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第36話 流れ者、社交界で噂になる

王都の噂は、下町と貴族街で形を変える。


 下町では酒と一緒に回る。

 誰が消えた、誰が殴られた、どこの倉庫が怪しい、どこの役人が腐ってる。

 怒りや恐れや嘲りが、そのままの温度で卓を渡る。


 だが上流では違う。

 香茶と菓子と笑顔の間を、噂はもっと薄く、もっと丁寧に、そしてもっと悪質に滑っていく。


 龍真たちがそれを思い知ったのは、王女セレスティアとの会談から二日後の午後だった。


 《三つ足カラス亭》の二階。

 昼間だというのに、部屋の空気は妙に張っている。

 机の上には帳簿、荷札、王城で書き留めた勢力図の走り書き、地下市場で見た顔ぶれの整理、そしてカティアが持ち込んだ社交界の名簿めいた紙束まで広がっていた。


 その中央で、カティア・ローゼンフェルトが机に肘をつき、こめかみを押さえている。


「……最悪だわ」


 珍しく、侯爵令嬢の顔ではなく、本気で頭を抱えている女の顔だった。


 ミアが向かいから身を乗り出す。


「何が?」

「何もかもよ」

「ざっくりしてる」

「ざっくり言わないと腹が立つの」


 カティアは深く息を吐き、それから卓の上の紙を一枚はたいた。


「王都の上流で、もうあなたの噂が完全に独り歩きし始めてる」

「俺の?」

 龍真が言う。

「あなた以外に誰がいるのよ」

「知らねえよ」

「ほんとに自覚が薄いのね……」


 ノアが苦笑する。


「どんな噂?」

「いくつかあるわ」


 カティアは指を折った。


「一つ。“王女殿下をたぶらかした黒髪の流れ者”」

「言い方が最悪だな」

「二つ。“獣人を侍らせて動く下町の危険人物”」

「もっと最悪」

 ミアが即座に頬を膨らませる。

「侍らせてないし!」

「分かってるわよ。でも噂ってそういうもの」

「三つ目は?」

 エレオノーラが冷静に訊いた。


 カティアは少し嫌そうな顔になった。


「“礼儀だけは妙に整っている得体の知れない男”」

 部屋が少し静かになる。

 リリィが小さく言った。


「……それ、一番正確では?」

「正確だけど嫌」

「俺もそう思う」

 龍真が真顔で言う。

「いやそこは嫌がるんだ……」


 カティアはさらに続けた。


「他にも、“王城へ入り込んだ正体不明の地方者”“王都ギルドの裏を嗅ぎ回る黒髪”“地下市場の件に関わったかもしれない危険分子”……」

「危険分子って、だいぶ言い切ってるわね」

 ノアが呟く。

「ええ。問題はそこなの」


 カティアの目が細くなる。


「ただ変な噂になってるだけじゃない。“そういう人物として印象づけたい”流れがある」

「公爵家側か」

 龍真が低く言う。

「ほぼ間違いないわ」


 エレオノーラも頷く。


「王城の私的協力者であることが知られた以上、向こうは龍真を“王女殿下に近づいた得体の知れない男”として見せたい。そうすれば、地下市場の件そのものより先に、龍真個人の危険性が話題になる」

「王都らしいやり方ですね……」

 リリィが顔をしかめる。

「中身じゃなくて、印象を先に汚すんだ……」

「上流ほどそうよ」


 カティアが即答する。


「正面から“地下市場がありました”と認めるより、“あの黒髪の流れ者が王女へ妙な影響を与えている”って話にした方が、表では処理しやすいもの」

「面倒くせえな」

「ええ、とても」


 龍真は窓の外を見た。

 王都の午後は穏やかだ。

 表通りには高価な馬車、香油の匂い、笑顔の商人、よく磨かれた靴。

 だがその見え方の裏で、すでに自分の噂が好き勝手に加工されている。


 怒る気にはならなかった。

 むしろ、分かりやすいとすら思う。


「結局、向こうも怖いんだろ」

「何が」

 ミアが聞く。

「王女が地下市場を見たことと、俺らが帳簿持ってることだ」

「だから、先に龍真さんの印象を悪くする?」

「そういうことだ」


 エレオノーラが少しだけ目を伏せた。


「王都では、真実より先に“誰が言っているか”が問題になることがあります」

「嫌な街だな」

「何度目の感想ですか」

「何度でも言う」


 その時、下の階から女将の声が響いた。


「おい、カティア嬢ちゃん! あんたんとこの使いが来てるよ!」


 カティアが眉を寄せる。


「……こんな時に」

「帰るのか?」

 龍真が訊く。


 カティアは立ち上がりかけて、少しだけ迷う顔をした。


「帰るというより、顔を見せないと向こうがうるさいの」

「侯爵家ってのも大変だな」

「ええ。とても」


 彼女はそう言って外套を羽織り、部屋を出て行った。


 しばらくして戻ってきた時、その顔はさっきまでよりさらに険しくなっていた。


「決まりね」

「何が」

 リリィが聞く。


「公爵家側、完全にあなたを“社交界の異物”として流し始めてる」

「何か言われたのか」

「うちの家令が、わざわざ遠回しに聞いてきたの。“最近、王女殿下のまわりに妙な男がいるそうだが、ローゼンフェルト家はご存じか”って」

「早いですね」

 エレオノーラが言う。

「ええ。しかもその言い方がいやらしいのよ。断定はしない。けれど、“もう話題になっていますよ”って空気だけは伝えてくる」

「……」


 カティアは一枚の小さな紙片を卓へ置いた。


「ついでに、今日の昼茶会の招待客名簿を見せてもらったら、ゼルヴァイン公爵家の遠縁と、王都ギルド監査役の妻、それからロートベル商会と懇意の婦人が同席してた」

「つまり」

「女の噂網も、もう向こうが動かしてる」


 王都の上流社会は、男だけで回っているわけではない。

 茶会、舞踏会、寄付会、慈善会。

 そこに集まる婦人たちの会話が、時には役人の正式文書より早く、鋭く、そして執拗に広がる。


「社交界で無視されるより、変な噂で有名になる方が厄介よ」


 カティアの声は重かった。


「無視なら、まだこちらが静かに動ける。けれど“危険な流れ者”として有名になれば、王城に出入りしただけで目立つし、王女殿下と接触するたびに話題になる」

「それってつまり……」

 ミアが言う。

「どこに行っても見られるってこと?」

「そう」

「やだなあ」

「私も嫌」


 ノアが素直に同意した。


 リリィは帳簿を抱えて考え込む。


「でも、悪いことばっかりでもないんじゃないですか」

「どういう意味?」

 カティアが見る。


「えっと……その、向こうが印象操作したいくらいには、龍真さんってもう王都で無視できない存在になってるってことですよね」

「……」

「ほら、最初は下町のよそ者だったじゃないですか。でも今は、社交界でわざわざ話題にするくらいには“邪魔”なんだって」

「珍しくいいこと言うな」

 龍真が言う。

「珍しくは余計です!」


 だがカティアも、その指摘には少しだけ目を細めた。


「……そうね」

「え?」

「悔しいけど、その通りでもあるわ」


 彼女は椅子へ深く座り直した。


「王都の社交界は、本当にどうでもいい相手の噂なんて広げない。わざわざ“危険だ”“異物だ”って印象を作るのは、放置できない相手だからよ」

「だったら上等だ」

 龍真が言う。

「ええ。そう返すと思ってた」


 エレオノーラはやや厳しい目で龍真を見る。


「ただし、気をつけてください」

「何をだ」

「これから王都であなたが何をしても、“やはり危険人物だった”と結びつけられやすくなります」

「面倒だな」

「ええ。ですが、ここからは表社会との戦いでもある」

「地下を壊しただけじゃ終わらねえってことか」

「そういうことです」


 部屋に、少し重い沈黙が落ちる。


 下町の闇を暴く。

 王女を救い出す。

 地下市場を壊す。

 そこまでは比較的分かりやすい。敵は地下にいて、悪事は目に見えた。


 だが、ここからは違う。

 貴族の笑顔。

 宮廷の言い回し。

 茶会の噂。

 善意を装った忠告。

 そういう“表の武器”まで相手にしなければならない。


 龍真は、それが一番面倒だと思った。


「カティア」

「何」

「社交界ってのは、みんなああいう回りくどい言い方するのか」

「ええ」

「嫌いだな」

「知ってるわ。でも、そこを読めないと足元をすくわれる」


 カティアはそこで少しだけ真顔になる。


「だから教える。あなたが王城へ呼ばれたことで、王都の上流はもう“龍真という名前”を知り始めてる」

「それはさっき聞いた」

「名前だけじゃない。立ち位置も」


 彼女は指先で机を叩いた。


「下町の危険人物。獣人を庇う異物。王女の近くへ入り込んだ流れ者。礼儀は妙にあるのに出自が怪しい男」

「だいぶ好き放題だな」

「社交界ってそういうものよ」


 そして、少しだけ口元を歪める。


「でも逆に言えば、今の王都であなたは“誰もが少し気にする男”になったの」

「嬉しくねえな」

「褒めてないもの」

「だろうな」


 その日の夕方、王都の空は薄く曇っていた。


 龍真が一人で表通りへ出ると、やはり視線を感じる。

 下町の人間の視線とは違う。

 値踏みと警戒。

 そして“あれがそうか”という好奇。


 香木屋の前で立ち話していた二人の上品な婦人が、龍真を見るなり扇の陰で何か囁く。

 通りの向こうでは、役人風の男が一度立ち止まり、すぐに目を逸らす。

 さらに別の角では、王城に勤めていそうな若い侍女が、こちらを見てから早足で消えていった。


 噂は、本当に回っているのだ。


「……面倒だ」


 低く呟く。


 だが、今さら引く気はない。


 王都の上流がこちらを危険視し始めた。

 それはつまり、王都の闇を壊した一撃が、ようやく地上の柔らかい場所にも痛みとして届き始めたということだ。


 嫌われるのは結構。

 怖がられるのも構わない。

 ただ、筋の通らねえ話を嫌う人間がここにいると、向こうへちゃんと伝わっているなら、それでいい。


 龍真は空を見上げた。


 曇り空の向こうに、王城の白い塔がぼんやり見える。

 その下で、王都の噂は今日も静かに回り続けている。


 そしてその中心へ、黒髪の流れ者の名が、少しずつ、本格的に混ざり始めていた。

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