第5話 泣いてる獣人を見捨てるほど落ちぶれちゃいねえ
夕方の空は、薄く赤く染まり始めていた。
ギルド裏手の訓練場を出た龍真とミアは、ひとまず人目を避けて町外れの安宿へ身を寄せていた。
といっても、まともな宿ではない。裏通りの外れにある木造二階建ての古びた宿で、壁はところどころ軋み、床板も頼りない。だが金さえ払えば、身元を根掘り葉掘り聞かれずに泊める程度の融通はあるらしい。
龍真は狭い部屋の中で椅子代わりの木箱へ腰を下ろし、手にした干し肉を噛みながら黙っていた。
対面のベッドに腰掛けたミアは、膝の上で両手を握りしめたまま、言葉を探している。
さっきエレオノーラから聞かされた話。
闇オークション。
数日以内。
ミアの姉ノアが、そこへ出されるかもしれない。
時間がない。
だが、だからといっていきなり突っ込むほど龍真は馬鹿じゃない。相手の数も、町の構造も、どこまで誰が絡んでいるかも分からねえまま動けば、救えるもんも救えなくなる。
だからこそ、まずは話を聞く必要がある。
「……ミア」
「は、はい」
「最初から、順番に話せ」
少女の肩が小さく震える。
「村がどう襲われたか。姉さんがどう連れていかれたか。知ってること全部だ」
ミアは少し俯いた。
耳が下がり、尻尾の先がかすかに揺れる。思い出したくない記憶を無理に掘り返す顔だ。
龍真は急かさない。
ただ待つ。
やがてミアは、細い声でぽつりと話し始めた。
「……私たちの村、町から少し離れた森のそばにありました。小さな村で……獣人ばかりじゃなくて、人間も少しいて……」
「人間もいたのか」
「はい。みんな、そんなに仲がいいってわけじゃなかったけど……でも、一緒に畑をやって、狩りをして、冬を越して……それが普通だと思ってました」
そこでミアの唇が少し震える。
「襲われたのは、三日前の夜です。村の外れから急に火が上がって……叫び声がして……最初は魔物だと思いました。でも、違ったんです」
龍真は黙って聞く。
「人でした。剣を持ってて、松明を持ってて、顔を布で隠してる人もいて……でも、全員じゃなかった。笑ってる人もいたんです。村を燃やしながら……」
ミアの声がかすれる。
「男の人たちは抵抗しようとしました。でも、相手の方が人数も武器も多くて……。私、母さんに逃げろって言われて……姉ちゃんと一緒に裏の森へ走りました」
「それで、はぐれたのか」
「……いえ」
ミアは首を振る。
「追いつかれたんです」
小さな拳が、ぎゅっと握られる。
「姉ちゃんが、私を庇いました。『ミアは走れ』って……『振り返るな』って……。でも、私……振り返っちゃって……」
龍真は息を殺した。
こういう話は、慰めの言葉を挟むと、かえって相手の喉を塞ぐことがある。
「姉ちゃん、二人に押さえつけられて……それで、私の方を見て、笑ったんです」
ミアの目に、涙が浮かぶ。
「“大丈夫”って顔して……でも全然大丈夫じゃなくて……なのに、私、走るしかなくて……」
ぽたり、と涙が落ちた。
「……私だけ逃げて……」
「そいつは違う」
龍真が低く言った。
ミアがはっと顔を上げる。
「お前の姉さんは、逃がすために残った。だったら走ったのは間違いじゃねえ」
「でも……!」
「その場で一緒に捕まってりゃ、今こうして助けに行く奴もいなかった」
龍真の声は強くない。
だが、まっすぐだった。
「生きて逃げたから、今がある」
ミアの喉が詰まる。
涙がまたこぼれたが、今度は少しだけ違う涙だった。
「……はい」
「で、姉さん以外に連れていかれた奴は」
「何人も……。子どももいました。若い女の人も……年上の人も……」
「見張りは何人だった」
「その時は……十人、もっといたかも……。それに馬車が三台……」
龍真の目がわずかに細くなる。
ただの場当たり的な襲撃じゃない。最初から“回収”する人数と運搬の手段が整っている。村を襲って、使えそうな獣人をまとめて攫う。手慣れている。
「襲ってきた連中に、印みてえなもんはあったか」
「印……」
「商会の紋でも、服の刺繍でも、馬車の刻印でも何でもいい」
ミアは一生懸命に思い出し、それから小さく頷いた。
「馬車に……黒い鳥みたいな印がありました」
「鳥」
「はい。翼を広げてるみたいな……でも、頭が二つあったような……」
双頭の鳥。
龍真は頭の片隅にそれを刻み込む。
話を聞き終えたあと、部屋の中にはしばらく沈黙が落ちた。
窓の外では、裏通りを歩く人間の足音と、どこかの酒場から漏れる笑い声が微かに聞こえる。
龍真は木箱から立ち上がった。
「行くぞ」
「えっ」
「腹が減ってるだろ。まず食わせる」
ミアは目を丸くする。
「で、でも……お金、大丈夫なんですか」
「心配するな。さっき沈めた奴らの財布から少し借りてきた」
「借りたって言い方でいいんですか、それ……」
「細けえことは気にするな」
真顔で返され、ミアは少しだけ困ったように笑った。
さっきまで泣いていた顔に、ようやく少しだけ色が戻る。
宿を出て、二人は裏通りの小さな食堂へ入った。
町の中心からは外れているせいか、客は少ない。年寄りの夫婦がやっている店らしく、店主は龍真の風体に一瞬ぎょっとしたものの、金を見せるとそれ以上は何も言わなかった。
出てきたのは、薄いスープと黒パン、香草で煮た肉、それから豆の煮込み。
質素だが、森の中で口にした干し肉よりずっとましだ。
ミアは最初遠慮していたが、ひと口食べると目を見開いた。
「……おいしい」
「だろうな」
「こんなちゃんとしたご飯、三日ぶりです……」
「そんな顔してる」
龍真もスープを口に運ぶ。
味は薄いが悪くない。異世界の食い物にも多少慣れる必要があるだろう。
その時、店の入口の方で小さな声がした。
「……あっ」
振り向くと、そこにいたのはリリィだった。
ギルドの受付嬢。
勤務を終えたのか、制服の上に簡素な上着を羽織っている。手には紙袋を提げていて、中からはパンの匂いがした。
彼女は龍真と目が合った瞬間、明らかに逃げようか迷う顔をした。
だが、ミアの姿も見て、結局そろそろと店の中へ入ってくる。
「あ、あの……こんばんは」
「よう」
龍真がいつも通り低く返すと、リリィはびくっとする。
だがすぐに、自分を落ち着かせるように息を吐いた。
「その……昼間は、ありがとうございました。ギルドで騒ぎになった時、あの三人、前からずっと迷惑で……でも誰も強く言えなかったので……」
「礼を言われる筋じゃねえ」
「で、でも……」
リリィは言い淀み、それからミアを見る。
怯えた目をしていないことに、少しほっとした顔をした。
「その子……ちゃんと食べてるんですね」
「今な」
龍真が答える。
リリィは少し迷ったあと、持っていた紙袋から丸パンを二つ取り出した。
「これ……余ったので。よかったら」
「余った顔じゃねえな」
「うっ……」
図星らしく、リリィが目を逸らす。
「た、たまたまです! 本当にたまたま、少し多めに買ってしまっただけで……!」
「そうか」
龍真はそれ以上は言わず、パンを受け取ってミアの前に置いた。
「食えるか」
「は、はい!」
ミアは慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます、リリィさん……!」
「い、いえ……!」
そう答えながら、リリィは少しだけ頬を赤くする。
受付では緊張で固まっていたが、こうして見ると気立てのいい娘だ。
龍真がパンをちぎってスープへ浸し、何気なく隣の席を見ると、店の隅に痩せた子どもが一人座ってこちらを見ていた。孤児か何かだろう。店主夫婦の孫ではない。服があまりにくたびれすぎている。
子どもはパンをじっと見ていたが、龍真と目が合うと、慌てて顔を逸らした。
龍真は黙って立ち上がり、リリィから受け取ったパンの片方をその子の前へ置いた。
「食え」
子どもはぽかんとする。
「で、でも……」
「見てただろ」
「……」
「腹減ってる時の目は分かる」
子どもはしばらく固まっていたが、やがておずおずとパンへ手を伸ばし、小さく「ありがとう」と言った。
その光景を、リリィがじっと見ていた。
怖い。
でも優しい。
それもわざとらしい優しさじゃない。困ってる子がいたら当たり前みてえに食い物を置く、そういう自然な振る舞いだった。
ミアが誇らしそうに耳をぴんと立てる。
「龍真さん、そういうとこです」
「何がだ」
「怖いのに、やることが優しいとこ」
「怖いは余計だ」
「だって最初ほんとに怖かったですもん」
「今は?」
龍真が聞くと、ミアは少しだけ笑った。
「……ちょっとだけ、怖いです」
「そうか」
龍真が真顔で頷く。
リリィはそのやり取りを見て、思わずくすりと笑った。
それから彼女は周囲を見回し、誰もこちらを聞いていないことを確かめると、声を潜めた。
「……あの、昼間の帳簿の話ですけど」
龍真の目が静かに向く。
「何か知ってるのか」
「ちゃんとは、分からないんです。でも、最近ギルドの数字が変なんです。表の依頼書には出てこない荷運びや護衛の記録が、裏の帳面だけ増えていて……」
「どこへ運んでる」
「南倉庫です。表向きは商会の物資保管庫。でも、納品数と搬出数が合わないことが多くて……」
ミアの表情が固くなる。
「やっぱり……」
「ただ、私が全部見られるわけじゃありません。帳簿は途中から上の人たちが持っていってしまうので……」
「上ってのはギルドか、領主側か」
「……両方、かもしれません」
リリィの声は震えていた。
言ってはいけないことを言っている自覚があるのだろう。
「エレオノーラさんも、何か探ってるみたいです。でも、あの人が動くと、すぐ上から横槍が入るんです。守備隊長とか、領主の側近とか……」
「妨害されてんのか」
「はい。今日は昼間も、ギルドに来る前に領主館へ呼ばれたって聞きました」
龍真は黙っていた。
上司、領主側近、ギルド。全部がどこかで繋がっている。個人の悪意だけじゃこうはならない。町そのものが、仕組みとして腐っている。
「……根が深えな」
小さく呟いたその一言に、リリィもミアも黙った。
そこへ、食堂の扉が開く音がした。
振り向けば、エレオノーラが立っていた。
鎧は外していたが、帯剣はしている。仕事帰りというより、まだ仕事の延長だ。
彼女は龍真たちとリリィを見て、一瞬だけ目を細める。
「……珍しい顔ぶれですね」
「偶然だ」
龍真が言うと、リリィが明らかにぎくっとした。
たぶん偶然じゃない。
エレオノーラはその反応で大体察したらしいが、追及はしなかった。代わりに近くへ来て、低い声で言う。
「あなたの言う通りでした」
「何がだ」
「上が腐っている可能性です」
ミアとリリィが息を呑む。
「守備隊長へ倉庫の監査を提案しました。ですが即座に却下されました。それだけならまだしも、領主側近の一人から“余計なことに首を突っ込むな”とまで言われた」
「へえ」
「しかも、その側近は今日、南倉庫の鍵の管理記録を回収しています。本来なら守備隊の管轄も一部入るはずなのに、です」
「つまり黒だな」
「状況証拠としては、かなり」
エレオノーラの顔には怒りが滲んでいた。
騎士として法を守る側に立ってきた女だからこそ、法を私物化する上の連中への嫌悪は強い。
「今夜、動きます」
彼女ははっきり言った。
「南倉庫を見張る。正式な手続きは踏めませんが、現場を押さえれば言い逃れはできない」
「一人で行く気か」
「本来なら、守備隊を使うべきです。ですが信用できる部下が限られています」
龍真はスープを飲み干し、立ち上がった。
「なら俺も行く」
「あなたを公的に協力者と認めたわけではありません」
「知ってる」
「……それでも来ると?」
「泣いてる獣人を見捨てるほど、落ちぶれちゃいねえ」
店の中が少しだけ静かになった。
リリィが息を呑み、ミアは目を潤ませる。エレオノーラだけが、まっすぐ龍真を見ていた。
「危険です」
「分かってる」
「相手は武装しているでしょう」
「だろうな」
「町の有力者も絡んでいます」
それでも龍真は表情を変えない。
「だからどうした」
短い返答。
だが、そこに迷いは一片もなかった。
エレオノーラは数秒黙り、それから諦めたように息を吐いた。
「……好きにしなさい。ただし、私の指示を無視して突っ走ったら今度こそ拘束します」
「善処する」
「その答えは信用できません」
「だろうな」
龍真が真顔で返し、リリィが思わず吹き出す。
緊張の中に、少しだけ人の空気が戻る。
夜が完全に落ちる頃、四人は南倉庫近くの路地へ移動した。
町の南端。
表通りから外れた荷運び区域。昼間なら商会の馬車や荷車が出入りする場所だろうが、夜は人通りがほとんどない。代わりに倉庫群が並び、ところどころに見張りの灯りが見える。
リリィはギルドで見た帳簿から、おおよその時間を割り出していた。
エレオノーラは裏手の見張り位置を把握している。
龍真は物陰から建物の配置と人の動きを見ていた。
ミアは息を潜め、ただひたすら目を凝らしている。
「正面に見張り二人。裏に一人。倉庫自体はあれか」
龍真が小さく言う。
「ええ」
エレオノーラも囁き返す。
「表札は穀物倉庫。ですが夜に護衛を増やす必要のある倉庫ではありません」
「馬車は?」
「まだ来ていません」
しばらくは静かな時間が続いた。
遠くで犬の吠える声。
どこかの酒場から聞こえる笑い声。
夜風が倉庫街の隙間を抜けていく。
その時、ミアがびくっと身体を震わせた。
「……来た」
全員の視線が通りの奥へ向く。
暗がりの向こうから、幌付きの荷馬車が二台、音を立てずに近づいてくる。車輪には布でも巻いてあるのか、妙に静かだ。周囲には武装した護衛が歩いている。
龍真の目が細まる。
「荷運びにしちゃ厳重すぎるな」
「ええ」
エレオノーラの声にも緊張が混じる。
馬車は南倉庫の前で止まった。
護衛の一人が倉庫の扉を叩き、中から別の男が開ける。短いやり取りのあと、荷台の幌がめくられた。
そこにいたのは、俯いたまま座らされた人影たちだった。
獣耳。
痩せた肩。
手を縛られた子ども。
うつむいた女たち。
ミアの喉がひゅっと鳴る。
「……っ」
荷馬車から一人ずつ引き下ろされ、倉庫へ連れていかれていく。
獣人。
亜人。
みな商品として扱われている。
龍真の顔から表情が消えた。
怒りが底の方で静かに燃え始める。
その列の中に、少し年上の獣人の少女がいた。
茶色の耳。
肩までの髪。
やつれた横顔。
それでも、ミアとよく似た面差し。
ミアが震える声で、ほとんど悲鳴のように囁いた。
「……姉ちゃん」
龍真も、エレオノーラも、リリィもその声に息を呑んだ。
間違いない。
護送される奴隷の列の中に、ミアの姉らしき少女の姿があった。




