第2話 奴隷商人に仁義は要らねえ
森の空気が、さっきまでとは明らかに変わっていた。
魔狼の唸り声。
人間の怒号。
葉を踏み潰しながら近づいてくる複数の足音。
逃げ場を塞ぐように、じわじわと包囲が狭まってくる気配がある。
水戸龍真は、手にした長剣を静かに下段へ構えた。
異世界の得物だ。形も重心も日本刀とは違う。だが、問題はない。刃があって、人を守るために振れるなら、それで十分だった。
背後で、ミアが息を呑む。
「りゅ、龍真さん……どうしよう……」
「慌てるな」
低く、短い声。
だがそれだけで、震えていたミアの呼吸がわずかに整う。
龍真はちらりと肩越しに彼女を見た。頭の上の獣耳はぺたりと寝ており、腰の尻尾も怖がるように脚へ巻きついている。顔色は悪い。疲労も空腹も限界が近いだろう。ここで無理に走らせるのは得策じゃない。
「お前は俺の後ろにいろ」
「で、でも……相手、たくさん……」
「だからだ」
それ以上は言わない。
龍真は前へ出た。
直後、茂みが左右から割れた。
最初に飛び出してきたのは、さっきの個体より一回り小さい魔狼が二頭。だが鋭い牙と爪は十分に脅威だ。後方からは、革鎧を着た男たちが三人。粗末な剣、斧、短槍を持ち、顔つきには下卑た欲と焦りが浮かんでいる。
「いたぞォ!」
「やっと追いついたか、このクソ獣人が!」
「……っ」
ミアが龍真の背へぴたりとくっついた。
男たちのうち、鼻に傷のある痩せた男がミアを見て舌舐めずりする。
「ずいぶん走らせやがったな、商品。余計な手間かけさせやがって」
商品。
その一言で、龍真の目がすっと冷えた。
男たちはそこでようやく龍真の存在をまともに認識したらしい。
一番前にいた大柄な男が眉をひそめる。
「あ? なんだお前」
「その剣……うちの護衛のもんじゃねえか。てめえ、まさか森の魔物にやられた仲間から拾ったのか?」
「いや、違うな。血が新しい。……こいつ、やりやがったのか」
龍真は答えない。
代わりに、男たちの立ち位置と武器を一瞬で見切る。大柄な斧持ちが正面。傷男は短槍。残る一人は剣。魔狼は左右から飛び込むつもりだ。烏合の衆だが、ミアを庇いながらなら厄介ではある。
だが、問題になるほどじゃない。
傷男がへらへらと笑った。
「まあ、事情はどうでもいい。そっちの獣人はうちの商品だ。大人しく渡せば、お前の命までは取らねえよ」
「……」
「運が良けりゃ、手間賃くらいはやる。どうだ? 悪くねえ話だろ」
龍真は一歩だけ前へ出た。
長剣の切っ先が、わずかに男たちの方を向く。
「名前を聞かれたら、先に名乗るのが筋だろうが」
男たちが一瞬きょとんとする。
そして吹き出した。
「はあ?」
「何言ってやがる」
「この状況で礼儀作法かよ!」
笑い声の中、龍真は低い声で告げた。
「水戸龍真。しがねえ流れ者だ」
森の風が、短く吹いた。
「……だが、女を売り物扱いする外道に渡す筋合いはねえ」
笑いが止まる。
大柄な男のこめかみがひくりと動いた。
「てめえ……」
「女や子どもを脅して飯食ってる手合いを、俺のいたところじゃ外道って言うんでな」
龍真の声は荒げていない。
だが、そこに滲む静かな怒気だけで、空気がぴりつく。
傷男が吐き捨てるように言った。
「バカか、こいつ。異国の流れ者か知らねえが、この森でうちに逆らって生きて帰れると思ってんのか?」
「生きて帰るかどうかを決めるのは、お前らじゃねえよ」
その返答に、ついに大柄な男が吠えた。
「殺せ! 商品に傷つけんなよ!」
同時に魔狼が左右から飛ぶ。
龍真の身体が、半歩だけ沈んだ。
まず左。
飛び込んできた魔狼の牙を紙一重で外し、その喉元へ斜め下から刃を走らせる。血飛沫。勢いのまま魔狼は地面へ転がった。
間髪入れず右。
もう一頭が脚を狙ってくるが、龍真は柄で鼻先を叩き、体重を崩したところへ踵を落とす。首が嫌な音を立てた。
そこへ短槍が突き込まれる。
龍真は身体を半身に開き、穂先を躱すと同時に槍の柄へ手を添える。押すのではなく、流す。相手の勢いを殺さず斜めへ逸らし、そのまま足を払う。傷男は自分でも何が起きたか分からない顔のまま地面へ転がった。
「がっ!?」
剣持ちが横から斬りかかる。
龍真は一歩踏み込んで間合いを潰し、相手の肘へ肘を当てる。骨が軋む音。男の剣筋は完全に死んだ。そこへ柄頭を顎へ叩き込み、意識を飛ばす。
「なっ……!」
大柄な斧持ちだけが、かろうじて後ろへ跳んで龍真との距離を取った。
ほんの数息。
それだけで魔狼二頭と仲間二人が潰れている。
ミアが後ろで声も出せずに固まっていた。
龍真自身は、ただ身体が自然に動いただけという顔で剣を構え直す。
鹿島新當流。
剣の形が違っても、理は死なない。相手の起こりを見て、間合いを制し、最短で断つ。何年も、何十年も身体へ叩き込んできたものだ。異世界だろうが何だろうが、そう簡単に鈍るものじゃねえ。
斧持ちが顔を引きつらせた。
「ば、化け物か……!」
「お前らが言う台詞じゃねえだろ」
龍真が静かに返した、その時だった。
背中の奥で、熱が脈を打った。
「……っ」
閻魔大王の刺青。
衣の下、背一面に刻まれたそれが、心臓の鼓動に合わせるようにじわりと熱を増す。熱い。だが痛みじゃない。むしろ、身体の芯へ何かが流れ込んでくるような感覚だ。
視界が、妙にはっきりした。
男たちの呼吸。
筋肉の強張り。
足元の踏み込み。
森の風向き。
全部が手に取るように分かる。
「……またか」
小さく呟く。
さっき魔狼を斬った時にも似た違和感はあった。だが今はもっと濃い。力が内側から湧き上がる。腕が軽い。脚が地面を掴む。背中で、閻魔が目を開けたような感覚。
斧持ちが震えながらも叫ぶ。
「ひ、怯むな! 囲め!」
転んでいた傷男が再び槍を構え、残る一人も剣を拾ってにじり寄る。
三人で仕掛ける気らしい。
龍真はミアへ告げた。
「目ぇ閉じてろとは言わねえ。だが、俺の後ろから出るな」
「り、龍真さん……」
「すぐ終わる」
言い切った瞬間、龍真の姿がぶれた。
いや、実際にはぶれていない。
単に踏み込みが速すぎて、男たちの目にそう見えただけだ。
最初に潰したのは槍持ちだった。
槍は間合いを取れば厄介だが、懐へ潜ればただの棒だ。龍真は斜め前へ滑り込むと、穂先の下をくぐるように身体を入れ、相手の喉元へ柄を突き上げた。呼吸が潰れ、男の身体がくの字に折れる。
返す刃で剣持ちの手首を打つ。剣が飛ぶ。そこへ足を絡めて背を落とし、地面へ叩きつける。
残る大柄な男だけが、半狂乱で斧を振り上げた。
「うおおおおっ!」
大振り。
怒りと恐怖だけの一撃。
龍真は避けなかった。
正面から半歩踏み込み、斧の柄元を刃で弾く。軌道が逸れた一瞬の隙に、鳩尾へ膝。体勢が浮いたところへ喉元へ切っ先を止める。
ぴたり、と。
斧持ちの喉仏に、冷たい刃先が触れた。
「……っ」
男の額から冷や汗が落ちた。
あと一寸でも龍真が手を進めれば、喉が裂ける。
森が静まった。
龍真は低く言う。
「まだやるか」
「……」
「女を商品と呼んで、脅して、連れ回して、最後は売る。そうまでして食う飯ァうまいか?」
男は何も言えない。
というより、刃先の恐怖で声が出ない。
龍真の目は、底冷えするほど静かだった。
「俺のいた世界にも、お前みてえな外道はいた。腕っ節があっても、仲間がいても、最後に行き着く先は決まってる」
切っ先が、ほんのわずかに喉へ食い込む。
男がひっと息を呑む。
「外道には外道の報いがある」
それは脅しじゃない。
本当にそう信じている男の声だった。
やがて龍真は刃を引いた。
大柄な男は、その場へへたり込むように膝をつく。
「……殺さねえのか」
「お前みてえなのを斬っても、剣が汚れる」
龍真は吐き捨てるように言って、男の顎を蹴り上げた。
白目を剥き、巨体が後ろへ倒れる。
完全に静寂が戻った。
風が吹き、血の臭いと獣臭さが混じった空気を運ぶ。
龍真は長剣をひと振りして血を払うと、背中の熱が徐々に引いていくのを感じた。閻魔の刺青が、役目を終えたように静かになっていく。
「……便利なのか、不吉なのか、どっちだ」
独りごちる。
「り、龍真さん……」
恐る恐る呼ぶ声。
振り向くと、ミアが目を潤ませたままこちらを見上げていた。さっきまでの怯えとは違う。驚きと、安堵と、どうしようもない信頼が混ざった目だ。
「怪我はしてねえな」
「……はい」
「ならいい」
そう言って剣を下ろすと、ミアの頬がくしゃりと歪んだ。
「なんで……」
「何がだ」
「なんで、そこまで……っ。私なんかのために……命まで懸けて……」
ぽろぽろと涙が落ちる。
獣耳も尻尾も、さっきとは違う意味で震えている。
龍真は少し黙った。
それから、いつもの調子で言った。
「お前なんか、って面じゃねえだろ」
「え……」
「追われて泣いてる娘を見捨てられるほど、落ちぶれちゃいねえってだけだ」
飾り気のない言葉だった。
だがミアにとっては、それが何よりも重かったらしい。彼女は唇を噛み、堪えきれずにしゃくり上げた。
「う、うぅ……っ」
「泣くなとは言わねえが、今はまだ泣き止んどけ。森の中だ。匂いで余計なのが寄ってくる」
「は、はい……っ、ご、ごめんなさい……」
「謝るな」
ミアは慌てて涙を拭う。
その様子を見ながら、龍真は倒れている男たちの懐を探った。武器、革袋、干し肉の切れ端、銅貨みてえなものが少し。それから、折り畳まれた紙片が数枚。
紙の質も文字も見慣れないものだったが、不思議と意味は頭へ入ってきた。あの閻魔の力の副作用か、それとも転生とやらに付いてきたおまけか。どっちでもいい。
「……地図、か」
粗いが、このあたりの森と街道が描かれている。印がついている場所が幾つかある。そのうち一つには、他より濃い印と走り書きがあった。
グランフェル。
横に小さく、集積所、と記されている。
「龍真さん……それ……」
「お前、読めるか」
「はい……たぶん」
ミアは地図を覗き込み、みるみる顔色を悪くした。
「グランフェル……やっぱり……っ」
「知ってるのか」
「近くの町です。奴隷商たちが、捕まえた人を一度そこに集めるって……。そこから、もっと大きな場所へ売られていくって、聞いたことがあります……」
龍真は無言で地図を見た。
ただ森で少女一人を助けて終わる話じゃないらしい。もっと根がある。町ぐるみか、少なくとも拠点がある。
ミアが、おそるおそる続ける。
「私の村……襲われたんです。夜に、急に……。火をつけられて、みんな逃げて……でも、武器を持った人たちがいて……」
声が震える。
龍真は黙って聞いた。
「私、母さんたちとは途中ではぐれて……姉ちゃんが、私を逃がそうとして……っ」
「姉がいるのか」
「いました……いえ、います。きっと……まだ……」
ミアは自分に言い聞かせるように首を振った。耳が震え、尻尾が小さく揺れる。
「姉ちゃん、捕まりました。私を庇って……。だから、私……逃げて……でも……」
逃げたことを責めている顔だった。
そんな必要はねえ、と龍真は思う。だが、こういう時に下手な慰めは逆に刺さることもある。
だから、ただ事実だけを聞く。
「お前の姉さんも、そのグランフェルってとこにいる可能性が高いってことだな」
「……はい」
「名前は」
「ノアです」
「そうか」
龍真は地図を折りたたみ、懐へ入れた。
本来なら、見知らぬ世界で、見知らぬ争いへ首を突っ込むのは賢いやり方じゃない。まず自分の立場を知るべきだ。町に入るなら身分も金も情報もいる。敵の規模も分からない。下手に動けば、囲まれて終わる。
分かっている。
分かってはいるが。
ミアが祈るみてえな目で龍真を見上げていた。
「龍真さん……私……」
「そういう話なら」
龍真は短く息を吐いた。
「放っとけねえな」
ミアの目が大きく見開かれる。
ぽかんとして、それからぶわっと涙があふれた。
「ほ、本当に……?」
「嘘ついてどうする」
「でも、危ないです! 相手、たくさんいて……町にも仲間がいて……!」
「それは今さらだろうが」
龍真は淡々と答えた。
「お前をここで見捨てりゃ、俺ァたぶん死んでも寝覚めが悪い」
自分でも妙な言い回しだと思った。もう一度死んだようなもんだからだ。
だがミアにはそんな理屈はどうでもよかったらしい。彼女はくしゃっと泣き笑いみてえな顔になり、何度も頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……! ありがとうございます、龍真さん……!」
「礼はまだ早ぇ。助けてからにしろ」
「……はい!」
さっきまで萎れていた耳が、少しだけ立った。
その変化を見て、龍真はようやくほんの少しだけ頬を緩める。
森の奥を見やる。
奴隷商人の手下はここで終わりじゃないだろう。倒れた連中が戻らなければ、いずれ別の追手が来る。ここへ長居は無用だ。
「食い物はあるか」
「え……あ、少しだけ……でも、逃げる時にほとんど……」
「そうか」
男たちの荷物をひっくり返す。干し肉、硬いパンみたいなもの、革袋の水。質は悪いがないよりはましだ。龍真はそれをミアへ放った。
「食え」
「えっ、い、いいんですか」
「遠慮して倒れられても困る」
「は、はい……!」
ミアは両手で受け取り、夢中でかじりついた。よほど腹が減っていたのだろう。小動物みてえな勢いで食う。龍真は自分も少しだけ口にしてみたが、味は薄く、硬い。だが食えなくはない。
食いながら、もう一度地図を広げる。
現在地らしき森。そこから南へ半日ほどでグランフェル。途中に細い街道と、川。ほかにも見張り台のような印が二つほどある。
敵の行動範囲を知るには十分な情報だ。
「龍真さん」
「なんだ」
「さっき……背中、少し光ってました」
龍真の手が止まる。
「光ってた?」
「はい。赤く……怖かったけど、でも……なんだか、すごく……」
言葉を探すようにミアが耳を揺らした。
「……守られてる感じがしました」
龍真はしばらく黙った。
自分じゃ見えないが、刺青が実際に光っていたなら、あの熱は気のせいじゃない。閻魔大王の入れ墨が、この異世界で何かの力に変わっている。そう考えるのが自然だ。
自然じゃないことばかり起きている以上、今さら否定しても仕方ない。
「そうか」
それだけ言って、地図をしまう。
今は理由を探るより、使いどころを見誤らねえ方が先だ。
「動けるか、ミア」
「はい。もう大丈夫です」
「なら行くぞ。グランフェルだ」
「……はい!」
ミアが立ち上がる。まだ足元はおぼつかないが、目にはさっきまでなかった光が宿っていた。希望だ。自分一人じゃないと知った目だ。
龍真は倒れた男たちを一瞥した。
殺してはいない。だが、すぐには動けねえだろう。目が覚めれば、自分たちに何が起きたか骨身に染みて分かるはずだ。
「言っとくが」
気絶している連中へ、龍真は静かに告げた。
「次に会った時は、もう少しきつくいく。覚えとけ」
それだけ残し、踵を返す。
木漏れ日の差す森の中を、龍真とミアは歩き出した。
前を行くのは龍真。後ろをちょこちょことついてくるミアは、何度か龍真の背を見上げていた。
血で裂けた服。
広い背中。
その下に刻まれた、赤く光る閻魔大王。
怖いはずなのに、なぜか目を離せない。
そんな顔をしている。
「どうした」
「い、いえ……」
「なら前見て歩け。転ぶぞ」
「は、はい!」
返事だけは元気だ。
龍真は前を向いたまま、わずかに口元を緩める。
異世界。
獣人。
魔物。
奴隷商人。
厄介ごとは山ほどあるらしい。
だが、やることは単純だった。
泣いてる娘を助ける。
外道に報いをくれてやる。
それだけだ。
木々の隙間から、遠くの空が少し開ける。
おそらく、町はそう遠くない。
グランフェル。
そこに、次の火種が待っている。
龍真は懐の地図を軽く叩き、低く呟いた。
「待ってろ、って柄じゃねえが……まあ、すぐ行く」
「龍真さん?」
「いや、独り言だ」
ミアは首を傾げたあと、少しだけ笑った。
その笑顔を見て、龍真は改めて思う。
――放っとけねえな。
森を抜ける風が、二人の間を吹き抜ける。
その先に待つ町が、龍真にとって最初の異世界の戦場になることを、この時の彼はまだ知らない。
ただ一つ分かっているのは――
倒した奴隷商人どもの持っていた地図が示す先、近くの町グランフェルに、奴隷の集積所があるということだった。




