で力を合わせて大根を引っこ抜いた事。
釣ってきた魚を家族三人で平らげたこと。赤鬼は勿体なくてなかなか食べられなかったが、桃太郎が見ているから一緒に食らいついていた。
黄色の鬼に投げ飛ばされて目を回したとき、女房と二人で大慌てになったこと。黄色の鬼とも殴り合いになった。仕舞いには女房に怒鳴られて、二人の鬼が背を丸めて桃太郎の姿を見ていた。
記憶はさかのぼる。今の姿から、段々と小さくなり、そして行き着いたのは桃の木だった。
あの日、畑仕事の前に、桃の様子を見に行った赤鬼は、そこで桃太郎と出逢った。小さな竹籠の中にいた、小さな人間の赤子は、自分の顔を見て微笑んだのだ、喜んだのだ、小さな手を伸ばして、自分の岩石のような顔に触れたのだ。
あのまなこには、秋の日を照り返す黒目には、この村の中で一番厳つい赤鬼の顔も写り混んでいた。その時、この子は自分の息子になったのだ、誰がなんと言おうと、桃太郎は儂の息子だ……その思いが、いつしか赤鬼の掌を、桃太郎の額から離させようとしていた。
「やはり、儂がやろう」
戸惑う赤鬼の側に近づいた柿色の鬼は、そう呟いて掌を桃太郎に向けた。
しかし、赤鬼はそれを止めた。
「いや、儂がする」
「無理をするな。お主には出来ぬよ」
「しかし、せねばならぬのだ」
そう叫んで、赤鬼は桃太郎の額に当てていた右手に力を込めた。その時、寝ているはずの桃太郎が一言漏らした。
「おとう」
「……達者でな」
赤鬼はその手の中に、桃太郎の記憶を握り取っていた。
小さな額から手を引きはがした赤鬼は、後ろに控えていた鬼たちに合図を送ると、舫縄が解かれ、舟はゆっくりと川辺を離れ、徐々に川の流れにのって進んでいく。月明かりが段々と遠くなる舟を照らしていたが、やがてそれも見えなくなった。
赤鬼が泣いた。
その場に膝をつき、おうおうと声を上げて泣いた。桃太郎から記憶をもぎ取った手を地面にたたきつけて泣いた。
紫の鬼はとうに泣いていた。赤鬼が泣くのに釣られて、どの鬼も勘弁成らず、声を上げて泣き出していた。それは黒鬼も、寡黙な青鬼も同じである。
さらにあれほど人間を嫌っていた黄色の鬼も、涙を浮かべている。それを見られまいと彼だけは夜空を睨むように顎をあげた。
月明かりの中、その夜は鬼の泣き声が幾重にも響いていた。
「やや、これはどういう事でござるか?」
腰に太刀をつるした侍が村の中に踏み込んでそう叫んでいた。
下流の村人からは鬼の住処と恐れられているそこには誰もおらず、鬼どころか獣の気配もない。
一番乗りを果たした侍は、太刀の柄に手を添えたまま辺りを見回しているが、誰か出てくる様子もない。
「踏み込んでみるか?」
「用心めされい、相手は鬼でござる」
後ろに控えていた侍もそう言って太刀に手を付けたが、
「犬井殿、猿田どの、我らは討ち入りにここに来たわけではござらん」
凜とした声が響いた。二人の侍が振り向くと、そこに六尺に達しようという体格の侍が立っていた。背が高いだけでなく目鼻立ちがすっきりとした面持ちに、役者とも見間違うばかりである。
「我らはここに和議に参ったのだ。むやみに太刀に手をかける事はなりません」
「し、しかし桃太郎殿」
「猿田殿、確かに和議の申し出の書面、この村の者に渡ったのでしょうな」
「それはもちろんの事。村はずれの桃の木にくくりつけました。それも三通、いずれもくくりつけて翌日には無くなっており申した」
「うむ、さすればここは太刀などもってのほか」
言うが早いか桃太郎は、太刀を外して村の入り口にたてかけた。
「この村の者も、いきなりの来訪者におびえているやも知れぬ。皆、村人を脅かさぬように、誰ぞ見つけたら、皆に知らせて無用な戦いは避けて頂きたい」
目の前の二人と、後に控えていた数人にもそう言い放ち、侍は村の中へと入っていった。
しかし、そこには本当に誰も居ないようである。最近まで誰かが暮らしていた気配はあるものの、誰かが隠れている様子もない。
桃太郎と犬井、猿田の三人は、村の中でも一番大きな家の中に入ったが、そこにも誰もおらず、広い部屋の真ん中に大きな樽が二つあるだけだった。その樽の上に、半紙が一枚乗っており、簡潔にこう書かれていた。
『退散つかまつる』
「これは、村を捨てて逃げたという事でしょうか?」
半紙を取り上げた犬井は桃太郎にそう聞いた者の、彼にしても真意は判らない。猿田は樽の中をのぞき込み、
「どうやらこの中身、酒のようでござる。貢ぎ物のつもりでしょうか?」
「待て待て猿田殿、もしやこの中に毒でも盛られているのでは」
「拙者が試してみよう」
桃太郎は二人の中に割って入り、樽の中の酒を手に取ると、口に含んでからうんと頷いた。
「どうやら、桃の実から作った酒のようでござる。毒は入ってござらん」
「桃太郎殿は不用心すぎる」
苦言を呈したのは犬井だった。彼は半紙に踊る文字を見つめながら眉を潜めている。
「ここは敵の懐ですぞ、そのまっただ中で罠にはまるような事は避けていただきたい」
「しかし、下流の村人に聞く限りでは、この村の鬼に直接何かされた訳でも無いという。疑心暗鬼はよくありません」
背を正し、そう言った桃太郎に、今度は猿田がため息をついた。
「しかし、拙者が聞いた話では、二〇年も昔、飢饉を納めるためにと村はずれの桃の木の下に、人身御供を備えたところ、数日後に中の赤子は取って食われたと聞き申す。鬼は人の赤子を滋養にするという話は有名ですぞ」
「それとて見るに見かねた者が広い育てたのやもしれぬ。真意を聞くための和議のつもりであったのだが……」
と、そこに、もう一人の侍が家の中に飛び込んできた。
「桃太郎殿、鬼を見つけましたぞ!」
その侍の言葉に、桃太郎をかばうように犬井と猿田が身構えた。
「ぬう、やはり隠れていたか!」
「して、木地山殿、その鬼はいずこ」
「ここでござる」
と、木地山が差し出したのは、鬼の面であった。どうやら陶器で出来ているそれは、赤鬼の顔を摸した者らしいが、二人の侍がため息と共に眉をつり上げたのは同時である。
「悪ふざけはよしていただこうか」
「全く、肝を冷やしたわ」
「裏山の斜面にある桃の木畑にこれだけがあり申した。まるでこの村に入った我らを見ているようでした」
木地山からそれを受け取った桃太郎は、陶器で出来た赤鬼の面をじっと見つめていた。
「裏になにやら書かれているようですが、鬼の言葉でしょうか、拙者には判りません。漢語にも通じた桃太郎殿にはおわかりでしょうか?」
木地山に言われるままに面を引っ繰り返すと、確かに一行だけ、文字と思える走り書きがあったが、桃太郎は首を左右に振って見せた。
「拙者にも、ちと判りかねます。見たことはあるような……」
「左様ですか。桃太郎殿に判らぬとなるとやはり鬼の言葉でしょうな」
その後、村の中を探査していた他の侍たちもそこに集まるものの、やはり村の中には誰も居ないようだった。
「さすがの鬼も、桃太郎殿の名声に腰を抜かして逃げ去ったと見える」
犬井が先ほどの半紙を皆に差し出すと、おうと声が上がる。
「なんと言っても天下無双の武辺者、農民を襲う山賊を数十討ち取り都にもその名を知られた桃太郎殿だ、刃を交わってもかなわぬと踏んだのであろう」
「さすがに村人から鬼退治を依頼されてどうなるものかと思ったが、全くの杞憂であったわ」
侍たちが口々に叫んでいる間、桃太郎は面を見ながら涙を一粒頬に流していた。
「いかがされた、桃太郎殿」
それを見つけた木地山が、眉をひそめて見た物の、桃太郎は頬をぬぐうと微笑んで見せた。
「これは失敬、これで村人も安心して過ごせると思うと安堵のあまり気がゆるんでしまいました」
「なんとお優しいお心。赤鬼の首級を取っただけではなく、そこまで村人にお気遣いできるとは」
桃太郎は「首級?」と自らの小首をひねって見せたが、犬井と猿田も微笑んで桃太郎の手の中にある鬼の面を見ていた。
「この酒と詫びの書面、さらにその赤鬼の首を持ってすれば、鬼退治の名声、高く響き渡りましょうぞ」
「是非、『赤鬼の首、討ち取ったり』の名乗りを!」
他の侍の視線を集めた桃太郎は、手の中の鬼の首を見た後苦笑して見せた。
「悪行も重ねていない者を討ち取ることなどかないません。むしろもののふの拙者に落涙させたこと……この鬼に討ち取られてしまいました」
桃太郎の冗談とも取れる言葉に、そこに居合わした侍はみな微笑んでいた。
「それでは桃太郎殿、村人にこの酒を持って報告しましょう」
その後、侍たちは酒樽を運ぶための荷車を探し、勝ち名乗りを上げて村を出た。
その姿を見ながら、桃太郎は再度、鬼の面を見ていた。
空耳であったのだろうか。しかし、確かにそれは桃太郎の耳に響いていた。面の裏に書かれた一行を見たとき、とても懐かしい声で、はっきりと。
『達者でな』
それを思い出して、桃太郎はもう一粒、涙を流していた。
「了」