第31話 王女の招き、流れ者は王城を睨む
王都の朝は早い。
夜明けと同時に石畳は水で洗われ、商人は店を開け、役人は書類を抱えて走り、貴族の馬車は何事もなかったような顔で大通りを進む。
地下で人が売られ、王女が囚われ、闇市場が崩れた同じ夜の翌朝だというのに、地上の王都はあまりにも平然としていた。
それが、この都の恐ろしさだった。
大事件すら、一晩で表面から押し流す。
騒ぎを騒ぎのまま残さない。
上にいる者たちがそう決めれば、町全体が“何もなかった”顔をし始める。
《三つ足カラス亭》の二階で目を覚ました龍真は、狭い天井を見上げたまましばらく動かなかった。
身体は休めている。
だが頭はすでに起きている。
昨夜、王都地下の闇市場を崩した。
王女セレスティアを救い出した。
ロートベル商会の主ベルナールを生け捕りにし、帳簿も押さえた。
だが、それで終わるはずがない。
王都の闇は、ベルナール一人の首で止まるほど軽くない。
ゼルヴァイン公爵家。
王都ギルド。
商会街。
役人。
上流の代理人たち。
全部が絡んで、ようやくあの地下市場が動いていた。
なら、今日から始まるのは後始末じゃない。
本番だ。
「……起きてる?」
襖代わりの薄い板戸の向こうから、ノアの声がした。
「ああ」
「入るわよ」
返事を待ってから、彼女は湯気の立つ器を持って入ってきた。
簡単なスープだ。宿の厨房を借りて温め直したのか、香草の匂いが少し強い。
「リリィが、帳簿見ながら倒れそうになってる」
「予想通りだな」
「予想通りで済ませるの、ちょっと可哀想よ」
「でも倒れてねえんだろ」
「倒れてはない。すごい顔してるけど」
ノアは器を机へ置き、龍真の様子を見た。
「肩、痛む?」
「大したことねえ」
「そう言うと思った」
少し呆れたように笑う。
だが、その目には昨夜より少しだけ柔らかい色があった。地下市場から帰ってきた時の張り詰めた空気が、ほんの少しだけ緩んでいる。
「ミアは?」
「もう起きてる。朝から“王女様ってどんな人なんだろう”ってずっと言ってる」
「元気だな」
「元気じゃないとやってられないのよ、あの子は」
ノアはそう言ってから、少し声を落とした。
「でも、正直……みんな少し浮ついてる」
「王女を助けたからか」
「それもあるし、逆に“大変なことをしちゃった”って実感が今きてる感じ」
龍真はスープをひと口すすった。
薄い。
だが、今はそれで十分だった。
「その実感は間違ってねえな」
「でしょうね」
ノアは苦笑した。
「王女様を助けたって、普通の人なら一生に一度どころか何代か遡っても起きないことだもの」
「普通じゃねえから起きたんだろ」
「自分で言う?」
「事実だ」
「……否定できないのが嫌ね」
そこで下の階から、がたんと大きな音がした。
次いで、リリィの半泣きじみた声。
「だからこれ、絶対隠し帳簿ですって! 普通の交易記録に“白百合・保全等級一”なんて書きませんよぉ!」
「落ち着け、リリィ! 声がでかい!」
「だって落ち着ける量じゃないんです! 帳簿が! 多い!」
エレオノーラの低い制止と、リリィの悲鳴まじりの反論。
さらにその横でミアが何か言っているのか、明るい声が混じっている。
龍真とノアは顔を見合わせた。
「……一家だな」
「今さら?」
「今さらだ」
下へ降りると、食堂の一角を勝手に占拠したような状態になっていた。
帳簿、荷札、封印印、記録紙。
昨夜地下市場から持ち帰った証拠の山が、卓の上だけでなく隣の椅子や床にまで広がっている。
その中心でリリィが髪を少し乱しながら必死に書き分けをしていた。
「龍真さん! ちょうどいいです! これ見てください!」
「朝飯前から面倒そうだな」
「面倒です! でも大事です!」
彼女は帳簿の一冊を突きつける。
「これ、表向きは香木と毛皮の流通記録なんですけど、符号の並びが地下市場の客席配置と一致してるんです」
「つまり?」
「“誰が何を買ったか”が、直接書いてない形で残ってる」
エレオノーラが腕を組んだまま補足する。
「言い逃れ可能な形の記録、ということです」
「なるほどな」
「でも、完全には隠しきれてません」
リリィの目が少しだけ鋭くなる。
「地方から流された人の到着日、王都で消えた獣人の娘の数、地下市場の“商品更新日”、これがかなり一致してる。しかも、ゼルヴァイン公爵家の会計符号と見られる印が何度も出る」
「十分刺せるか」
「刺せます。少なくとも、“ロートベル商会だけの暴走”では絶対に済まない」
「上出来だ」
それだけ言うと、リリィはほんの少しだけ胸を張った。
褒められるとちゃんと伸びるタイプだと、龍真は最近ようやく理解してきていた。
ミアはその横で頬杖をつきながら、完全に別方向の話をしていた。
「でもさ、王女様ってすごかったよね」
「何がだ」
「怖がってるのに、全然折れてなかった」
「それは思った」
ノアも同意する。
「普通、ああいう状況ならもっと取り乱してもおかしくないのに」
「王族教育って、そういうものなのかしら」
カティアが窓際の席から口を挟む。
昨夜のままこの宿に残った彼女は、さすがに庶民宿の椅子にはまだ少し馴染んでいない。座っているだけで、そこだけ貴族街みてえな空気になる。
「セレスティア殿下は、元々そういうお方よ」
「知ってるのか」
「宮廷で何度かお見かけした程度だけれど。表向きは静かで柔らかい。でも、奥にある芯はかなり強い」
エレオノーラが頷く。
「現場へ自分で来てしまう時点で、普通の王族ではありません」
「それは褒めてるのかけなしてるのか分かんねえな」
「半々です」
朝の空気は、地下市場の死臭から少し離れていた。
だが、完全に日常へ戻ったわけでもない。
全員が分かっている。今日、何かが来ると。
そして、その“何か”は案の定すぐに来た。
宿の表で馬の足音が止まり、女将が慌てて二階へ顔を出す。
「あんたたち! 王城の使いみたいなのが来てるよ!」
食堂の空気が一瞬で固まった。
龍真は立ち上がる。
エレオノーラがすぐに腰の剣へ手をやり、リリィは帳簿を抱え込み、ミアとノアも表情を引き締めた。カティアだけは目を細めて窓の外を見ている。
「……王城の正式使者ね」
「分かるのか」
「馬具と従者の服でね。あれは侯爵家でも難しい格式よ」
少しして、宿の一階へ降りると、そこには二人の使者が立っていた。
派手ではない。
だが一目で、ただの役人ではないと分かる。
衣の仕立て、立ち方、視線の置き方、その全部が“王城の人間”だった。
「水戸龍真殿」
年長の使者が一歩前へ出る。
「第二王女セレスティア・ルミナス・アルヴェイン殿下より、正式なお招きです」
宿の女将が後ろで完全に固まっている。
他の客たちも、下町の安宿に王城の使者が来たこと自体、現実味が追いついていない顔だ。
使者は巻物を差し出した。
「本日、王城外宮の一室にて。昨夜の件について、殿下自らお話があるとのこと」
「断ったらどうなる」
龍真が平然と聞くと、使者のまつ毛がほんの少し動く。
「……殿下は、断られることを想定しておられません」
「そうか」
「ですが強制ではありません。あくまで、正式なお招きです」
その“正式”が重い。
王女直々の招き。
それは名誉でもあり、同時に王都の表舞台へ片足を突っ込む宣言でもある。
龍真は巻物を受け取った。
封印は王家のもの。
間違いない。
「分かった。行く」
「承知しました」
使者が一礼して去ると、宿の空気が一気にざわつく。
「お、王城!?」
「王女様から!?」
「何やらかしたんだいあんたたち……!」
女将の言葉に、リリィが小さく呟く。
「やらかしたのは、たぶん向こうなんですけどね……」
「でも巻き込まれ方が王都の中心すぎる」
「ええ。もう完全に下町案件じゃありません」
エレオノーラの言葉は重かった。
王女の招き。
それは味方を得る可能性でもある。
だが同時に、王都の派閥、王城、宮廷、そしてゼルヴァイン公爵家に対して、龍真が“無視できない位置にいる”と宣言するようなものでもあった。
カティアが静かに笑う。
「これで完全に戻れなくなったわね」
「昨日の時点で戻る気はねえ」
「そういうと思った」
ミアが龍真の袖をつつく。
「ねえ、王城って、すごくちゃんとした格好しないとだめ?」
「知らねえ」
「そこ知らないんだ……」
「知るか。王城なんて行ったことねえ」
「そりゃそうだけど!」
ノアが額に手を当てる。
「一番そこが不安なのよね、この人……」
「礼儀作法は最低限私が補います」
エレオノーラがきっぱり言う。
「ただし、王城で仁義口上を最初から全部やるのだけは控えてください」
「失礼だろ」
「十分失礼です」
「えー、でも王城で聞いてみたいかも」
「ミア!」
「だって気になるじゃん!」
「私もちょっとだけ……」
「ノアまで!?」
騒がしい。
だが、その騒がしさの裏で、一つだけはっきりしていた。
王女救出の件で、王都の表がついに龍真を呼び始めた。
地下市場の崩壊は、王都の表と裏の境界線を破ったのだ。
龍真は巻物を腰へ差し、王城のある方角を見た。
遠い。
だがもう、遠いだけの場所じゃない。
下町の流れ者として王都へ入ったはずが、気づけば王女に呼ばれ、王城の入口へ立とうとしている。
それが面倒で仕方ない反面、やること自体は変わらないとも思っていた。
筋の通らねえ話の根まで行く。
それだけだ。
龍真は小さく息を吐いた。
「……行くぞ」
「王城へ?」
「ああ」
「ほんとに、行くんだ……」
「呼ばれてんだろ」
「そうだけど、そんな近所へ行くみたいに……」
「近所じゃねえのか」
「違います!」
リリィの全力の否定が、宿じゅうに響いた。
それでも龍真は平然としている。
その平然さこそが、王都の人間から見れば一番の異物感になるのだろう。
王女の招き。
王城外宮。
宮廷の視線。
そして、その先で待つであろうゼルヴァイン公爵家との本格衝突。
王都の中心へ、流れ者はさらにもう一歩、踏み込もうとしていた。




