第33話 王女は静かに礼を返し、流れ者に頼みごとをする
部屋の空気は、王城の外気より少しだけ柔らかかった。
とはいえ、柔らかいというだけで、楽ではない。
外宮の一室は豪奢すぎず、王族の私的な応接に使う部屋らしい落ち着きがあった。白木の卓、光をやわらかく通す窓布、簡素だが質の良い椅子、壁際の書架。
だが、そこに座る相手が王女である以上、やはり普通の部屋にはならない。
セレスティア・ルミナス・アルヴェイン。
第二王女。
昨夜、地下市場の石室から出てきた時の白衣姿とは違い、今は王族として整えられた装いをしている。飾りは過剰ではない。むしろ慎ましい。だが、その控えめさがかえって血筋の高さを隠しきれていなかった。
ミアが、部屋へ通されてからずっと耳を落ち着きなく動かしている。
リリィは姿勢を正しすぎて、逆に身体が固まっている。
ノアは静かに王女の所作を見ており、カティアは慣れた顔をしているが、それでも少しだけ表情を引き締めていた。
エレオノーラだけが、騎士としての礼節を保ちながらも、一番冷静にこの場を見ている。
龍真は、そういう周囲の空気を気にした様子もなく、ただ王女を見ていた。
王女は全員が座るのを待ってから、自分も静かに腰を下ろした。
侍女が茶を置いて下がる。扉が閉まり、部屋には王女と龍真たちだけが残る。
しばしの静寂のあと、セレスティアが口を開いた。
「昨夜は、私の身を救っていただきました」
その言葉は真っ直ぐだった。
王族としての格式を保ちながらも、曖昧にぼかさない。
「地下で名を明かすには状況が悪すぎましたから、改めて申し上げます。あの場で助けていただいたこと、心から感謝しています」
「礼は昨日も言われた」
「ええ。でも、あれは地下の混乱の中での言葉。今こうして、王家の名の下で正式に礼を返したかったのです」
その言い方には、王女としての責任感があった。
龍真はしばらく黙っていたが、やがて短く言う。
「受けた」
「ありがとうございます」
それだけで、王女はほんの少しだけ表情を緩めた。
普通の貴族なら、ここでさらに長い感謝や儀礼を重ねるのだろう。
だがセレスティアはしなかった。言うべき礼を言った上で、そこから先を進める。
その切り替えの速さに、龍真は少しだけ“話が早い女だな”と思った。
「ですが」
王女の声が一段低くなる。
「礼だけで、昨夜の件を終わらせるつもりもありません」
「だろうな」
龍真の返しはあっさりしている。
セレスティアも頷いた。
「地下市場は崩れました。ロートベル商会の主も落ちた。帳簿も、ある程度はこちらへ渡ってきています」
「ある程度?」
「はい。王城へ持ち込まれた時点で、すでに一部は止められました」
「……速ぇな」
龍真が目を細める。
「ええ。速いのです」
セレスティアは、苦いものを飲み込むように言った。
「王城の中にも、宮廷の中にも、“この件を大ごとにしたくない”と考える者がいます。王都の秩序を守るため。王家の威信を損なわないため。理由はいくらでも並べられる」
「要は揉み消したいんだろ」
「言葉を選ばなければ、そうです」
リリィが思わず小さな声を漏らす。
「そんな……王女様ご本人が地下にいたのに……?」
「だからこそ、です」
セレスティアの目が静かにリリィへ向く。
「王族が闇市場にまで手を伸ばされていたと知れれば、王都全体が揺らぐ。揺らげば、困る者が大勢いる」
「困る者、ですか」
「役人、商会、貴族、宮廷の調整役、そして……王家の中にも」
その最後の一言で、部屋の空気が少し重くなる。
ミアが思わず聞いてしまった。
「王家の中にも、って……」
「味方ばかりではない、という意味です」
セレスティアははっきり言った。
「私が勝手に地下市場を探っていたことを、愚かだと思う者もいるでしょう。危険を招いたと責める者も、騒ぎを伏せようとする者もいる」
「でも、王女様が動かなかったら、あそこに王女様がいたことも分からなかった」
「ええ」
ノアの言葉に、セレスティアは静かに頷く。
「だから私は、未熟ではあったけれど、無意味だったとは思っていません」
その言い方に、エレオノーラがほんの少しだけ目を伏せた。
王族でありながら、自分の判断の甘さを認め、その上で必要だったと断言する。
その強さは本物だ。
だが、強いだけではどうにもならない場でもある。
「龍真殿」
王女の視線が、真っ直ぐ龍真へ向く。
「あなたに、頼みがあります」
「聞くだけは聞く」
「ありがとうございます」
セレスティアはそこで一度息を整えた。
「私は、ゼルヴァイン公爵家と王都ギルド、そして王都の一部商会が、地下市場だけではなく、より広い人身売買と裏流通の網を持っていると見ています」
「俺もそう思ってる」
「ええ。地方から攫われた人々が王都へ流れ、王都で消えた者もそこへ混ざる。地下市場はあくまで表面に出た一角でしかない」
カティアがゆっくりと頷く。
「王都の上流も、今の件を“ロートベル商会の暴走”で片付けたがるでしょうね」
「その通りです」
セレスティアは言った。
「だからこそ、私は地下市場一つを潰しただけで満足するつもりはありません。王都全体に食い込んでいるその腐敗構造を、表でも裏でも証明したい」
「つまり」
「ゼルヴァイン公爵家と、王都ギルドと、商会街の繋がりを、言い逃れのできない形で暴きたいのです」
はっきりした依頼だった。
単に助けて終わりではない。
単に王女の恩人として遇されるわけでもない。
この先も動け、という話だ。
リリィが緊張した顔で帳簿の束を抱え直す。
「で、でも……これだけでもかなり危ない話ですよ? 王女様ご本人が関わる形で、さらに突っ込むって……」
「危険です」
セレスティアは迷わず答えた。
「正直に言えば、あなたたちを巻き込むべきではないとも思っています」
「なら巻き込むな」
「ですが、もうあなたたちは巻き込まれている」
それもまた、正直な物言いだった。
「地下市場を壊し、私を助け、帳簿を持ち出した。その時点で、ゼルヴァイン公爵家にとってあなたたちは“見逃せない存在”です」
「だったらなおさら、今さら止まる理由がねえ」
「……そう言うと思っていました」
王女の口元が、ほんのわずかに緩む。
龍真は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
王女の頼み。
王都の腐敗構造。
表と裏の両方を暴く。
話の大きさは十分すぎるほど分かる。
だが同時に、龍真は一つだけ引っかかっていた。
「王城の中まで腐ってるってんなら」
低く言う。
「まず誰が敵か教えろ」
「……」
セレスティアが一瞬、黙る。
「誰がただ見て見ぬふりしてるだけで、誰が本気でそっち側についてるのか。それが分からねえまま王女様の頼みを受けても、こっちは足元からすくわれるだけだ」
「それは……その通りです」
王女はすぐには反論しなかった。
反論できないのだろう。
エレオノーラがそこで静かに補足する。
「王女殿下。龍真の言い方はぶしつけですが、内容は正しいです」
「分かっています」
「敵が外だけなら、証拠を集めて届ければ済む。しかし王城内部に手が回っているなら、届け先そのものを選ばなければならない」
「はい」
セレスティアは頷いた。
「王城の中には、大きく四つの流れがあります」
そこで彼女は、机上の紙へ簡単な図を描き始めた。
「一つは王家の直轄筋。王の意思を直接支える者たち。ですが、父上は今、表立って動きにくい立場にあります」
「なぜだ」
「王都の経済と大貴族の均衡を、崩したくない者が多いからです」
王が動けば、王都が揺れる。
王都が揺れれば、商会と貴族と軍務が全部揺れる。
王という立場は強いが、同時に“強すぎるからこそ動かしづらい”のだろう。
「二つ目は王妃派。王家の安定と体面を最優先する者たち」
「面倒そうだな」
「ええ。善意で動いていても、結果として揉み消し側に回る可能性があります」
「善意ほど面倒なもんはねえな」
「あなた、本当に一言多いですね」
「カティア、今は黙っていてください」
「はいはい」
王女は図を続ける。
「三つ目は公爵派。ゼルヴァイン公爵家を中心に、王都の経済と秩序を支えていると自負する者たち」
「本命か」
「ええ。そして四つ目が中立派。どちらにも明確につかず、状況を見ている者たち」
「一番厄介だな」
「そうです」
セレスティアの声には、少しだけ疲れが滲んだ。
「敵だと分かっている相手より、“どちらにつくかまだ決めていない者たち”の方が、王城では読みづらいのです」
「なるほどな」
龍真は図を眺める。
王都の闇は地下にある。
だがその根は、王城の中へも絡んでいる。
誰が敵か、誰が味方か、それすらはっきりしない状況で動く。
確かに、厄介極まりない。
「セレスティア殿下は、今どこまで味方を持っているのですか」
ノアが静かに訊く。
王女は少し考えてから答えた。
「確実なのは、私付きの近衛の一部と、ほんの少数の侍女、それから古い家令筋だけです。多くはありません」
「少なっ……」
ミアが思わず口にしてしまい、すぐに「あ」と口を押さえた。
だが、セレスティアはそれを咎めなかった。
「その通りです。少ないのです」
「だったら、王女様ってけっこう孤立してるんじゃ……」
「はい」
即答だった。
その潔さに、逆にリリィが困った顔になる。
「そこ、そんなあっさり認めるんですね……」
「認めなければ始まりませんから」
セレスティアはわずかに笑った。
「だからこそ、私は地下市場の件でも独自に動きました。結果として捕まる形になりましたが……」
「無茶しすぎだ」
龍真が低く言う。
王女は少しだけ目を丸くした。
「叱っているのですか」
「当たり前だろ」
「王女相手に?」
「王女だろうが何だろうが、単独で闇市場潜るのは無茶だ」
「……そうですね」
不思議と、その一言は素直に王女へ届いたらしい。
彼女は視線を少し伏せた。
「反省はしています」
「ならいい」
「でも、また必要があれば動くと思います」
「反省してねえじゃねえか」
「してます。でも、それとこれとは別です」
「厄介だな」
「龍真殿に言われたくありません」
そこで初めて、部屋の空気がほんの少しだけ和らいだ。
この王女は、思っていた以上に龍真と相性が悪くない。
どちらも真っ直ぐで、どちらも自分で危険へ足を踏み入れる。
周囲からすれば頭が痛い。
だが、だからこそ会話が早い。
セレスティアは改めて姿勢を正した。
「正式な王命ではありません。王城としての任命でもありません」
「……」
「ですが、私個人の頼みとして、そして王家の一員としての願いとして、あなたたちに協力を求めたい」
それは、地下市場を壊す以上の話になる。
王都の表と裏をまたぐ、継続的な対立だ。
龍真は黙って王女を見返した。
断ることはできる。
だが、断ったところでゼルヴァイン公爵家が見逃すわけもない。
なら話は簡単だ。
「受けるかどうかは、条件次第だ」
「条件?」
「こっちが動く時、余計な足引っ張りをする奴はあらかじめ教えろ」
「……分かりました」
「それと、助けられるもんは助ける。王女だけ特別扱いって話なら乗らねえ」
「それも、約束します」
「だったら――」
龍真はほんの少しだけ口元を歪めた。
「王城の中まで腐ってる話を、表と裏の両方から崩す。やることは分かった」
セレスティアはゆっくり頷いた。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
「そうですね。結果が出てから、改めて」
「その方が話が早い」
カティアが、そのやり取りを見て少しだけ息を吐く。
王女と流れ者。
こんな組み合わせ、普通なら成立しない。
だが今、王城の一室で確かに手が結ばれようとしている。
王都の表が、龍真たちを正式には受け入れない。
だからこそ、王女個人の頼みという形でしか繋がれない。
それでも、その一本の線は重かった。
エレオノーラが静かに言う。
「では、私たちは王女殿下の“私的協力者”として動く形になりますか」
「ええ」
セレスティアは答える。
「公にはできません。ですが、私の名の下で情報を動かすことはできます」
「十分です」
「本当は十分ではないのでしょうけれど」
「それでも、今はそれしかない」
王女はそれを否定しなかった。
王都の闇を暴く。
そのための協力関係が、こうしてようやく形になった。
部屋の外では、王城の庭に朝の光が差し始めている。
白い壁に反射した陽光が、部屋の中を淡く照らした。
それは穏やかな朝の光だ。
だが、その光の中で交わされた約束は、穏やかなものではなかった。
王都の腐敗構造を、表でも裏でも証明する。
ゼルヴァイン公爵家と王都ギルド、商会街の繋がりを暴く。
そして、見て見ぬふりで成り立っている王都の静けさそのものへ刃を入れる。
そんな話を、王女と流れ者が静かに決めたのだ。




