第34話 王城の中にも、見て見ぬふりがある
王城外宮の一室に差し込む朝の光は、あまりにも穏やかだった。
白い壁。
磨かれた床。
庭から吹き込むやわらかな風。
鳥の声すら、王都の他の場所より上品に聞こえる気がする。
だが、その静けさが逆に不気味だった。
昨夜、王都の地下では人が売られていた。
檻に詰められ、値踏みされ、王女までもが“白百合”の名で囲われていた。
それだけのことが起きていた翌朝にしては、この王城は綺麗すぎる。
龍真は椅子に深く座ることなく、背を少し起こしたままセレスティアを見ていた。
王女は先ほどまでの“礼を返す人間”の顔から、今度は“王城の中で戦う人間”の顔へ切り替わっている。
強い。
だが、その強さだけで王城を動かせるなら、そもそも地下市場へ一人で潜る必要もなかったはずだ。
龍真は低く言った。
「で、誰が敵なんだ」
その問いに、部屋の空気が少しだけ張った。
セレスティアはすぐには答えない。
慎重に言葉を選んでいるのが分かる。
だが、曖昧に誤魔化すつもりもないらしい。
「敵、という言い方は少し乱暴ですが」
そう前置きしてから、彼女は机上の紙へ視線を落とした。
「王城の中で、今回の件に関わる立場は、大きく分けて四つあります」
「さっき言ってたやつか」
「ええ」
王女は指先で、簡単に記された図をなぞる。
「一つは父上――国王陛下の直轄に近い筋。古くから王家を支える家令、近衛、政務官の一部。ここは基本的に王家そのものの安定を第一に動きます」
「味方じゃねえのか」
「味方であることと、すぐ動けることは別です」
セレスティアは静かに言った。
「父上は、王都全体の均衡を見ています。商会、貴族、軍務、地方領主、それらを一気に揺らせば国そのものが不安定になる。たとえ地下市場の件が許せなくても、証拠と手順なしに公爵家へ斬り込むことはできません」
「王様も面倒だな」
「王とはそういうものです」
「不便そうだ」
「ええ。不便です」
あっさり認められて、龍真は少しだけ口元を歪めた。
王という立場は強い。
だが、強いからこそ簡単には動けない。
それは任侠の世界で見た“上に立つ者”の不自由さと、どこか似ていた。
セレスティアは続ける。
「二つ目は王妃派です」
「王妃派?」
ミアが小さく聞き返す。
王城の用語にまだ慣れていない顔だ。
カティアが横から補足した。
「王妃殿下を中心に、王家の体面と宮廷の秩序を最優先にする人たちよ。表向きの安定を重んじるから、騒ぎそのものを嫌う」
「騒ぎを嫌うだけなら、別に悪くないんじゃ……」
「それで済めばね」
ノアが静かに言う。
セレスティアも頷いた。
「王妃派の多くは、悪意で動いているわけではありません。ですが、“王家に傷がつくくらいなら地下で何人消えようと表に出さない方がまし”と考える者が混じっています」
「それは十分、敵だろ」
「私もそう思います」
王女の声には、はっきりした苦さがあった。
王妃派。
善意で王家を守ろうとする。
だが、その善意が結果として腐敗を温存する。
龍真はそういうのが、一番厄介だと思った。
自分を悪だと分かっている外道の方がまだ単純だ。
善意で目を逸らす人間は、自分が何を見逃しているかすら直視しない。
「三つ目が、公爵派」
セレスティアの声が、さらに少しだけ硬くなる。
「ゼルヴァイン公爵家を中心に、王都の経済と流通、治安維持の一部を支えていると自負する大貴族筋です。商会街、王都ギルド、役人層、地方領主の一部まで深く繋がっている」
「本命だな」
「ええ。今回の件で最も直接的に敵となるのは、ここです」
エレオノーラが静かに口を開いた。
「守備隊の中にも、公爵派はいます」
「多いのか」
「露骨には名乗りません。ですが、“王都の安定を乱すな”“経済を支える家に泥を塗るな”という物言いをする者は、だいたいそうです」
「地下で人売っててもか」
「それを“必要悪”と呼ぶ者までいます」
龍真の目が冷える。
「必要悪、ねえ」
「王都では、便利な言葉です」
カティアが皮肉っぽく笑う。
「弱い者の犠牲を正当化する時に、貴族が大好きな言い回しよ」
「嫌いだな」
「知ってるわ」
最後に、セレスティアは図の端を指した。
「四つ目が中立派です」
「一番面倒そうなやつだな」
「その通りです」
王女はまっすぐ頷いた。
「明確に公爵家へつくわけでも、私へ味方するわけでもない。けれど、風向き次第でどちらにでも動く。表では礼を尽くし、裏では何もしない」
「何もしないのが一番楽だからな」
「ええ。そして王城では、その“何もしない”が時に一番大きな力になります」
部屋が少し静かになる。
中立派。
それは敵とも味方ともつかないが、実際には“止めないことで敵を助ける”連中だ。
誰も刃を振るわない。
誰も命令しない。
だが、誰も手を貸さない。
結果として一番人を死なせる種類の人間かもしれなかった。
リリィが、おそるおそる口を開く。
「じゃあ……王城の中って、思ったより全然まとまってないんですね」
「まとまっていません」
セレスティアは少しだけ疲れた顔で言った。
「王城とは、一つの意志で動く場所ではないのです。王族、王妃、近衛、家令、大貴族、役人、宮廷官、それぞれが別の都合で動いています」
「うへぇ……」
「そういう顔をしたくなる気持ちは分かります」
王女が珍しく、少しだけ人間らしく肩の力を抜く。
「私も時々、嫌になりますから」
「嫌になるだけで済んでるのがすごいです……」
リリィの本音に、セレスティアはほんのわずかに笑った。
だがその次に、彼女は視線を窓の外へ向ける。
庭は穏やかだ。
白い花が咲いている。
王城の朝は整いすぎている。
「私が孤立しているのは、そのせいでもあります」
その言葉に、ノアが静かに目を上げた。
「孤立……」
「ええ。味方はいます。ですが、多くはありません。近衛の一部、古い家令筋、数名の侍女、そして、はっきりと公爵家のやり方に疑問を抱いている者だけ」
ミアが思わず言う。
「王女様なのに?」
「王女だからです」
答えたのはエレオノーラだった。
「王族は、誰より守られる存在であると同時に、誰より自由が少ない。表立って敵を定めれば、それだけで王城全体が割れる」
「……そうです」
セレスティアは認めた。
「私が勝手に地下市場を探っていたことを、愚かだと思う者も多いでしょう。実際、王女としては軽率だった」
「軽率だったな」
龍真があっさり言う。
部屋の空気が一瞬止まりかける。
王女に向かってそこまで真っ直ぐ言う人間は、王城では相当少ないのだろう。
だがセレスティアは怒らなかった。
「……ええ。そうですね」
「でも行った」
「行かなければ分からなかったからです」
その返答には迷いがなかった。
「下町の失踪。地方から流れてくる人。ギルドと商会街の不自然な繋がり。報告書の上では、全部ぼやけていた。誰も決定的な形にしなかった」
「だから自分で見に行った」
「はい」
「で、捕まった」
「はい」
「反省してるか」
「半分だけ」
「半分か」
「半分は、やはり自分で行ってよかったと思っているので」
龍真は小さく鼻を鳴らした。
「厄介な女だな」
「あなたに言われたくはありません」
その返しに、ミアが思わず吹き出す。
ノアも少しだけ口元を緩めた。
王女と龍真。
やはりどこか似たところがある。面倒な方向で。
だが、話はそこで終わらない。
セレスティアは改めて視線を全員へ向けた。
「地下市場の件を公にすれば、公爵派はもちろん、王妃派の一部や中立派の多くも“騒ぎすぎだ”と言うでしょう」
「だろうな」
「でも私は、もう見て見ぬふりでは済ませたくない」
静かな声だった。
だが、その静けさの中に熱がある。
「地方の娘が消える。王都の獣人が消える。孤児が消える。誰かが帳簿の上で数字に変わる。その果てに王族まで地下へ沈められる」
「……」
「ここまで来て、“王城の秩序のため静観しましょう”と言うなら、その秩序の方が間違っている」
その言葉に、エレオノーラがはっきりと頭を下げた。
「殿下」
「何ですか」
「私は騎士として、秩序を守る側の人間です」
「ええ」
「ですが、秩序を食い物にしている者へ剣を向けるのもまた騎士の務めだと思っています」
女騎士の声は低く、強かった。
「王都でそれを言うのは、簡単ではありません」
「分かっています」
「それでも、私は見て見ぬふりをするつもりはありません」
セレスティアはその言葉を受け、静かに頷いた。
カティアも口を開く。
「私も同じです。上流の家に生まれたからこそ、ああいう地下を“必要悪”で済ませる連中がどれだけいるか知っている」
「……」
「だから止めたい。少なくとも、見てしまった以上は」
リリィは少し震えながらも、帳簿へ手を置いた。
「私、怖いです」
「ええ」
「でも、ギルドの人たちが“見ない”ふりをしてたのも知ってます。地方でも、王都でも」
「……」
「だから、せめて帳簿くらいはちゃんと喋らせたいです」
ミアとノアも顔を見合わせ、それから頷く。
「私、獣人の子たちがまた消えるの嫌」
「私も。下町も地方も、どこも同じって顔で諦めてるの、もう見たくない」
その言葉を聞きながら、龍真はゆっくり腕を組んだ。
王城の中にも、見て見ぬふりがある。
善意の静観。
保身の沈黙。
事なかれ主義。
そういうものが積み重なって、王都の地下市場は成り立っていた。
敵は地下だけじゃない。
地下を見ないことにしている王城の中にもいる。
なら、やることは単純だ。
「……なら」
龍真が低く言った。
「表と裏の両方から崩すしかねえな」
王女の目がまっすぐに向く。
「それが、私の望みです」
「楽じゃねえぞ」
「分かっています」
「王城の顔も、地下の顔も、どっちも敵に回る」
「それでもです」
セレスティアの返答は迷わなかった。
その時、龍真はようやく、この王女が地下市場へ自分で潜った理由を本当に理解した気がした。
ただの正義感じゃない。
ただの好奇心でもない。
王城の中にいるからこそ、王城の中だけでは腐敗が止まらないと知っているのだ。
それは、面倒で、危うくて、だが筋の通った覚悟だった。
龍真は小さく息を吐いた。
「分かった」
「では」
「王都の表と裏、まとめて相手してやる」
「……ありがとうございます」
「礼はまだ早いって言っただろ」
「そうでしたね」
王女はほんの少しだけ微笑んだ。
王城の窓から差し込む朝の光は変わらず穏やかだ。
だが、その穏やかな光の中で交わされた言葉は、もう後戻りのできないものだった。
王城の中にも、見て見ぬふりがある。
だからこそ、外から来た流れ者の刃が要る。
そしてその流れ者は今、王女と共に王都そのものへ手をかけようとしていた。




