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兄貴は花嫁シリーズ

兄貴は兄ちゃん修行中

作者: 鳴田るな

長野雪様主催「お兄ちゃん大好企画」参加作品です。

よろしくお願いします。

 それは橋田透ハシダトオルがまだ中学生だったころの話だ。


「しばらく家で面倒見るから。お兄ちゃんたち、仲良くしなさいね」


 母親に手を引かれてやってきたちっちゃな女の子を前に、「よそんちの子じゃん、俺別にそいつの兄ちゃんなんかじゃないし!」と言い捨てて弟のミツルは逃げていった。


「充、ちょっと、あんたぁっ! 透、この子よろしく!」


 いつも通り拳を振り上げてやんちゃでわんぱくな弟を追いかけに行った母を横目で見送り、透少年は「あちゃー」と頭を掻いた。母と充は似た者同士、頭に血が上るとすぐ行動してしまう。よろしくと言っても、自分はともかく取り残された方が困るじゃないか。そう思いながら見下ろしてみると、案外物おじしない子のようで、透の母に置き去りにされても騒ぎもせずぐずりもせず、真黒な二つの目でじーっとこっちを見上げていた。小学校低学年の充よりさらに小さい。そっか、幼稚園だなー、と頭の黄色の帽子にピンクのスモッグを見て透少年は推測しつつ、しゃがみ込んで視線を合わせた。


「じゃあ、改めて。おれ、トオル。橋田透。君の従兄? になるんだったっけな」


 少女はややあってから口を開く。ぶっきらぼうな割によく響く声だった。


「トール……さん」

「うん。さん、はちょっと遠くない?」

「……トールさま」

「んー。さらに遠い気がするなー」

「トール……どの」

「予想外の方に行ったね!? 君にしようよ、君に。ほら、透君って呼んでみて?」

「トール……」

「うん!」

「…………ちゃん」

「あれえ?」


 期待に目を輝かせたものの応えてもらえず、がっくりとうなだれた少年を前に、おかっぱ幼女は大きな目を数度瞬かせ、潔いばかりの簡潔さで答えた。


「アダチアキラ。……アキラ」


 透少年はいきなりの言葉にしばらく意味を探して硬直していたが、そのうちそれが彼女の自己紹介返しなのだと気が付いた。何せ彼女のスモックにくっついているネームプレートに「あ き ら!」と大きく大きく書いてあったもので。


「アキラちゃんかあ。よろしくね」


 無表情のまま、アキラはこっくりと頷く。

 これが橋田家に、透と充の従妹、アキラがやってきた最初の日だった。






 安館翠アダチアキラは透の従妹にあたる。だから、透の母親の妹の娘と言う事になるらしい。会ったこと自体は初めてではなかったが、橋田家に居座る――と言うか泊まるようになったのはその日からだ。


 透の母親は良くも悪くも、大体いたって普通の主婦と言った感じの人だ。その妹である叔母に対しての記憶を透が脳内から掘り起こしてみると――まあ、若くて派手な感じの人と言ったところだろう。いつまでも若々しい、と言えば聞こえはいいが、要するにあまり母親っぽい感じの人ではない。




 そのあたりをなんとなく思いだしつつ、幼い従妹をリビングに連れて行ってソファに座らせると、彼女は心得顔で小さなリュックから携帯ゲーム機を取り出し、無言で操作し始めた。その隙に母を探し、ちょうどキッチンで冷蔵庫の飲み物だの食品棚のお菓子だのを探していたところを見つける。


「ちょっと透、よろしくって言ったのに」

「翠ちゃんならリビングでゲームしてるよ。もう夢中。それでお母さん。叔母さんはどうしたの?」


 彼はこっそりと、それでいて手っ取り早く母に疑問をぶつけてみた。透はどちらかと言うと「ニブチンさん」と言われる方だったが、「変な空気」だけはむしろ人より正確に嗅ぎ当てることができたのだ。後ろめたいことがある人に対して「おや?」と思うと大抵何か隠していると言うか。これが友人知人ならそのまま「まあいいか」で流してしまう事もあるが、ここは勝手知ったる我が家、そして相手は母親である。案の定、透の母は100パーセントオレンジジュースを片手に渋い顔で振り返る。


「……家庭の事情よ。あんたは充と違ってやらかさないでしょうけど、一応言っておくわね。しばらく親の事はあの子の前で話題にしないようにしてあげて。せっかく家に避難させたのに、思い出すと辛いだろうから。色々ね、難しいの」

「翠ちゃんち、なんかまずいことになってるの?」

「大人の事情! あんたにはまだ難しいの」


 出た。大人の事情、家庭の事情、それからあなたには難しい。子どもにあまり深入りされたくない時に大人が使うフレーズだ。充なんかこう言われると「俺もう大人だし、家庭何それわかんねー、難しいかなんて言ってみないとわかんないじゃん、ねーなんで話してくれないわけ!?」と食い下がるのだが、透はいわゆる優等生タイプなので、そう言われれば納得して引き下がる。内心に釈然としない思いを本当は抱いていたとしても。

 しかし彼の母が珍しく深刻な顔でしんみりとしていたのは一瞬、どんと勢いよくキッチンの台にジュースのパックを置いたかと思うと、


「ともかく! あんなふしだら女に、これ以上あの子は任せられません。ええ!」


 そう鼻息荒く言い捨てた。

 ふしだら女が紛れもない彼女の妹に向けての言葉だったと透が知ったのは、大分後の話だ。翠の家の事情の詳細を知ったのも。


 翠の母は透や充に会えば飴をくれる優しいお姉さんだったし、悪人ではなかったと思う。ただ、ある意味見た目通りに、いつまでも独身気分で成長できない人だったのだろう。




 そして橋田家の日常にぽんと居座るようになった幼女翠は、一口で言ってしまえば、「大人しいがいまいち何を考えているのかわからない子」だった。


 何せ翠は透の想定する子どもとえらくかけ離れている。

 透のよく知っていて馴染みのある子どもと言うのは、とにかくうるさく我儘で自分が世界の中心で、あっちこっち駆け回っては泥だらけにするくせに、定期的に転んでわんわん泣く生き物だ――ちょうどそう、ミツルのように。それなら橋田家には既に対策法が確立されている。母が悪行を叱る係、兄が後で弟の愚痴の矛先になる係だ。ちなみに父は一家の大黒柱として頑張っていて空気、いや平日は姿を見る機会が少ないので橋田家のメインイベントからはどうしても外れがちなのである。


 充はある意味非常にわかりやすかった。橋田家の新たな異分子翠の事も、周囲が予想し懸念していた通りに敵視し、顔を見れば喧嘩を吹っかける。翠に「ブス」だの「デブ」だの酷い言葉を浴びせかけるので、母が耳たぶを掴んで引っ張っていき――数分間は、何とも居心地の悪い音が聞こえてくるだけの気まずい時間になる。弟がびいびい泣く声が聞こえてきて、母が「透、あとよろしく!」と声をかけたらいよいよ兄ちゃんの出番だ。鼻水だらけの顔にティッシュを押し付けつつ、「オレ悪くないもん、悪くないもん!」と叫ぶ彼を宥めるだけの簡単なお仕事である。何せ充は母に似て、かっと血が上るがその分割とすぐに冷える。一通り泣かせておけば勝手にけろりと立ち直っているのだから。




 一方の翠は彼の知っているこどもに比べ、それはそれは静かだった。自己主張の塊を宥める係を想像していた透にとっては拍子抜けである。彼女は大人に何か言われるとこくんと頷いて従う。あっちに行きなさいと言われれば行くし、大人しくしてなさいと言われると本当に人形のようにちょんと座って動かない。沈黙が続くとすっと携帯ゲームを出して、淡々とプレイしている。


「何のゲーム、やってるの?」


 ある日、部活から帰ってくると翠がリビングでゲームをしていた。透が思い切って聞いてみると、彼女は一度顔を上げて、それから下げた後に言った。


「モンスターレボリューション」


 それなら透も持っている。アニメにもなり、それなりの社会現象を起こしている男児向けゲームだ。モンスターを捕まえて育成しバトルする、割とありがちと言えばありがちなシステムだ。ただし各モンスターにはレボリューションスキルと言うピンチの状態でしか発動しない奥の手と言うのもが存在し、それをうまく使えば弱小モンスターでも強い相手に一発逆転を決められる、そんな奥深いゲームなのである。


 なんか可愛いデコレーションに満ちたバリバリの女児向けゲームじゃなくて良かった。透はこの謎めいた幼女との共通の話題ができたことに安堵して、しばらくその話題を翠にふっていた。だが、安心してモンレボについての話題をいくつか話題をふった後、不意に聞いている方が途中でゲーム機から顔を上げ、じっとこちらを見つめてくることに気が付く。透は彼女と仲を深めようと思って始めたはずの話が、いつの間にかすっかり自分の熱が入ってしまっていたことを自覚する。間違いなく被害妄想だが、翠の黒い瞳に中学生にもなって男児向けゲームからまったく抜け出せていない自分に対する何かの圧力を感じそうになった。


「……あ、ごめん。もしかして、邪魔だった? 黙ってた方がいい?」


 恐る恐る尋ねてみると、間を置いてから翠はかくっと首を傾げる。そしてまた初期姿勢に戻る。せっかく手に入れたはずのネタを棒に振ってしまい、透は一心不乱にゲームに打ち込んでいる幼女の横でがっくりとうなだれた。




 そんなことがあったのと、日ごろから橋田家の中で一人でいる姿を見ることが多いので、もしや内向的で孤独が好きな性格なのかと思えば、それも少し違うらしい。休日にお散歩に連れ出され、「ほら、あっちで遊んできなさい」と透の母に送り出されると、はらはら見守る透の視線の先で、アキラは平然と見知らぬ子どもたちと共に公園で砂遊びに興じている。無口ではあるが口が動かない分黙々と作業するので、人付き合い(子ども付き合い?)は幼稚園だろうが初対面だろうが、それなりにうまく行くらしかった。むしろ喋らない分、他のおしゃべり好きな子の聞き手に回っているので、何かと主張の強い子どもたちには結構重宝されているらしい。


「お兄ちゃん、偉いわねー」


 幼稚園に透が迎えに行くと(6歳離れた弟である充にも似たような事をやっていたので、透少年は別にさして抵抗しなかった。思春期なりの気恥ずかしさのようなものは覚えたが、中学生にしては非常に温厚で大人びていたのである。反抗期が目立たな過ぎて両親に心配されるほどに)、他の保護者や保母さんからはそう言われる。しかし肝心の翠には、


「このひと、おにいちゃんじゃないよ」


 とばっさり切られ、傷心を隠して「実は従兄妹なんです、ははは」と頭を掻きながら答えるのが常だった。透はずっと翠に「トールちゃん」と呼ばれ続けていた。彼は翠から、何かある種の壁のようなものを感じ取っていた。それは彼に対してと言うより、橋田家に対しての。




 難攻不落に見え、大人しいがいまいち扱い方を掴ませない幼女翠だったが、透は何度かめげずに玉砕し続けて一つの成果を得た。


「アキラちゃん、手繋いで帰る?」


 ある日の幼稚園からの迎えの時、ふと周りの帰宅児たちの様子を見て思いついた透が「どうせすげなく断られるんだろうな」、と思いながら帰り道に提案してみると、従妹はちょっと下を向いて考えてから、なんと手を差し出してきたのである。内心驚愕しつつも透少年が恐る恐る手をつなげば、どうも無表情なりにまんざらでもないようだった。


 それ以来、透少年が迎え役になる時は、翠は必ずと言っていいほど自分から手を差し出すようになった。

 透は何とも言えないこそばゆさのようなものを感じながら、従妹の手を引いて茜色の帰り道を歩く。その頃には彼も、大分翠の沈黙に慣れるようになっていた。無口な従妹は機嫌がいいと透の手を借りてスキップする。一緒にスキップすると色々問題が生じるので、少し速足で従兄は付き合うのだった。




「ブース! 早く出てけ!」

「充!」


 翠が橋田家に来て早数週間、大分馴染んで来たある日だった。いつも通り充と母が自宅の廊下の向こうに消えるのを見送り、さてまた適当な頃合いを見計らって出動せねば、と思う透少年は、ふと振り返ってどきっとした。


「……」

「アキラちゃん?」


 翠は大体充が何を言っても我関せずの状態で無視していることが多いが、この時はじっと廊下の向こうを――どこかもの言いたげな顔で、見つめていた。やがて彼女は、気を付けていなければ聞き取れないぐらいのごくごく小さな声量でぽつっとこぼした。


「パパとママのおむかえがきたら。アキラ、ちゃんとでていくもん。おうち、かえるんだもん……」


 透少年には、かける言葉がなかった。

 何か言わねばと思ったが――子どもの彼が、部外者の彼が言っても、なんだかとても軽率で空虚なものになってしまう気がした。


 彼は翠に感じていた距離感の正体をようやく知った。


 彼女は借りてこられた猫だったのだ。


 あまり顔も覚えていない叔母と叔父の事を、透少年は母に呼ばれてバトンタッチになるまで考えていた。




「オレ、悪くないもん」


 いつも通り湯船の中で弟の愚痴を聞いている透少年は、翠の事を考えていてどこか様子が違ったのだろうか。弟は目ざとく兄がいまいち生返事な事に勘付くと、口を尖らせた。


「やっぱり兄ちゃんもオレが悪いと思ってるんだ!」


 透がえ、と口を半開きにして向き直ると、小学校低学年の弟は真っ赤な目で睨みつけてきた。


「みんなそーだ! みんな、オレが悪いって言うんだ! オレがわがままで、なんでわかんないのって――わかるわけないじゃん! じゃあ、じゃあ、みんなはわかってるのかよ!?」


 興奮してまくしたてる弟を前に、兄はしばし考え、ふうとため息をつく。


「そうだな。充は悪くない。充の考えは充のものだ。それ自体が悪いわけじゃない。きっと充の考えていることは正しい。じゃあ、なんで皆が怒るんだと思う?」


 それがわかったら苦労しない、と言う感じの不満顔で黙り込んだ弟を前に、兄はもう一度考え、頭の中でまとめてから口に出す。


「きっと伝え方が――言い方が良くないんだ」

「オレが馬鹿だって、兄ちゃん言いたいの?」

「違う――うーん、いや。そうなのかもしんない。だって充、自分のことばっかで相手の事考えないじゃん。翠に色々言ってるけどさ、翠が言われてどう思ったか、考えたことある?」

「なんでそんなこと考えなきゃいけないのさ……」

「だからさ。それがわからないうちは、きっとみんなお前を怒り続けると思うよ。傷つけられるのが嬉しい人なんていないんだから」


 怒らせちゃうかなあ、と弟の様子を窺っていると、充はしばらく黙り込んだのち、静かに声を上げる。


「オレ、傷つけた?」


 扉を閉めた浴室には声が籠ってよく聞こえる。


「あいつ、急に家来て、ムカつく。なんか、全然泣いたりとかしないし。ロボットみたい……」

「アキラ、お前と違って口には出さないけど。お前と違って全然気にしてないってことは、ないと思うな。ロボットみたいでも、ロボットなわけじゃないんだろ。それに出てけって言われても困るだけだと思うよ」

「……」

「翠には今、出て行く先がないんだから」

「……兄ちゃんなんか、嫌いだ」

「えー?」

「訳知り顔の兄ちゃんなんか嫌いだ……」


 充はそう繰り返すとしかめ面のまま、ぶくぶく泡を立てながら湯船の中に沈みこんだ。

 そのまま兄に助け出されるまで、彼はお湯の中に沈み続けていた。




 翌朝になっても、充の態度が急に変わることはなかった。彼は翠を見れば喧嘩を吹っかける。

 ただその日以来、「出て行け」とはもう言わなくなっていた。




 橋田家に小波乱が起きた次の休日。透は翠が母に朝からなんだか物々しく着飾られ、荷物を持たされて手を引かれるのを黙って見送るしかなかった。橋田家の玄関を跨ぎ、一度だけ翠がこっちを振り返る。


 バイバイ、とでも言うように、彼女は無表情に手を振った。


 その日は快晴で、家に残った父がキャッチボールの相手になってくれたが、どうにも心が弾まなかった。

 気のせいかもしれないが、一緒に父とボールを投げ合っている充の方も、なんだか浮かない顔をしているように思えた。


 夜になって母だけが帰ってきた。翠の姿は見られない。

 晩の食卓はハンバーグで、いつもより若干豪華だった。だから空虚な思いを感じたのは、きっと気のせいだったのだろう。




 しかし、銘々感傷に浸っていた橋田兄弟の前に、案外と早く翠は戻ってきた。具体的には翠が連れて行かれた次の日に、透は前と全く変わらぬ様子で託児所へのお迎え係に任命されたのである。


「アキラちゃん、昨日どうしたの?」


 そう母に聞くと、これまた複雑な表情で向こうは答えた。


「あの子はねえ、本当に……まだあんなに小さいのに、ちゃんと選んだのよ。あんのアホなろくでなしには勿体ない娘だわ、まったく」


 自己完結しているらしい答えに透は首をひねり、すぐにぼんやりするなと聞き耳を立てていた透と一緒に朝の通学に追いだされた。




 これで本当にいいのだろうかと訝しみつつも迎えに行ってみれば、翠は前と特に変わらない様子で子どもたちと一緒に走り回っていた。どこか拍子抜けした気持ちに透がなっていると、前と同じく勝手に自分で荷物をまとめて寄ってきて、バイバイと保母さんに手を振る。


「しっかりした兄妹ねー」


 何度目かになる声をかけられ、曖昧な微笑みを浮かべて透は翠の片手を取る。赤く染まったアスファルトを橋田家に向かってゆっくり歩いていると、ふといつもは何も喋らない無口な幼女が口を開いた。


「トールちゃん」

「……ん、なあに?」


 急な事で一瞬反応が遅れたものの、慌てて言葉を返すと、翠は立ち止まった。透も合わせて立ち止まる。幼い従妹はこちらを向かないまま、半ば独り言のように言う。


「アキラね、ママといっしょにいることにしたの。パパはしっかりしてるけど、ママはだめなひとだから。パパがいなくなってアキラもいなくなったら、いけないとおもったの」


 そこまで言ってから、翠はくりんと首を回し、大きな瞳を透に向けてくる。普段は黒く済んだそれは夕焼け色に染まり、どこか潤んでいるように見える。


「でもね、そういったら、パパ、がっかりしてたの。アキラ、まちがってる?」


 一瞬で様々な事が頭の中を巡った。

 それってどういうこと? なんか大事な話じゃない? なんでおれに言うの?

 だが、一瞬後には透はするっと口に出していた。


「間違ってないよ。兄ちゃんが保証する。アキラは正しい」

「ほしょー……」

「約束する」


 思わず握った手に力を込め、透は気弱で温厚な柄にもなく強い調子で答える。

 アキラは彼のやや苦手な読めない無表情のまま相手の顔をじーっと眺めていたが、その目がふっと緩む。


「トールちゃん、ありがと」


 透はわずかに、けれど確かに、握られるままだった彼の手の中の小さな手が、力を持って握り返してきたのを感じる。翠がスキップを始めたので、透は慌てて小走りに合わせて駆けだす。ジャンプに合わせて腕にぐっと力を込め、軽く持ち上げて飛ばせてやると、翠は歌うように何気なく言った。


「おにーちゃん、だーいすき」




 その後ご機嫌で帰宅した二人に向かって、


「おせーぞ、馬鹿兄、ブース!」


 と奥から明らかに待機していただろうと言うすごい勢いで駆けだしてきた充が罵声を浴びせかけたこととともに、その日の記憶はいつまでも、透の記憶の中に鮮やかに残っているのだった。

 翠がその後二度とそうやってストレートに言ってくれることがなかっただけ、余計に。






 それからほどなくして、安館翠は広瀬翠に変わった。広瀬は母の旧姓でもある。つまり、そういうことだったのだろう。

 安館氏は妻との同居には決断を下してしまうほど忍耐の限界を感じたらしいが、娘の事は常に気にかけていた。翠も父と定期的に面会できることは素直に喜んでいるようである。

 翠の母は相変わらず若く、だらしないままだった。まもなく小学校に入学した娘にせっせと世話を焼かれているほどに。充なんかは「あんなのが親で大丈夫なんて、翠ってヘン。お父さんの方についてけば良かったのに」とこっそり言ってしまっているが……あの日翠の本音を少しだけ打ち明けられた透は、それについて微笑みで返すのみである。

 橋田家の主婦は姪の事が心配で心配で、常にお節介を焼き続ける。結果として翠は橋田家と広瀬家を交互に行ったりきたりすることになってその方が大変なのではないかと思うが、本人が満足しているようなので透もそれでいいと思う。




 そして透が高校生になり、大学生になり、社会人になる頃には、翠はすっかり逞しくなり、橋田家家事担当、主婦二号の座に収まっている。家事スキルに満ち、ついでに漢気も溢れる従妹に橋田家の兄弟はそろって頭が上がらなくなるのだが――。

 それはまた、別の話。

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[一言]  ほのぼのしました。  一般的にみたらお父さんのほうがいいんじゃないかと思うのに、お母さんが放っておけないっていう翠ちゃんに何だかじーんときました。  無表情だけどちゃんと自分の考えがある強…
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