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matataki

穏やかだった沈黙〜続・またこの食卓で繰り返されるのではないか

作者: 大橋 秀人

瞬くと、食卓に置かれたグラスの氷がカラリと崩れた。

二人は同時にその微かな音に反応して、安堵と共に一つ、溜め息をもらす。朝から降り続いている雨は、部屋中に広がった沈黙の濃度を確かに高めていた。

「今日はコールドゲームになりそうだな」

 春人はテレビに視線を向けながらそう言う。野球中継はベンチで談笑する野手達や、固まって動かない監督などを交互に映している。すでにプレーは三十分ほど中断されていた。

「このまま終わったら、勝ち負けはどうなるの?」

 特別に興味のない問いを美奈子は無理にする。その後に続く沈黙に怯えながら。

「今は四回裏だから、このままいったらノーゲーム、無効試合だな」

「だからあのピッチャー、一人だけ真剣な顔しているのね」

 初回から打ち込まれた先発ピッチャーは、一つの負けが帳消しになるよう祈りを込めて天を仰いでいるようだった。ライトに照らされた夜空に無数の雨粒が映し出される。グラウンドの水溜りが徐々に面積を広げているようだった。アナウンサーの実況が空しく部屋に響く。訪れるであろう沈黙に、二人とも抗うことができない。

「じゃあ私、お風呂に入ってくるね」

 普通を装って美奈子は席を立つ。逃げるような足取りに春人は気づいてしまう。その不自然さに彼は失望を抱いた。

 この人とやっていくと決めて一年、彼なりに誠実に接してきたつもりだった。しかし彼女はふとした瞬間にぎこちない雰囲気を見せていた。そんなとき、春人は決まって深い失望感を抱いた。そして自分の軽率さをその都度、改めて後悔するのだった。

「なあ、ここに座ってくれよ」

 風呂から出た美奈子がなかなか椅子に座らず、業を煮やした春人がそう促した。彼女は食卓を包む沈黙にうんざりしていた。どうして私がこんな想いをしなければならないのか。その後に続く、春人が悪いのに、という言葉をここのところ飲み込むことが多くなった。

「なあに? それより、先にお風呂に入ってくれば?」

 テレビに視線を向けるが、それはだいぶ前に消されていたようだった。グラスや食器類も綺麗に片付けられ、見慣れた木目調の、少し草臥れた食卓がそこにあるだけだった。

「話があるんだ」

 その言葉に、美奈子は肩を竦める。幾度となく繰り返されてきた話がまた今夜なされ、同じ結論へ達していくのだと半ば諦めて椅子に腰を下ろした。浮気についての話し合いは、二人の間で何度もなされた。その度にお互いがお互いの意思を確認しあい、今に至っているのだ。正直、美奈子は春人にうんざりしていた。それに、たった一度の浮気をずっと引きずっている自分にも。頭では許せても、体の奥底で湧き上がる拒否反応を押さえ込むことがどうしてもできなかった。だからといって別れを意識したことは一度もなかった。もし現状が惰性で付き合っているのだとしても、もはや美奈子には春人以外に異性を見るという感覚がなくなっていた。彼と別れ、一人になることのほうが彼女には怖いことのように思えた。

「俺はわかっているんだ。君がどうしても俺を許せないで苦しんでいることを」

 自分も苦しげに春人は言う。

「浮気してしまって、そんな俺を責めないでくれた時、俺は君とずっと一緒にいようって決めたんだ。この問題を乗り越えて君のわだかまりが本当の意味で晴れた時、プロポーズしようって決めていた」

 愛おしそうに食卓を撫でながら春人は二人で過ごした年月を想う。

「でも君は、どうしても俺を許せないで、それで今まで苦しんできた。その苦しみを分かち合いながら一緒に暮らしていくことも考えたんだ」

「ええ、私もあなたと暮らしていく中で、少しずつこのわだかまりが薄れていくものだと思っていたわ」

「でも、苦しみを抱えたまま生きていくことは、あまりにも酷なんじゃないかと思うようになった」

 ハッとして顔を上げた美奈子の視線を春人はしっかりと受け止めた。彼の顔には決心が色濃く滲んでいた。

「毎日繰り返される、静かで、穏やかだった君との食卓が、いつしか息の詰まるものになっていた。それはきっと、君も同じだったんじゃないか」

 その問いを美奈子は否定できなかった。

「悪いのは俺だ。それを否定する気はない。全部おれが悪い。償う気持ちもある。でもそれが、必ずしも一緒にいることではないと思うんだ」

「別れるってこと?」

 消え入りそうな彼女の呟きに、春人は肯いた。

「そうすることが今の二人には、良いことなんだと思う」

 春人は席を立ちながら言った。

「私を一人にするの?」

「もう苦しんでほしくないんだ」

 背中に浴びせられた言葉を、彼はそんな言葉で振り払った。

「君が幸せになることを祈っているよ」

 去り際に彼は心を込めてそう言った。

 雨が降りしきる中、静けさはより濃度を上げていく。咽び泣く美奈子は、嗚咽と共に寂寥の想いを吸い込み、安堵の想いを吐き出した。

 繰り返された食卓の風景が、明日はもう続かないのだ。静かで、心穏やかな生活が、一つ、幕を下ろした。

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