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第30話 流れ者、王都の中心へ踏み込む

夜明け前の王都は、妙に白かった。


 地下市場の騒乱から地上へ出た時、龍真は最初にそう思った。

 東の空が、まだ薄く白んでいるだけの時間。

 それなのに、王都の石畳も、屋敷の壁も、近衛の鎧も、すべてが夜の黒を振り落としきれないまま白く浮いて見える。


 まるで、この都そのものが、何事もなかったような顔をする準備を始めているみてえだった。


 だが、今回はそうはいかない。


 王都地下の闇オークション本拠地は崩れた。

 檻は開いた。

 裏帳簿も顧客記録も押さえた。

 ロートベル商会の主ベルナール・ロートベルは捕縛された。

 そして何より、王女その人が地下から救い出された。


 これを“裏だけの始末”で消せるほど、今回の騒ぎは軽くない。


 王女を囲うようにして動くのは、王都守備隊でも、地下市場の私兵でもなかった。

 王城から直で出されたらしい、選び抜かれた近衛たちだった。

 鎧の意匠が違う。動きが違う。何より、王女へ向ける敬意の質が違う。


 その列の少し後ろで、エレオノーラは静かな顔で状況を見ていた。


「ここから先は、もう地下市場の突発事件では済みません」


 低い声で言う。


 龍真は壁にもたれたまま鼻を鳴らした。


「だろうな」

「王女殿下が関わった時点で、宮廷、守備隊、王城、大貴族派閥、その全部が動きます」

「面倒が増えた」

「ええ。とても」


 そう言いながらも、エレオノーラの目には、奇妙な熱があった。


 地方の守備隊副長という立場では、これまで見上げるしかなかった王都の中枢。

 そのさらに奥にある腐敗へ、今ついに刃が届いたのだ。

 恐ろしい。

 だが、それ以上に引けない。


 一方で、少し離れた場所ではリリィが、抱えきれない帳簿や書類の束を地面へ広げて半泣きになっていた。


「多い! 多すぎます! 王都の大商会ってどうしてこう、記録だけは几帳面なんですか!」

「褒めてるのか」

「褒めてません! でもこれだけあればかなり刺せます! 王都ギルド裏口、ロートベル商会、客側の代理人、地下搬送の符号、全部繋がります!」

「じゃあ泣くな」

「泣きたくもなりますよ! だって王女様まで出てきたんですよ!?」


 その言い方に、ミアが小さく笑う。

 だが、その笑いも疲労で少しかすれていた。


 ミアとノアは、救い出した獣人や亜人たちのそばにいた。

 まだ怯えて動けない者、地下から出た瞬間に崩れ落ちる者、外の空気を吸っただけで泣き出す者。

 その手を握り、肩を支え、できるだけ落ち着いた声をかけ続けている。


「もう大丈夫だよ」

「まだ怖いかもしれないけど、終わったから」

「終わってないわ」

「ノア姉ちゃん?」

「正確には、“ここ”は終わった、ね」


 ノアが静かに言う。


「でも、まだ王都そのものは終わってない。だから立てる人からちゃんと立って。ここで倒れたら、また誰かに運ばれちゃう」

「……うん」


 その言葉には実感があった。

 自分たちも、つい少し前まで運ばれる側だったからだ。


 そして、そんな一同から少し距離を取るようにして立っているのが、カティア・ローゼンフェルトだった。


 高位侯爵令嬢。

 だが今はその肩書きよりも、王都の裏表を知る女としての顔が強い。


 彼女は近衛の動き、王女の護衛の配置、集められた役人たちの顔色、その全部を順番に見ていた。

 やがて小さく言う。


「……もう戻れないわね」

「何がだ」


 龍真が問う。


 カティアは苦笑した。


「あなたが、よ」

「今さらだろ」

「今までは下町の噂で済んだの。獣人を庇う危険人物、黒髪の流れ者、貴族令嬢の馬車を助けた男。そういう、面白い異物として」

「十分面倒そうだが」

「ええ。でもそれだけだった」


 彼女は視線を、近衛に囲まれた王女へ向けた。


「でも、今夜で変わる。王女殿下を地下市場から救い出した男になった」

「……」

「もう“下町の流れ者”ではいられない。王都の表が、あなたを知る」


 龍真は少しだけ空を見た。

 白い。

 王都は相変わらず白々しい。


「知りたきゃ勝手に知れ」

「そういう問題じゃないのよ」

「だろうな」


 あっさり返されて、カティアはとうとう肩を落とした。


「本当に、あなたって人は……」

「何だ」

「王都の中心へ踏み込んだ自覚が、薄すぎるの」

「踏み込んだつもりはねえ」

「じゃあ何だと言うの」

「筋の通らねえ話の根っこまで来ただけだ」

「それを踏み込んだって言うのよ」


 言い切られても、龍真は大して困った顔をしなかった。

 それが余計に、彼が普通じゃない証拠だった。


 その時、近衛の一人が歩み寄ってきた。


「水戸龍真殿」

「……俺か」

「殿下がお呼びです」


 その一言で、周囲の空気が変わる。


 ミアが耳をぴくりと動かし、リリィは抱えた帳簿を危うく落としかけ、エレオノーラは表情を引き締めた。カティアだけが小さく「でしょうね」と呟く。


 龍真は面倒そうに眉を寄せたが、呼ばれた以上、無視はしない。

 村正の位置を軽く直し、王女の前へ歩いていく。


 王女は、先ほどの地下で見た時より少しだけ落ち着いていた。

 白を基調とした衣は簡素なままだが、立ち姿そのものがすでに“王族”だ。

 年は龍真たちより少し上か、同じくらいか。

 気品はある。

 だが、綺麗なだけではない。目の奥に、強い意志と、現場へ自分の足で来てしまうような危うさがある。


「……助けていただきました」


 王女は、まっすぐに言った。


 声は静かで、よく通る。


「地下で名を明かせぬままになりましたから、改めて礼を申し上げます」

「礼はいらねえ」

「必要です」

「そうか」

「ええ」


 ほんの短いやり取り。

 だが、気の強さがある。

 カティアともエレオノーラとも違う。もっと静かで、もっと折れない類の強さだった。


「私はセレスティア・ルミナス・アルヴェイン」

「……」

「王家の第二王女です」


 背後でミアたちが一斉に息を呑む。

 分かっていた。

 だが、本人の口から正式に明かされると重さが違う。


 第二王女。

 この国の王女その人だ。


 龍真はそれでも、顔色一つ変えなかった。


「そうか」

「……驚かないのですね」

「途中で大体そうだろうと思ってた」

「そうですか」


 セレスティア王女はそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 その反応の薄さが、逆に面白かったのかもしれない。


「では、改めて」


 王女は背筋を正し、王族としてではなく、一人の人間として頭を下げた。


「私を救ってくれて、ありがとうございます」

「頭を上げろ」

「ですが」

「礼は受けた。だからもういい」

「……本当に変わった方ですね」

「よく言われる」


 その返しに、今度は王女が少しだけ笑う。


 だが、次に彼女の目が鋭くなった。


「あなたは、どこまで知っていますか」

「何の話だ」

「王都の闇の深さと、王家の弱さの話です」


 周囲の近衛が一瞬だけ緊張する。

 だが王女は構わず続けた。


「私は、地下市場の噂を独自に追っていました。下町の失踪、地方からの流入、ロートベル商会、そしてゼルヴァイン公爵家の会計筋。証拠を掴めると思った」

「で、潜って捕まった」

「……ええ。未熟でした」


 その認め方に、エレオノーラが少しだけ眉を上げる。

 王族でありながら、自分の失敗をそのまま認める。

 この王女もまた、ただ守られて育っただけの人間ではない。


「でも、その未熟さで終わらせるつもりはありません」


 セレスティアの声が、少しだけ強くなる。


「今夜の件は、王城も宮廷も知らぬふりでは済まない。ですが同時に、ゼルヴァイン公爵家も、ロートベル商会も、王都ギルドも、このままでは終わらせないでしょう」

「だろうな」

「だから聞きます」


 王女は龍真をまっすぐ見た。


「あなたは、この先も踏み込みますか」

「踏み込むも何も、もう首突っ込んでるだろ」

「では、なおさらです」


 その問いは確認だった。


 地下市場を壊したのは勢いか。

 王女を助けたのは偶然か。

 それとも、この先も王都の中心へ刃を向ける覚悟があるのか。


 龍真は数拍の間、黙って王女を見返した。


 その後ろには近衛。

 そのさらに先には王城。

 王都の中心。

 政治。

 権力。

 派閥。

 表の秩序。


 だが、だからどうした、という思いしか出てこない。


「しがねえ流れ者だ」


 龍真は、いつものように低く答えた。


「だが、筋の通らねえ話は嫌いでな」

「……」


 王女は少しだけ目を見開いた。

 それから、ゆっくりと息を吐く。


「そういう答えをすると思っていました」

「なら聞くな」

「聞かなければ、信じる根拠が持てません」

「面倒だな」

「王族とはそういうものです」


 その言い方に、カティアが後ろで「分かるわ」と小さく呟いた。


 そこへ、別の近衛が早足でやってくる。


「殿下、王城より正式な護送命令が」

「分かりました」

「それと……ゼルヴァイン公爵家からも使者が来ています」

「速いわね」

「はい」


 その一言だけで、場の空気がまた冷えた。


 王女救出の報は、もう王城にも公爵家にも届いている。

 王都の中心が、一斉に動き始めたのだ。


 エレオノーラが龍真のそばへ来て、低く言う。


「ここからが本当の意味での王都です」

「みてえだな」

「下町の失踪や地下市場とは、戦う相手の格が変わる」

「だが根っこは同じだ」

「ええ。だから厄介なんです」


 リリィも帳簿を抱えたまま寄ってきた。


「これ、ちゃんと隠して持ち出さないと絶対まずいですよね」

「当然です」

「ですよねぇ……」

「でも、これがあるからこそ向こうも慌てる」

「それは分かるんですけど、私の胃がもうもちません……」


 ミアが龍真の袖をちょんと引く。


「ねえ」

「何だ」

「王都、もっと大変になる?」

「ああ」

「そっか」

「怖いか」

「ちょっと」

「だろうな」

「でも、行くよ」


 その横でノアも静かに頷く。


「ここで止まったら、今まで助けた人も、これから助ける人も全部中途半端になるもの」

「……そうだな」


 カティアはそんな一家の空気を見て、ほんの少しだけ目を細めた。


 流れ者。

 獣人の姉妹。

 元受付嬢。

 地方守備隊副長。

 侯爵令嬢。

 そして今や、王女までそこへ絡み始めている。


 普通ならあり得ない。

 だが、この異様な集まりが王都の闇へ一番深く届いているのも事実だった。


 やがて王女は、近衛に囲まれて王城へ向かうことになる。


 去り際に一度だけ振り返り、龍真へ言った。


「水戸龍真」

「何だ」

「これで終わりだとは、思わないでください」

「思ってねえよ」

「そうでしょうね」


 王女はそう言って、ほんの少しだけ笑った。


 その笑みは気高く、だが同時に、これから先を見据える人間の顔だった。


 王女救出。

 それは地下市場の崩壊以上の意味を持つ。


 王都の表社会に、龍真の存在が一気に知られる。

 王女を救った男。

 王都地下の闇市場を壊した流れ者。

 ゼルヴァイン公爵家と真正面からぶつかった得体の知れない異物。


 もう“下町で少し騒いでいる危険人物”では済まない。


 王都の中心へ、龍真は本当に踏み込んだのだ。


 その日の朝、王都の空はようやく完全に明るくなった。


 石畳の街は、いつも通りの顔をしようとしている。

 だが、その裏ではもう、誰かがこの名を囁き始めているだろう。


 水戸龍真。


 しがねえ流れ者。

 だが、筋の通らねえ話には黙らない男。


 その答えが、これから王都全体を巻き込む大抗争の、はっきりした幕開けになっていく。

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