漣戀戒祈
ひかりの下、笑いあった日も確かに在ったはずなのに。
もう、思い出せないくらい、どうしようもなく遠い。
目を閉じて、夢を見る。
繰り返し繰り返し、擦り切れるんじゃないかと思うくらい何度も見る夢は、もうどうしようもない過去の記憶。
私の罪。狂わせた、『何か』。
それは『運命』だったかもしれないし、『彼』そのものだったかもしれなかった。
どうして、彼だったのか。どうして私だったのか。
何かをどうしようもなく間違ったのだと、どうしてそんなことを思うんだろう。
「……食事を、しなかったって聞いたよ」
戸口に立った彼が、苦しげな顔でそう言う。まるで私が今すぐにでも死んでしまうとでも思ってるみたいに。
いつの間に、彼が帰ってきたのかと思う。格子の隙間から見える空は赤くて、知らないうちに時間が過ぎ去っていたことを知った。
起きていたのか、眠っていたのかも自分ではよく思い出せない。ずっと寝ていたような気もするし、大半の時間を起きてぼうっと過ごしていたような気もする。
「食事をしたくない? 朝は食べられそうだって言ってたけど……」
ふいに、彼の顔が歪む。泣き出しそうに。
「――それとも、君は……死んでしまいたい、の?」
震える彼を、遠く見る。ここから、手は届かない。
彼は部屋の中に入ってこようとはしない。見えない線を踏み越えた瞬間、私がどうにかなってしまうと思ってるのかもしれない。
「…………」
答えようとしても、声はいつも通り出なくて。
問いには、首を横に振って答えた。
この質問を向けられるのは何度目だろう。いつからか、彼が繰り返すようになった問い。生きていたくないのかと、死んでしまいたいのかと――そうまでして、自分から逃れたいと思うのかと。
死にたい、と思ったことはない。死は怖くて、この世界ではとても身近にあるからこそ怖くて、だから私は死にたいと願ったことはない。
だけど――そう、『生きたい』という気持ちも、抱かなくなってしまった。
『生』を望むようになる前に『死』を近くに感じすぎたのかもしれない。とても簡単に奪われる命を許容して生きるのに、そういう気持ちは邪魔だったんだろう。
私が居たから、私が彼と出会ったから、私が愚かだったから。
たくさんの人が死んで、殺されて、私はこうして生きている。彼を狂わせて、それでも。
もし、私が自ら死を願えば、彼はそれを許すだろうか。彼を置いていくことを許すだろうか。
答えなど知らない。知らなくても、どうしようもなくわかっているのは――彼に執着と、妄執と呼ぶに相応しい思いを抱かせた私が、それを選ぶ権利は、無いだろうということだけ。
彼は優しい人だった。傷つく人に、理不尽に死ぬ人に、心を痛める人だった。
私なんかより、きっとずっと、優しくて繊細な人だった。
狂わせたのは、私。
彼はまだ動かない。不安そうな顔で私を見ている。
促すためにベッドから降りようと床に足をついて、立ち上がろうとしたけれどできなかった。随分と長くベッドの住人でいたから、足が萎えてしまっていたのだろう。
崩れ落ちた私を、慌てた様子で部屋に入ってきた彼が支えてくれた。そのまま抱えられて、ベッドに戻される。
「驚いた――危ないよ」
ごめんなさい、の代わりに、頭を下げると、彼は困ったように微笑んだ。
「いいんだ。謝るのは、俺の方だから」
視線は掛布の下に隠れた、私の足に向かっている。そこには冷たい足枷が今もある。
……罪悪感、とは少し違う色を映した瞳が、揺らぐ。
「……外に、出たい?」
首を振る。否定を込めて。
外の世界が怖いだけじゃないのを知っている。あたたかく、やさしい面があるのを知っている。
それでも過去の記憶は『外』に慕わしさより恐怖を覚えさせるし、何より――。
こんな、置いて行かれる子供のような顔をした彼を振り切ってまで、行きたいと思える場所じゃないから。
少しだけ、意識して笑みを浮かべる。少しでも彼が安心できるように。
伸ばした手を彼の手に重ねれば、彼はますます泣き出しそうな顔になった。
ぎゅっと両手で手を包まれる。私より低い体温が、じんわりと伝わってきた。
「ごめん。……ごめん」
小さく呟かれる謝罪の意味を、全部わかるわけじゃない。
彼は私に負い目を持っていて、私も彼に負い目を持っている。ただ、それだけ。
狂った、狂わせた、全て。
私も彼も、きっと一生、それを背負って生きていく。
「ごめん、ごめん、ごめん――」
繰り返される謝罪に、思い出すのは遠く思える過去の記憶。
『――好きだ。好きだよ。愛してる』
『好きになってくれなんて、言わない。愛してくれ、なんて言わない。……いなくならないでくれれば、それだけでいいんだ』
『……ごめん。ごめん。こんなふうにしかできなくて、ごめん――』
あの時の彼も、泣き出しそうな顔をして。
それでも、一粒も涙を流さなかった。苦しそうに、何度も謝罪を繰り返して。
閉じ込めて、鎖を繋いで、危険を徹底的に排除して。
そういうふうにしか『大切』にできないことに苦しんでいた。
そういうふうに歪んだ想いを抱いたことに、苦しんでいた。
私は多分、彼が私を想うようには、彼のことを想えない。
そしてきっと、彼はそれをわかってる。
わかっていて、私を大切に大切に、扱い続ける。
それはきっと、私がここから『いなくなる』日まで。
来るかどうかもわからない、その日まで。
私が歪めてしまった彼と共にいると、私はあのとき決めたのだ。
たくさんの罪を背負わせた、彼に少しでも報いるために。
それは恋しいとか愛しいとか、そんな甘やかなものじゃなくて。
どこまでもいびつで歪んだ、緩やかに沈みゆくような、そんな関係にしかならないと、わかっているけれど。