桜咲いて
大学院生の特権業務に、「教員補助」というやつがある。
テストの採点を手伝ったり、出席カードを配ったり、教授に頼まれた資料を集めたりする、いわば、ちょっと知的な雑用係だ。
先生が留守の間は、研究室の留守番をすることもある。学生と教師の中間地帯みたいな立場で、実は結構おもしろい仕事だったりする。
特にこの留守番業務が忙しくなるのは、秋から冬にかけて。
なぜかというと、卒論の相談に来る学生が多いから。
俺の担当の先生は面倒見がよくって、よく学生がきた。俺の留守番業務中だけでも10人は来たかな?
文学部は女の子がおおい。特に英文科は女子だらけの三毛猫状態だ。そんなわけで、俺が顔を合わせた学部生は全員、女の子だった。
俺の先生の専門分野は、アメリカのマイノリティー文学。
要するに黒人文学だ。
自慢じゃないが、俺は雑学がすごい。
ブルース、ジャズといった黒人芸能は俺の得意分野の一つで(自慢じゃないが他にも得意分野はある)、先生が学生の相談を受けてる横から、「こんな資料がありますよ」とアドバイス(先生も知らないような資料だったから、これは横やりじゃなく、アドバイスと言っていいだろう)を入れたこともある。
で、その時アドバイスをした学生と仲良くなった。
彼女は大学院に行きたいのだそうで、研究室で留守番してたのが縁で、現役大学院生の俺に定期的にアドバイスを求めてくるようになった。
まあ、それで仲良くなったわけだ。
彼女は、特別かわいいってわけじゃないが、知的で礼儀正しくて、いまどき珍しいタイプの学生だった。
黒髪のセミロングで、色白で、瞳が大きくて、いつもちょっと恥ずかしそうなような表情をしてた。
ほっそりとした体つきで、冬はまるで締め付けるみたいにマフラーを巻きつけてて・・・、なんだかその動作が、かわいらしくて、俺は彼女を見るといつもほほえましい気分になった。
ただ、俺がアドバイスをすると、パッと明るい表情になり、顔をあげて、「ありがとうございます!」と満面の笑みを浮かべて感謝してくれた。
知ることが大好きなんだ。
今時の無礼なバカ学生とは全然違う。
俺は正直、この子が気に入ってた。
3月ももう終わろうかという時期になった。
俺は、前その日、前年度の採点補助業務をすべて終え、先生に「お疲れ様」と送り出されたところだった。時計を見ると、午後の4時。始めたのが朝10時だったから、上々の仕上がりだ。
メールが来ていた。彼女からだった。
「先輩、今からお会いしていただけませんか?報告したいことがあって」
「いま、学校で採点補助を終えたとこ。」
「あ、私、いま、図書館にいます」
「じゃあ、正門で待ってて。お茶でも飲みながら聞くよ」
「はい!」
・・・・・
「先輩、私、受かりました!」
「おう!よかったねえ!おめでとう!」
「ええ、本当に・・・」
彼女は涙ぐんでいた。
大学院入試は大抵、秋(たいてい11月)と春(たいてい2月か3月)と2度行われる。
募集人数は秋季の方が多く、春季に受けるのは、はっきり言って分が悪い。
彼女は秋入試で主要な都内の国立大に落ちてしまっていた。
それでも受かったんだから大したものだ。まあ、真面目に勉強してたし、もともと賢いコだから。
神様はちゃんと見てたんだな、と俺は思った。
「本当によかったねえ!」
「はい!ありがとうございます!本当は先生に先に言わなきゃいけないものだと思うんですけど、どうしても、先輩に先に言いたくて。」
「おう。じゃあ、先生、まだ研究室にいるから、報告しておいで。事務処理で8時までは学校にいるって言ってたからさ」
「はい、そうします」
「国立?」
「はい!そうです!」
「マジか!?すごいなー!」
「先輩のおかげです!本当にありがとうございました!」
「いや、俺みたいな1・5流大学院生のアドバイスなんて・・・君がちゃんと勉強したから受かったんだよ。いっつも図書館にこもってたもんなあ、本当に良かったね。」
「はい、本当、良かったです。でも・・・」
彼女がうつむいた。いつもの控え目なクセとは違う。
なんだろう?俺は何かまずいことでも言ったかな?
「北海道大学なんです・・・、私が受かったの。そこしか受からなくて・・・」
北海道大学は全国でも有数の名門国立大だ。そこに受かったことに一体、何の問題があるのだろう?だから俺は言った
「なんだ、むしろいいことじゃん。君、実家は函館だろ?実家から近くなっていいじゃない。まあ、東京の友達には会いづらくなるかもしれないけどさ」
「はい。でも、その・・・」
また、うつむいた。彼女の反応からして俺が何かまずいことを言ったわけじゃ、なさそうだ。
でも、なんだろう?この居心地の悪さは?
「その・・・」
彼女の眼はしっかりと俺を見据えていた。さすがにニブい俺でも、その意味は分った。
「あ、ああ・・・」
俺は、ただ、そういうしかなかった。
彼女は泣きだした。最初は静かに、終いにはしゃくり上げるように。
俺達はいつも空いていることで有名な(俺たちの間で)表参道の裏道にある喫茶店にいた。
いつもどおり客は他にいなかった。それが幸いだった。
俺は彼女の隣に移り、背中をなで、ただこう言うしかなかった
「大丈夫。大丈夫だから・・・」
その後、俺たちは二人で、先生の研究室に報告に行った。先生は手放しで喜んでくれた。
キャンパスに出た。
さっきは気づかなかったが、もう、桜が咲いていた。
「・・・すいません。さっきは本当に・・・」
「ううん。いいんだよ」
「・・・・」
「あのさ、俺、今年留年で単位も満了してるから、授業出る必要ないんだ。だから、会いたかったら、いつでも言ってよ。会いに行くから」
「はい。ありがとうございます」
「さびしかったらいつでも電話してくれていいし。俺、ヒマだから」
「はい、ありがとうございます」
沈黙
「秒速5センチメートルらしいよ」
「何がですか?」
「桜の花びらの落ちるスピード」
「先輩は本当に何でも知ってるんですねえ」
いつもの穏やかな笑顔。
彼女が、すっと体を寄せてきた。
「まだ、ちょっと寒いですね。」
「うん。そうだね。」
「合格祝いに駅まで送ってください」
うん、いいよ、と俺が言うより早く、彼女は先に立って歩き出していた。
彼女の顔を見た。
もう、涙のあとも消えていた。
都会にも桜は咲く。
彼女に追いつき、並んで歩く。
俺たちの肩にひらひらと、花びらが舞い落ちていた。