戀憐廻祈
やさしいものは脆くて壊れやすくて。
そして、こわいとあなたは言った。
『君は俺を嫌う?』
『こんなにも血で汚れて、君を抱きしめるための腕なんて持ってなくて』
『……優しくしたいと思ってても、こうやって君を閉じ込める』
『そんな俺を、君は憎む?』
目を覚ます。
慣れた体温が、頬に触れているのを感じた。
「……起きた?」
彼が、微笑みを浮かべて聞いてくるのに頷く。
「今日は顔色、少し良いみたいだね。食事はできそう?」
その言葉にも、頷く。
彼は嬉しそうに笑った。
「滋養にいいっていう果物も用意させたんだ。食後にでも食べるといい」
優しく彼は私を抱き起こした。慈しむような手つきも、気遣う視線も、いつも通り。
「俺はこれから少し出なくちゃいけないんだけど、何か入用のものはある?」
その問いには首を振る。彼は少し残念そうな顔をした。
「遠慮しなくてもいいんだよ?」
もう一度首を振る。遠慮してるわけじゃない。
「……わかったよ。体調がいいなら少しくらい動き回ってもいいけど、無理はしないようにね」
頷く。彼は名残惜しそうに私を見つめた後、立ち上がった。
「それじゃあ、行ってくるよ」
こくんと頷く。それから、少し迷って手を振った。
彼は一瞬驚いた顔をして、それから笑み崩れた。
……ちゃんと、意味を汲み取ってくれたらしい。
「うん、行ってきます」
そう言って、今度こそ部屋を出て行った。
「…………」
彼の姿が完全に見えなくなるまで振っていた手を、ぱたんと落とす。
彼が居なくなった部屋は、静かだ。そして実際以上に広く感じる。
ベッド脇に置いてある鈴を見る。鳴らして食事を持ってきてもらおうかと思ったけど、もう少し後にすることにした。
力を抜いて、背もたれ代わりのクッションみたいなものに倒れこむ。
目を閉じて思い浮かぶのは、目が覚める寸前まで見ていた夢のこと。
――夢というよりは、過去の記憶と言った方が正しいけれど。
私と彼が会ったのは、もう2年以上前になるだろうか。
正確な月日はわからない。そもそも私の思う『1日』とここでの『1日』が同じかもわからない。
私が生まれ育ったのは、こことは全然違う場所だった。ここは所謂『異世界』にあたるのかもしれない。確証はないけれど。
唐突にここへと飛ばされた――という表現が正しいのかは分からないけど、そう表すのが一番しっくりくる――私を見つけたのが、彼だった。
見知らぬ場所で右も左もわからなくて、不安でいっぱいだった私に、彼はとても親切にしてくれた。
食べるものも着るものも住むところも用意してくれて、ほとんどパニック状態で要領を得なかっただろう私の話を根気強く聞いてくれた。
そして、行くところがないのなら、ずっと自分の元に居ていいと言ってくれた。
さすがにそれは申し訳ないから、私はどうにか1人で生きていけるだけの知識をつけようとできる限り努力をしたし、彼もそれに協力してくれた。
……協力、してくれていた。
それが過去形になってしまったのは、ある事件がきっかけだった。
彼は、地位ある人間で、その分敵も多かった。
もちろん彼本人はうまく立ち回って敵に付け入らせる隙を作らないようにしていたのだけど――そこに『私』という異物が現れてしまった。
それでも、隙らしい隙を彼は――彼自身は、作らなかった。
だけど、私はその時、彼の立場も事情も、よくわかっていなくて。
自分の存在が、彼を目障りに思う人たちにとって、どういうふうに映るのかもわかっていなくて。
頑なに1人で外出しないようにと言っていた彼の言葉を軽視して1人で外に出て――そうして彼の敵に捕らえられた。
まるでマンガとか小説の愚かなヒロインのようだったと、思う。しかも、足手まといにしかならないような。
ただ助けを待つしかできなかった。自分の才覚で場を切り抜けるなんてことは全くできなかった。状況に翻弄されて、震えていただけだった。
その時のことは、よく覚えていない。怖かった。ただひたすらに怖かった。私を道具としてしか見ない人も怖かったし、脅しとして振るわれた暴力も怖かった。ここが私の育った世界とは全く違うのだと、その時初めて思い知った。
彼は私を真綿でくるむように甘やかしていたから。
私の語った言葉から読み取れる私の世界が、どれだけ平和か、身の危険を感じない場所かを知って、あえてここの危険性を明確には伝えなかった。
それは多分、彼の優しさだった。不安定だった私の心を慮ってのことだったんだろうと思う。
違う文化、違う常識。それらを受け入れるために、私はここを夢のような世界だと思っていたから。
……それは、ただの逃避でしかなかったけれど。
敵の手に落ちた私は、見捨てられてもおかしくなかった。少なくとも私は、彼が私を命を顧みずに助けに来るとは思わなかった。
彼はとても優しかったけれど、そこまでする義理はないだろうと思っていた。
利用価値がないとわかれば殺されるのだろうと思っていたけれど、助けてもらえるとは思えなかった。どれだけ助けてほしいと願っても、叶えられないと思っていた。
……だけど彼は、助けに来た。
敵の要求を踏みにじって、剣を片手に、単身本拠地を襲撃するという方法で。
いろんなものが麻痺していた私は、その騒ぎにも気づかずに、押し込まれた部屋でぼんやり座り込んでいた、と思う。
だから、彼が扉を蹴破るようにして入ってきたときも、ろくな反応を返さなかった。
そんな私に、彼は――
ほんの一瞬、昏い喜びを瞳に浮かべたのだ。
それは本当に一瞬のことで、すぐにその表情は泣きそうなものに変わって。
私を抱きしめようとしたんだろう腕は、何かに気付いたように不自然に宙に浮いた。
ぼんやりとした思考のまま、頭に浮かんだ彼の名前を呼んだのは覚えている。
彼は手に握っていた剣を床に置いて、それから私を戒めていた鎖を解いて。
震える声で、私の安否を確認した。
それからの彼は、病的なまでに私に過保護になった。
そしてその傍ら、彼の敵を――彼の敵になり得るものを、ありとあらゆる手段を使って排除し始めた。
……こわいんだ、と彼は言った。
『君の話す世界はやさしくて、君もきっと、どこまでもやさしいままだ』
『だけど――やさしいものは脆くて、壊れやすくて』
『君がそのやさしさから、壊れてしまうんじゃないかと……そんなことばかり考える』
縋るような目だった。懇願するような言葉だった。
彼は私を、私が思う以上に大切に想ってくれていたのかもしれないと、その時やっと気付いた。
彼の優しさは万人に発揮されるものだと思っていた。期待しすぎないように、寄りかかりすぎないように、ずっと線引きを続けていた――それが多分、間違いだったのだと知った。
『こわいんだ。目を離せば、君はまたいなくなってしまうんじゃないかと』
『そして、この世界から逃げ出したいと思ってしまうんじゃないかと』
ここを『現実』だと、改めて認識し始めた私に、彼は勘付いていたようだった。
夢のような、ふわふわした認識でいたからこそ、私はここを許容できていた。
だけど、そうじゃないと思い知らされた私が、ここを拒否するのではないかと――彼はそれを怖がっていた。
彼にとっても私は、夢の世界の人間だった。
平和な世界で育った私は、彼からすればお伽噺の存在に近かったんだろう。脆くて儚くて、ふとした拍子に消えてしまうんじゃないかと思えるような。
生まれ育った場所に帰る方法なんて知らなかったけれど、彼はいつか私の『世界』に私が帰ってしまうと思っていた。
そしてそのきっかけになるのは、私がここを拒否することだと。
……でも、それだけじゃなかった。
ここを『現実』と見ていない私こそ、すぐにいなくなってしまう存在なんじゃないかと彼は疑っていた。
だから彼は、――ここを『現実』と認識し、それ故に自分を守ろうと様々なものを麻痺させていた私を見て、喜びを覚えたのだ。
それ以来、彼はことさらに私に優しくなった。私がここを嫌わないように。少しでも居心地がいいと思うように。
私を害するものを――害するかもしれないものをすべて排除して。
そして、2度目の転機が訪れた。
彼の留守を狙っての、なりふり構わない、捨て身の襲撃だった。
襲撃が知られた時点で死は確定している。それくらい、彼は敵に容赦がなかったし、それは周知の事実だった。……それでも、一矢報いたいという、悲壮なまでの覚悟だった。
私の首に剣を突き付け、それでもその剣を突き立てることが出来なかったその人は、彼によって殺されてしまった人の弟だと言った。
あまりに過激な、疑わしきを罰するようなやりように、一言異を唱えただけで殺された、と血を吐くような声音で言った。
――あんたが悪いんじゃないかもしれない。でもあんたのせいで、俺の兄貴は殺された。あんたがいなきゃ、あの人はこんなふうにはならなかった。無闇に血を流すような人じゃなかった。だから……
その言葉は最後まで聞けなかった。言葉の代わりに口から血を零して、その人は倒れてしまったから。
その胸には背中側から突き抜けた剣が生えていた。
見覚えのある剣だった。だって、それは彼が肌身離さず持っていたものだったから。
一緒に買い物に行ったとき、私が選んだものだった。剣のことなんて分からなかったけど、彼に似合いそうだな、と思ってそう零したら、彼はためらいなくそれを買った。
実用に耐えうるのか、使い勝手はどうなのか、そういうことを心配して口にすれば、彼は照れたように笑って言った。
『すごくいい品だよ。きっと使い勝手もいい。でも、普段使うんじゃなくて、お守りにしようと思うんだ。……そして、どうしても必要な時に、抜くよ』
視線を上げれば、息を切らせた彼の瞳とかち合った。
彼は血まみれだった。その血はきっと、彼と私に向けられた恨みを表しているのだと、思った。
『……たくさん、殺したんですね』
ほとんど無意識だった呟きに、彼は傷ついた目をした。
……それすら、私の罪なのだと、思った。
『……うん。殺した。こんなことにならないために、俺は君を守りたかったのに』
血に濡れた手を、彼は何かを堪えるように握りしめた。
『君は、俺を嫌う?』
『こんなにも血で汚れて、君を抱きしめるための腕なんて持ってなくて』
『……優しくしたいと思ってても、こうやって君を閉じ込める』
彼の視線が、格子の嵌った窓に向けられた。
見慣れてしまったそれには、何も思わなかった。ただ、目の前で息絶えてしまったその人が、それを目にして苦しげな顔をしたことを思い出した。
『そんな俺を、君は憎む?』
私は、答えられなかった。
彼をどう思ってるのかが、わからなかった。
心のどこかは、確かに彼を忌避していた。怖いとも、恐ろしいとも思っていた。
……でも、嫌うには、彼は私にあまりに優しすぎた。
何も言わない私に、彼は一歩近づいた。
じゃら、と鳴ったのは、彼が手に取った、私の足に繋がる鎖。
それを持ち上げて、彼はまるで口付けるように、唇で触れた。
『嫌っても、憎んでも、いいから。――お願いだ。俺の前から、いなくならないで』
それは、彼がただの一度も口にすることのなかった――本心、だったのだろう。
星に奇跡を請うような、そんな、……どうしようもない、祈りにも似た。
そして、私は。
そんな彼を、嫌うことも、憎むことも――拒絶することも、できなかった。
……それもまた、罪なのだと知っていたけれど。