友情の続き
「うん、まったく問題ないわね」
検査結果が記されたカルテから顔を上げ、女医の新庄が微笑む。
それで、ようやく風間隼人は胸を撫で下ろすことができた。
「ありがとうございました、先生」
「ふふ、礼には及ばないわ。それより、笠井さんとの約束は大丈夫?」
「おっ、そうだった。えっと次の検査は――?」
「大会前に一度来て頂戴。流石にロンドンまでついてはいけないし」
「わかりました。では」
新庄女医に会釈して、風間は診察室を後にする。
風間は腕時計を確認して進める歩を早めた。急がないと待ち合わせに遅れるかもしれない。日本国内で最先端の医療施設は、敷地がやたら広く取られており外に出るまでに15分はかかるのだ。
結局、急いで病院の敷地を出た時には乗るべきバスは出発しており、仕方なく風間はタクシーを拾って目的地へと向かった。「お、あんちゃん。見た顔だねえ」という運転手を曖昧に笑ってやり過ごし、待ち合わせ場所にたどり着く。
「いらっしゃいませ」
待ち合わせ場所の喫茶店に到着してみれば、相手はまだ来ていなかった。仕方なく風間は店員に待ち合わせであることを伝え窓際の四人席へと腰を下ろした。ショルダーバッグからノートPCを取り出し、ニュースサイトを開いて流し読む。
午後の柔らかい日射しが、窓から染み込んできていた。
眠気を感じ、風間はパソコンを閉じた。病院から急いで来たせいか、少しだけ疲れを感じる。
頬杖をついて、窓の外へ視線を向けた。
行き交う自動車をなんとなく視線で追い――
「隼人。――おい、隼人っ!」
その声で、風間は目を開いた。
どうやら、うたた寝をしてしまっていたらしい。
顔を上げると、すぐ横に黒髪の青年が立っていた。
青年は風間が意識を取り戻したことを確認すると、対面のソファに腰を下ろす。
「ああ、アキラか。久しぶり――、いや初めまして、か?」
「ははっ、あんまり初めてって気がしないけどね」
そう言いながら、アキラはバックパックからノート―PCを取り出す。
アキラは画面に視線を落として、
「よし、じゃあ【イグニスの間】からだな」
「おいおい、折角のオフ会なのにネトゲ始めるのか?」
「いいじゃんか。高校の友達はこういうの興味ないから、隼人としか出来ねえもん」
「……友達とは上手くいってんの?」
風間は単刀直入過ぎたかと思ったが、下手に気を遣うような関係でもない。
アキラも気にした様子もなく「ああ」と笑って返してきた。
「なんか今までと全然違うよ。なんか道が急に開けた感じ。ほんと、隼人のお陰だよ」
「俺は何もしてないだろ。一緒にゲームして、話してただけ」
「またまたぁ、謙遜しちゃって『超高校生級ランナー風間隼人』ともあろう御方が」
「それ関係ねえだろ」
「あるさ。僕にとって隼人は憧れだもん。ゲームでもリアルでも、さ」
「だからそれ買い被り過ぎだって」
「そんなことないよ。隼人が色々とアドバイスしてくれて、僕の愚痴を聞いてくれて、思いっきり頭ぶったたいてくれたお陰で、今の僕があるんだし」
「頭は叩いてなくね?」
「例えだよ、例え」
他愛の無い会話。ウェブ上で交わす会話となんら変わりない。
だが数ヶ月前のアキラはウェブ上ですら、こんな風に話すことはなかった。
人を恐れるように距離を置いているのが、PC画面を通しても伝わってきたのだ。普通、匿名性の高いウェブ上ではどんな人でも気が大きくなるものだが、アキラに関しては例外だったらしい。ずっと初心者エリアに留まっているアキラを画面を通じて見ていた隼人は、ほんの気まぐれで声をかけ、以来パーティーを組んでいる。
こんなに風間を慕ってくれる友人は現実にもいない。
「よし、ログインした? 始めようぜ」
PC画面を見たまま、アキラが急かす。
だが風間は、先に何か言うべきことがあるような気がしていた。
もう一人の自分が何かを急かしている。
「アキラ。――あのさ、」
「続きはウェブで聞くから。早くログインしちゃって」
急に景色が遠くなる。
口が動かなくなり、風景が色あせていき、動きが止ま――
ビクリと身体を震わせ、風間は『友人とのオフ会』の夢から覚めた。
ソファ席の対面には誰もいない。
当然だ。アキラと約束した日は、十年以上も前なのだから。
風間は今でも時折、ウェブ上で知り合った友人『アキラ』とのオフ会を夢に見る。
実際にはオフ会は行われなかった。
だから、夢に出てくる青年は風間の妄想の産物である。
夢の中のアキラは風間を『超高校生級ランナー』と呼んでいたが今は違う。あれから十年。色々あったが、今の自分は世界陸上に向けて調整を重ねるマラソンランナーだ。
だが風間は、そんな自分を誇れずにいた。
夢の終わりはいつも同じ。
風間が口を開こうとするとアキラに「続きはウェブで」と遮られ、そして何も言えずに目が覚める。
お陰で、今日も謝れなかった。
それでも、今日は長く話せた方だ。やはり十年前に約束した場所だからだろうか。後ろめたく感じて、この喫茶店にはずっと来れなかったのだが。今日だってコーチに場所を指定されなければ、ここに来ることはなかっただろう。
「あら、風間くんじゃない」
声をかけられ視線を上げると、新庄女医がいた。
風間はぎこちなく会釈をする。素の自分を見られてしまったようで恥ずかしかった。
「どうしたの? 待ちぼうけ?」
「ええ……まあ」
「じゃあ、ちょっと相席してもいい? 他に席が空いてなくて。待ち合わせの相手が来るまででいいから」
「構いませんよ。それに来るの笠井ですし」
新庄女医は「ああ、笠井さんね」と言いながら対面のソファに腰を下ろした。
風間のランニングコーチである笠井と、主治医である新庄は長い付き合いだった。風間がマラソンを続ける上で二人とは切っても切れない関係である。
「笠井さん、喫茶店なんか来るのね。なんか定食屋のイメージだったわ」
「アハッ、確かに。でも常連らしいですよ学生の時から」
「え? ……そんな昔からこの店あるの?」
「いやいや、笠井は若いですから。僕と同い年ですもん」
「え? じゃあ私と一つしか違わないの!? ……笠井さん、老け顔なのね」
「それ、本人には言っちゃダメです」
それよりも新庄女医が同世代という事が風間には驚きだった。高校の時に留学したとは聞いていたが、この分だと飛び級で大学を出たのではないだろうか。
「でも、笠井さんが遅れるなんて意外ね。いつも待たせるのは風間くんで、笠井さんはゴールで待つ方でしょう」
「まあ、たまには待つのも良いですよ。昔から人を待たせてばかりでしたから」
「昔から?」
「ええ。昔、友人との約束をすっぽかしちゃったことがありまして……」
あんな夢を見た後だからだろうか。
風間は普段なら誰にも口にしないことを話していた。
「昔、俺が高校の時に事故に遭ったことは知っていますよね」
それは、ごくありふれた交通事故だった。
だが、それは同時に風間の人生を大きく変えてしまうものでもあった。
マラソン選手の命とも言える右膝が、事故によって破壊されたのだ。
事故以降の生活は風間にとって地獄よりも辛かった。
それから数年後に新庄女医が研究し実用化した『破損した部位を培養し移植する』という再生医療が無ければ。そして手術以降のリハビリ生活を支えてくれた笠井が居なければ、今でも風間は車椅子で生活していただろう。こうして気軽に口に出すことも出来なかったはずだ。
「その事故の日に、会うはずだったんですよ、友達と」
「そうなの……。でも、事故なら仕方ないじゃない。また退院した後で会えば――」
「それが出来なかったんです」
「どうして?」
「その友人というのがウェブ上のゲームで知り合った人で、実際に会うのはその時が初めてだったんです。お互いの顔も住所も知らなかったし」
「連絡も取れなかったの?」
「……今でも後悔してるんですよ。あの時、俺は『もう二度と走れない』って事で頭がいっぱいで、誰とも話したくなくて。あいつは『ずっと僕は待ってるからな』ってメールくれてたのに、それも無視してしまって」
「…………」
「気づいた時にはネットゲーム自体がサービス終了していて。――それきりです」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
新庄女医が気まずそうに、注文していたコーヒーを口に運ぶ。
沈黙が流れる。やけに店内のBGMが大きく響いた。
「――もしかしたら」
ふと、新庄女医がコーヒーカップをソーサーに置きながら口を開いた。
「その友達は、今もこの喫茶店に通っているかもしれないわね」
「え?」
思わず新庄女医の顔を見る。そんな風間に新庄女医は優しく微笑むだけだった。
「じゃあ、そろそろ行くわ。笠井さんも来る頃だろうし」
「そんな、会っていけばいいじゃないですか」
「邪魔しちゃ悪いわ。笠井さんによろしくね」
それだけ言い残して、新庄女医は喫茶店を後にした。
やはり、あんな話はすべきでは無かっただろうか。
風間が気にしている間に、入れ替わるように笠井がやってきた。
「おお、隼人。待たせたな」
笠井はスッとソファ席に腰を下ろし、ノートPCを取り出す。
その姿を見て、ふと、先ほどの新庄女医の言葉が頭をよぎった。
この喫茶店を選んだのは笠井。
ずっと昔からの常連。
もしかして、
「笠井って、ネットゲームとかする?」
気づくと風間はそう口にしていた。
パソコン画面を見ていた笠井が、顔を上げる。
少し考えるような表情。
そして、
「――いや、全然」
「……そうか」
「なんだガッカリして。してないと駄目なのか?」
「いや、そうじゃないんだ。気にしないでくれ」
馬鹿な考えだったな。風間はそう自嘲する。
もしかしたらと思ったのだが、世の中そんなに甘くはない。
そもそも理由も言わずに一方的に縁を切ってきた人間を、陰ながら支えてくれてたなんて虫が良すぎる考えだ。
「おう、そういえばそこで新庄先生に会ったぞ」
「ああ、さっきまで話してたよ」
「なんだ、じゃあ自分で渡せば良かったじゃねえか」
「ん? 何を」
「これだこれ」
そう言って風間が渡されたのは、新庄女医の名刺だった。
何気なく裏返すと、走り書きが残されていた。
その意味を理解して、風間は慌てて表に書かれた名前を見る。
――新庄晶子――
「ああ、そういえば新庄先生はネットゲームとかするらしいな」
笠井の言葉が、風間の耳に届く。
「それ、いつ聞いたんだ?」
「この前。新庄先生もここの常連らしくてな、会った時に聞いたんだよ」
それで、全てが繋がった。
「……だから『アキラ』だったのか」
「は?」
「いや……たまには世の中、甘いこともあるんだなって」
そう笑って、風間は走り書きが残された名刺をテーブルに投げ出す。
走り書かれた、ネットゲームのタイトル。
その下には奇しくも、夢で聞いた言葉と同じ台詞が記されていた。
――10年越しの大遅刻だな
続きはWEBで――
【おわり】
「友情の続き」は楽しんで頂けましたでしょうか。
少しでも有意義な時間を提供できたのであれば幸いです。
この作品は過去に「オチの言葉」というテーマでお題を募集した際に頂いた「続きはWEBで」というお題で書いた習作になります。
僕の別の作品を読まれた方は、気付かれるかもしれませんが、構成方法がとある僕の作品と似ております。この構成方法を使いこなせるだろうかと考えて、あえて同じ構成で書かせて頂きました。
それでは、僕の作品をお読み頂きありがとうございました。