―まともな夕食―
学校から帰って居間に入った瞬間に鼻先をくすぐる匂いがした。
その匂いは疲れでいっぱいだった体を空腹でいっぱいに変えてしまう。
匂いで何の料理かを当てるのがささやかな楽しみだったりもした。
ぴったり料理を当てた時は、どこか誇らしげな気分になる。
『今日カレーでしょ』
「せいかーい」
母さんはそう言って皿にカレーを盛り付けていく。
そして俺の目の前にコトンと音をたててカレーが入った皿が―。
「明弥さーん。ご飯できましたよー。あーきーやーさん。」
『……んあ…?』
ゆっくりと目を開けて声がした方に顔だけ向けると、キッチンで優芽が手でメガホンみたいなものを作って俺に呼びかけていた。
その様子を見てから俺は夢うつつでソファーから起き上がる。
なんだかとても懐かしい夢を見ていた気が…
なんでまたこんな夢を…と思ったら美味しそうな匂いがした。
…なるほど。
きっとこの夕飯の匂いが夢に出てきたのだろう。カレーではなさそうだが。
「明弥さんの分だけもうご飯できましたから先に食べてください。」
ソファーから立ち上がり、優芽の声を聞きながらテーブルのイスにつく。
『なんで俺だけ先に食べるんだ?』
「実はですね、お風呂も勝手ながら沸かしたんです。」
『お風呂を?』
「はい。やっぱり一番風呂は明弥さんですし、先にご飯も食べてもらおうと思って…」
そう言いながら優芽は次々と皿に料理を盛り付けている。
オープンキッチンなので居間全体からも料理している様子などは丸見えだ。
イスからその盛り付けしている姿を眺めながら、俺は風呂のことを考えていた。
基本的にシャワーしかしないし、湯船につかることなんて休日くらいしかない。
こんな平日に湯船につかる日がこようとは思ってもいなかった。
そこまで風呂好きというほどではないが、シャワーよりも疲れがとれるのは事実。
「どうぞ!味は保証しないですけど…えへ」
照れ笑いのようなものを浮かべて優芽は風呂のことを考えていた俺の前に料理を並べてくれた。
とりあえず一旦風呂のことは置いといて、思考を食事に切り替える。
今日の晩御飯は…
白米、豆腐とワカメの味噌汁、ハンバーグ、冷奴。
ハンバーグにはキャベツの千切りも添えられている。
『…いただきます』
とりあえずまあ形だけでも。きちんと手は合わす。
「はい♪」と俺の言葉に返事をして優芽はイスに座った。
まずは味噌汁を一口…
―美味い。
味も絶妙だし、なによりも豆腐だ、この豆腐の喉越しの良さ…!
さすが豆腐屋と名乗ってるだけのことはある。値段が高いだけのことはある。
味噌汁に入っててこれだけ美味いんだから冷奴なんて相当なものだろう。
冷奴は最後にまわすとして、ハンバーグに手をつけた。
半分に割ってみると真ん中から肉汁が溢れてなんとも食欲をそそる。
母さんが作るハンバーグなんて肉汁ひとつ出ない。
だからいつも半生のものか、丸こげのハンバーグが出てきたものだ。
そしてハンバーグを一口…
―美味。
これはご飯が進むというものだ。肉のうまみが凝縮されている。
ガツガツとご飯を食べて…ふと視線を前にずらしてみると、笑顔で俺を見ている優芽と目が合った。
『…なんだよ』
「あ、私のことは気にしないで食べてください。」
『いや、食いづらいんだけど…』
「え!?あ、ご、ごめんなさい!」
『分かってくれれば別に―』
「今すぐナイフとフォークを持ってきますね!」
『ちげえよ!!そっちの食いづらいじゃねえよ!むしろ俺からしたらそっちの方が食いづらいわ!!だから止まれ!キッチンの方に行かなくて良いから
止まれ!そして戻って来い!!』
「え?そっちの食いづらいじゃないってどういうことですか?ほ、他に何か―」
『余計なことは考えなくていいから早くイスに座るんだ。いや、座れ。』
「でもでも―」
『おすわり』
「は、はい!」
なんとか座らせることに成功した。
さらに優芽は犬のような習性をもっていることが判明した。
これは非常にどうでもいい収穫だ。
大人しくイスに座った優芽は少しだけしゅんとしている。
まさか本当に食いづらいというのは食べ物のことだと思ってたのか。くわばらくわばら。
『…食いづらいっていうのは、見つめられると…っていう話だから』
「そ、そういう意味でしたか!ひゃあ…それはすいませんでした!」
優芽は慌てて両手で目を隠したがそういう意味でもない…!
どうしてコイツはこうも俺の予想の斜め上をいってしまうのだろうか。
見つめられるのも辛いが、こうして目の前で目を隠されているのも辛い。
…まあ放置安定だな。
優芽は放置することにして、俺はそのままハンバーグと白米を食し、残るは冷奴。
ズシンと皿に乗っかっていて、その姿はまるで豆腐界のラスボス的な。
豆腐の上には生姜が乗っかっていて、醤油がかけられている。
生姜がこぼれないように一口サイズに箸で豆腐を割って、口に運んだ。
―デリシャス。
とうとう日本語では言い表せない域に達してしまった。
やはり冷奴は豆腐を最大限に引き出す料理だと思う、うん。
なんていうか大豆のうまみというか、とにかく豆腐うまい。
『美味いなこれ。』
「本当ですか…!?嬉しいです!」
『なんていうか…素材の味が最大限に引き出されてる…というか』
「良かったです…!しっかり中まで焼けてるか心配だったんですよねぇ…」
『…あ?』
「結構中身が半生だったり、焼きすぎちゃったりするので難しいんですよ」
『…』
「ケチャップ多すぎたりしないですか?そういえばマヨネーズかける人も居るらしいですよね。」
『……』
「明弥さんってケチャップ派ですか?…明弥さん?聞いてますか?」
多分―いやきっと優芽は大きな勘違いをしている。
こうして話をしてる間も優芽は両手で目を隠しているし、完全に俺が美味いと言ったものはハンバーグだと思っている。
だが実際俺が美味いといったものは、殆ど手間をかけてない冷奴だったりするわけで。
ていうか何の料理かも聞かずに判断する優芽はある意味すごい気がする。
一体どこからハンバーグだという確信を持ったのだろうか。
「明弥さーん。聞いてますかー。マヨネーズ派なんですかー?太っちゃいますよー」
なおも俺に語りかけてくる優芽を見て俺は―
『…その指…』
優芽の左手の親指には絆創膏が貼ってあることに気づいた。
今まで全く気づかなかったけど、優芽の白い肌に絆創膏というのは結構目立つ。
きっと料理の最中に指を切ったりなんだりしたんだろう。危なっかしい。
「なにか言いましたか…?」
『いや、何も』
「本当ですか…?でもなんかボソって聞こえましたよ!」
くそっ…妙なとこで鋭い奴め…。
『…気のせいだろ』
「あー!そうやって誤魔化そうとしてもだめですよー!」
『ご馳走様。』
「あ、はい!お粗末様でした♪」
そう言って優芽はパっと手を目から離して食器を台所へと持っていってくれた。
そして俺はそのまま風呂の準備をするために部屋へと向かう。
「…あれ…私なにか気になることがあったような……あー!」
食器を洗おうとした優芽が大きな声を出して動きを止めたので俺は急ぎ目に居間を出た。
優芽に捕まらないように足早に階段を駆け上っていくと、
「明弥さーん!結局なんて言ったんですかー!もー!」
という声が下から聞こえてくる。
仮に絆創膏のことを言ったとして、だ。
優芽にどう思われる。
少なくとも、「心配してくれてる」だとか「見てくれている」と思うだろう。
そんなことを思われるだなんて冗談じゃない―!
俺には関係ない!誰が怪我をしようがどうでもいい!俺は住まわせてやってるだけだ!!
そう自分に言い聞かせ、俺はバタン!と勢いよくドアを閉めて部屋に入った。
そしてタンスからバスタオルや着替えを取り出して風呂に向かおう…
「明弥さんのおばかさーん!あんぽんまーん!ん?あんぱんたーん?あれ?なんでしたっけー…と、とにかく!おばかさーん!!」
『…アイツまだ言ってるのか…』
としたが、どうやら無理そうである。
今、階段を下りたら確実に変なことを言ってる奴に捕まってしまう。
多分言おうとしてる言葉は「あんぽんたん」なんだろうが、その言葉が一番似合うのは他の誰でもなく優芽だと思った。
きっと俺以外の人間がこの場面に直面したとしても同じことを思うだろう。
とりあえずまあ…優芽のマヌケな声が止むまで風呂はおあずけらしい。