第29話 王女救出、そして王都へ名が響く
地下市場の崩壊は、もう誰にも止められなかった。
王都の闇オークション本拠地――旧換金市場跡。
そこに張り巡らされていた秩序は、ほんの数分前までは確かに機能していた。
護衛は配置され、檻は閉じられ、客は値をつけ、会計役は帳簿をつけ、商会の人間は荷と命を同じ重さで数えていた。
だが今、その全部が壊れている。
石畳には倒れた私兵。
ひっくり返った会計机。
散らばる金貨。
破れた帳簿。
開いた檻。
逃げ出す商品。
顔を隠しきれず蒼白になっている上流客。
そして、その中心に立つのは水戸龍真だった。
村正の切っ先から、細く血が落ちる。
呼吸は乱れていない。
背には閻魔。
目には怒りがある。だが、もう荒れてはいない。荒れる段階は過ぎて、冷え切った怒りだけが残っている。
「中央の護衛、崩れました!」
エレオノーラの声が飛ぶ。
彼女は石室前からさらに一歩外へ出て、獣人たちの脱出路を塞ごうとする護衛を押し返していた。
女騎士の剣は、地下という狭い空間でも少しも鈍らない。むしろ守るものがはっきりしている今の方が、迷いがないぶん強い。
「ミア! ノア! 白衣の女性を中心に下げて! 客席側はカティアに任せる!」
「わかった!」
「こっちです!」
ミアとノアは、石室から解放した白衣の女を両側から支えるようにして通路へ誘導する。
白衣の女は歩けないほど弱ってはいない。だが拘束と緊張で体力を削られていた。それでもその目は強かった。
「あなたたち……何者なの」
「今それ気にする!?」
「気になるでしょう、普通!」
ミアが焦りながら返し、ノアが「後でゆっくりにしてください」と苦笑混じりに言う。
こんな状況だというのに、白衣の女は少しだけ口元を緩めた。
「そうね。確かに今は、それどころではないわ」
その声の通り方、言葉の選び方、何よりこの状況でなお崩れない気品。
カティアが最初に感じた通り、ただの貴族令嬢ではない。
エレオノーラももう確信に近いものを抱いていた。
王女。
少なくとも、王女に極めて近い血筋の女性。
そこへ、客席側から怒声が響いた。
「そこを通すな!」
「顔を隠せ! 証人を残すな!」
「公爵家側へ伝令を――」
だが、その叫びをカティアの鋭い声が叩き切る。
「動くなと言っているでしょう!」
彼女は崩れた客席の手前で、逃げようとする代理人の袖を掴んでいた。
力では敵わない。
だが、王都の上流社会は力だけでは動かない。
「その顔、見たわ。あなた、クローデル伯爵家の家令でしょう」
「ろ、ローゼンフェルト嬢、誤解です!」
「誤解で地下市場にいるの?」
「それは……」
「言い訳は後で聞くわ。あなたの主にもね」
その一言だけで、男の足が止まる。
上流社会の人間にとって、斬られるより“家へ話が行く”方がよほど怖い。
カティアはそれを誰より知っている。
王都の表の武器を、今は王都の裏へ向けていた。
リリィは会計台の残骸の中から、必死に帳簿をかき集めていた。
「これ、顧客記録……! こっちが裏の荷札台帳……! うわ、これ絶対やばいやつ!」
すでに両腕いっぱいだ。
だが止まらない。
今ここで押さえた記録こそ、この王都地下市場が実在した証拠になる。
「リリィ!」
ノアが叫ぶ。
「まだある!?」
「あります! ありすぎて嫌になります!」
「嫌になるのは後! 今は持てるだけ持って!」
「そうします!」
相変わらず半泣きのような声なのに、やっていることは一番実務的だった。
その時だった。
奥の高台から、やけに落ち着いた男の声が響いた。
「やれやれ……」
地下市場のざわめきの中でも、その声だけは妙に通った。
全員の視線がそちらへ向く。
高台の上。
崩れかけた会計席のさらに奥。
今まで姿を見せなかった男が、ようやく表へ出てきた。
年の頃は五十手前。
痩せすぎず、太りすぎず。
高価な衣服を派手に着崩すでもなく、地味に隠すでもない。
“権力の真ん中にいる人間”の顔だった。
その男が一歩前へ出るだけで、周囲の商会役人たちが無意識に頭を下げる。
「ロートベル……」
リリィが掠れた声で呟いた。
王都の大商会、ロートベル商会の主――ベルナール・ロートベル。
地方の倉庫や王都ギルドの裏口に繋がる、表向きは香木と毛皮の大商人。
だがその実態は、人身売買と地下流通の中心。
ついに元締めの顔が出た。
ベルナールは崩れた市場を見渡し、ため息混じりに言う。
「ここまで派手にやられるとは思いませんでしたよ」
「てめえが元締めか」
龍真が低く問う。
「元締め、と言われると少々品がありませんね。商いの責任者、と呼んでいただきたい」
その言い草に、ミアが本気で顔をしかめた。
「なにそれ……」
「商人って、ああいう言い方するのね」
「商人全部をあんなのと一緒にしないでください……」
リリィが怒り混じりに返す。
ベルナールは気にした様子もなく、視線を石室から出た白衣の女へ向けた。
ほんの一瞬、その目に“計算が狂った”色が浮かぶ。
それだけで十分だった。
龍真は村正の切っ先を男へ向ける。
「お前、終わりだ」
「そうでしょうか?」
ベルナールは薄く笑った。
「ここで私一人を斬れば、この地下市場が消えるとでも?」
「消えなくても、てめえの顔と帳簿があれば十分だ」
「浅い」
その笑みが、少しだけ冷たくなる。
「王都というものを、まだご存じないようだ」
男はゆっくりと両手を広げた。
「ここは地方の倉庫ではない。地下市場一つ潰れようが、流通は残る。帳簿が一冊奪われようが、別帳簿がある。商会主が一人消えようが、代わりは立つ」
「だからどうした」
「王都の闇は、個人の怒りで止まるほど軽くない、ということですよ」
それは強がりではなかった。
本当のことなのだろう。
だから余計に、腹が立つ。
龍真が一歩踏み出した、その瞬間。
白衣の女が静かに口を開いた。
「ベルナール・ロートベル」
その声に、男の肩がぴくりと揺れた。
「私の顔を見て、それでもまだ“別帳簿がある”などと言えるのね」
「……」
「さすがに感心するわ。ここまで腐っていると、いっそ見事」
地下市場の空気が、また変わる。
その言い方、その響き、その相手を名で呼ぶ自然さ。
ミアも、ノアも、リリィも、もう確信した。
この人は、ただの貴族ではない。
ベルナールは一瞬だけ無言になったが、すぐに表情を整えた。
「……あなた様が、そのような言葉を口にされるのはおやめいただきたい」
「では、どういう言葉を期待していたの」
「少なくとも、ここで名を晒すような真似は」
「あなたが晒したのでしょう」
白衣の女ははっきり言った。
「王都の娘たちだけでなく、地方から攫われた子まで並べて。挙げ句、王族にまで手を伸ばして」
「手を伸ばした、とは」
「言葉遊びをする気はないわ」
そこへ、エレオノーラが膝をつきかけるのを龍真が横目で止めた。
今それをやると場がまた変わる。
だが白衣の女は、そんな彼女へ小さく首を振る。
「形式は後で」
「……はっ」
その一瞬のやり取りだけで十分だった。
王女。
やはり、この人は王女その人だ。
カティアが低く息を呑む。
「やっぱり……」
「知ってるのか」
「宮廷で何度か遠目に。間違いない」
王女がここにいる。
しかも地下市場の特別商品として囲われていた。
その事実の重さが、場にいる全員へようやく現実として落ちてくる。
ベルナールの額に、初めてわずかな汗が滲んだ。
「……殿下。これは誤解です」
「誤解で人は檻に入れられないわ」
「地下市場の存在そのものは、王家の預かり知らぬところです」
「でも、あなたは知っていた」
「商会として流通を管理していただけで」
「そこに人を混ぜた」
「それは――」
そこまでだった。
龍真はもう十分だと判断した。
村正が閃く。
ベルナールのすぐ前へ踏み込み、護衛の間を抜け、一息で間合いを潰す。
元締め本人は戦えない。だが周囲の護衛は違う。三人が一斉に剣を出した。
だが、遅い。
村正が最初の手首を打ち、二人目の喉元へ柄頭が入る。三人目の刃は龍真の肩を掠める前に流され、そのまま足払いで床へ転がされた。
ベルナールが後ずさる。
その襟首を、龍真の左手が掴んだ。
「離せ……! 私はロートベルだぞ!」
「知ってる」
「商会を敵に回してただで済むと――」
「よく聞く台詞だな」
龍真はそのまま男を強引に引き寄せ、村正の切っ先を喉元へぴたりと止めた。
「王都の闇が個人の怒りで止まらねえ? 結構だ」
「……っ」
「だったら、止まるまで斬るだけだ」
その声は低く、底冷えするほど静かだった。
ベルナールの顔が引きつる。
客席側では、上流の代理人たちが完全に浮足立っている。
帳簿はリリィが押さえた。
王女は救出された。
檻は開き、地下市場の秩序は崩れた。
王都地下の闇オークションは、もはや成立していない。
その時、遠くで鐘が鳴った。
地下市場の中のものではない。
地上の、王都の警鐘だ。
エレオノーラが顔を上げる。
「守備隊……!」
「動くのが遅ぇ」
「でも来た!」
王女が低く言う。
「それで十分よ。ここから先は、地下の出来事では終わらない」
その通りだった。
王都の地下で何が起きていたか。
そこに誰がいたか。
そして誰が救い出されたか。
そのすべてが、今夜を境にもう“裏の話”では済まなくなる。
龍真はベルナールを床へ叩きつけ、エレオノーラへ言った。
「縛れ」
「はい」
「リリィ、帳簿は」
「あります! 両手いっぱいです!」
「ミア、ノア」
「こっちの子たち、出せるだけ出した!」
「歩けない人もいるけど、通路までは連れていける!」
カティアも頷く。
「客席側の顔もかなり見たわ。逃げた者もいるけれど、全員ではない」
「十分だ」
王女救出。
その事実が、地下市場の崩壊よりもさらに大きな意味を持つ。
王都の表社会へ、龍真の名がこれで本格的に響く。
黒髪の流れ者。
獣人を庇う危険人物。
そして、王女を救い出した男。
その肩書きは、もう下町の噂だけでは済まない。
地下市場の奥で、最後の灯りが揺れる。
崩れた秩序の中で、王都の闇は確かに大きく傷ついた。
だが終わりではない。
始まりだ。
龍真は、王女の方を振り返った。
白衣の下でも分かる、静かな気高さ。
そして、その目の奥にある強さ。
王女はまっすぐ龍真を見返し、小さく、しかし確かに言った。
「あなた、何者なの」
地下市場の混乱の中、その問いだけが妙にはっきりと届いた。
龍真は一瞬だけ黙ってから、いつものように低く答える。
「しがねえ流れ者だ」
「そうは見えないわ」
「よく言われる」
その短い返答が、これから王都全体を巻き込む大きな波の、最初の一滴になることを、この時まだ誰も正確には分かっていなかった。
ただ一つだけ、確かなことがある。
王女は救い出された。
そしてその瞬間、龍真はもう“ただの流れ者”ではいられなくなったのだ。




