第21話 王都で噂になる“黒髪の流れ者”
王都では、噂が走る。
歩くのではない。
走る。
しかも、馬より速く、荷馬車より軽く、剣より厄介な形で広がる。
それを龍真たちが知ったのは、路地裏でカティア・ローゼンフェルトを助けた翌朝のことだった。
《三つ足カラス亭》の食堂は、朝からそこそこ騒がしい。
下町の宿らしく、早朝に出る荷運び、夜通し働いた職人、昼前から飲む気満々のろくでなしが、同じ粗末な卓を囲んでいる。焼けたパンの匂い、薄いスープ、安酒の残り香。王都の表通りの優雅さとは縁もゆかりもない、雑多な空気だった。
そんな中、龍真が卓に着いて飯を食い始めると、妙な視線が集まっているのにミアが先に気づいた。
「……見られてる」
小さな声で言って、耳をぴくぴく動かす。
龍真はスープをひと口飲んでから、周囲を見もせず返した。
「だろうな」
「だろうな、じゃないよ。なんか昨日より多い」
「多いですね……」
リリィも小声で同意した。
宿の隅でパンを齧っていた荷運びの男が、ちらちらこちらを見ている。隣の卓では二人組の職人が、あからさまに話題をこちらへ向けていた。さらに出入口の近くにいる女将まで、妙にニヤニヤしている。
ノアが苦笑する。
「目立ったものね、昨日」
「目立ってねえよ」
「目立ってたと思いますよ」
リリィが即答した。
「夜の高級商会街の裏で、貴族の馬車を助けて、黒髪で、獣人の女の子二人連れてて、しかも村正なんて目立つ刀まで差してるんですから」
「最後のは今さら隠せねえ」
「そこ以外も隠せてません」
ぴしゃりと言い切られ、龍真は少しだけ眉を寄せた。
そこへ、朝から安酒を飲んでいたらしい男がこちらを向いて笑った。
「よう、兄ちゃん」
がさつな声だが、敵意は薄い。
「黒髪の流れ者ってのはあんたか?」
「誰がそう言った」
「下町じゃもう有名だぜ。獣人庇って、王都ギルドの裏口を嗅ぎ回って、貴族の馬車まで助けた危ねえ男だってな」
「危ねえが余計だ」
「いや、だいぶ危ねえだろ」
宿の中に笑いが起きる。
龍真は露骨に嫌そうな顔をしたが、反論はしなかった。
その様子を見て、女将がカウンター越しに口を挟む。
「でもまあ、下町じゃ悪く言う奴ばっかりでもないよ」
「そうなの?」
ミアが聞くと、女将は肩をすくめた。
「獣人の娘が消える話なんざ、みんな嫌でも聞いてる。なのに守備隊もギルドも知らん顔だ。そんな中で、よそ者の流れ者が動いてるってんなら、そりゃ気にするさ」
「褒めてんのかけなしてんのか分かんねえな」
「両方だよ」
即答だった。
「王都ってのはそういう街さ。面白い奴は噂になるし、噂になった奴はろくな目にも遭わない」
エレオノーラがその言葉を静かに聞いていたが、やがて小さく頷いた。
「その通りです。王都では、目立つのはそれだけで危険」
「だったら静かにしてりゃいいのか」
「あなたが静かにしている姿が想像できません」
「ひどいな」
「事実です」
そこはもう全員反論しなかった。
朝食を終えたあと、一家はそれぞれの動きを始めた。
ただ、今日は昨日までと少し違う。こちらから探る前に、向こうから視線が来る。
下町を歩けば、人が見る。
怖がっている者もいる。
面白がっている者もいる。
明らかに探っている者もいる。
王都の噂は足が早い。
しかも、面白くて危なくて正体不明の話ほどよく広がる。
ミアとノアを連れて裏路地を抜ける途中、小さな獣人の子どもが母親の影からそっと顔を出した。
「あの人?」
「見るんじゃない」
「でも……あの人、昨日、貴族の人を助けたって……」
「しっ」
その母親は龍真へ怯えた目を向けたが、ミアの耳を見た瞬間、少しだけ表情を緩めた。
同じ獣人を連れている。
それだけで、下町の空気は少し変わる。
「……本当に、獣人の子を助けてくれるのかい」
母親が小さく問う。
龍真は足を止めた。
「助けられるならな」
「守備隊は何もしない。ギルドも金がないと動かない。教会だって口だけだ」
「知ってる」
短く返す。
「だから動いてる」
それだけで、女はしばらく黙った。
やがて、ほんの少しだけ頭を下げる。
「……なら、あんたの噂、悪くないよ」
ミアがその横で耳をぴんと立てる。
ノアも静かに笑った。
一方で、王都ギルドの空気は正反対だった。
リリィが昼前に戻ってきた時、その顔には「今日は本当に疲れた」がはっきり書いてあった。宿の卓へ突っ伏すように座り、水を一気に飲み干す。
「……露骨です」
「何がだ」
龍真が問う。
「王都ギルドの上の人たち、もう完全にこっちを意識してます」
リリィは額を押さえながら続けた。
「今日、受付の奥で“黒髪の流れ者に余計なことを話すな”って言ってるの、聞いちゃいました」
「早ぇな」
「早すぎますよ! しかも獣人二人連れてるとか、危ない刀差してるとか、貴族令嬢に近づいたとか、変な尾ひれまでついてました!」
「変なのが混ざってるな」
「全部本当なんですけど、並べると余計に危ないんです!」
その反応に、ノアが苦笑する。
「でも、王都ギルドが慌ててるってことは、少なくとも向こうに刺さってる」
「ええ。下っ端は好奇心、上は警戒って感じでした」
リリィはそこで少し真面目な顔になる。
「それと……王都ギルドの上層部、ロートベル商会の名を聞いた時だけ反応が違いました」
「違う?」
「怖がってる、というより、“触るな”って空気です。まるで、その名前の先にもっと上のものがいるって分かってるみたいに」
龍真が鼻を鳴らす。
「実際いるだろ。ゼルヴァインが」
「はい……たぶん、王都のギルド上層部にとっても、公爵家は“逆らわない方がいい相手”なんでしょうね」
その頃、エレオノーラは守備隊筋から戻ってきていた。
彼女は宿へ入るなり、周囲に人がいないのを確認してから声を落とす。
「こちらも同じです」
「何がだ」
「守備隊の一部で、あなたの噂が出ています」
龍真が露骨に嫌そうな顔をした。
「またか」
「ええ。“獣人を連れた黒髪の流れ者”“地方守備隊副長を引き込んで動いている危険人物”“礼儀は妙に丁寧なのに威圧感がある”」
「最後のが一番よく分からねえ」
「でも言われそうです」
「言われそうですね……」
「言われると思う……」
リリィ、ミア、ノアが綺麗に同意してしまい、龍真は不満そうに腕を組んだ。
だが、エレオノーラの話はそこで終わらない。
「ただ、悪いことばかりではありません。下の兵士や詰所の雑務係の中には、あなたを面白がっている者もいる」
「面白がる?」
「ええ。“王都じゃ誰も触れないところを、平然と踏んでる馬鹿がいる”と」
「褒めてんのか」
「半分は」
残り半分は、本気で危険視しているということだ。
王都の守備隊にとって、龍真はまだ得体の知れない異物だ。
だが、下町の人間や、下っ端の兵、雑務係のような“上の理不尽を知っている側”からすれば、その異物感がむしろ痛快に映る。
正と負、その両方から目をつけられ始めている。
「王都らしいな」
龍真が低く言う。
「好き勝手噂流しといて、面白がる奴と警戒する奴が同時に湧いてくる」
「それだけ、あなたがもう“下町のよそ者”で済まなくなってきてるということです」
エレオノーラの言葉には重みがあった。
昨夜の時点では、まだ裏路地の一件だった。
だが今は違う。
下町で話題になり、ギルド上層部が警戒し、守備隊の一部も名を知り、さらに貴族令嬢カティア・ローゼンフェルトとも接点を持った。
龍真という存在が、王都の“異物”として輪郭を持ち始めている。
その日の夕方、噂の広がりをさらに実感する出来事があった。
宿へ戻る途中、表通りと下町の境目で、小さな露店の老婆が龍真を見て言ったのだ。
「兄ちゃんがあれかい、黒髪の流れ者ってのは」
「……誰だそれ」
「あんただよ。獣人を庇って歩いてるって」
「物騒な呼ばれ方ねえ」
「でも、下町じゃ悪くない響きさ」
老婆はしわだらけの顔で笑った。
「王都は弱ぇもんから見捨てるからね。そういうのを嫌う奴が一人くらいいるなら、噂にもなるよ」
ミアがその横で、少し誇らしそうに耳を立てた。
龍真は面倒そうな顔をしていたが、否定はしない。
一方、その同じ頃。
王都の一角、高級商会街に近い石造りの屋敷では、まったく別の空気の中で同じ噂が話題に上っていた。
「黒髪の流れ者、か」
重厚な机の向こうで、細身の男が書類へ目を落とす。
年の頃は四十前後。髪は丁寧に撫でつけられ、衣服は地味だが上質。笑みは柔らかいのに、目だけが冷たい。
ゼルヴァイン公爵家の代理人、アルベルト・シュタイン。
王都の表では“有能な実務家”として知られ、裏では“公爵家の手足”として恐れられる男だ。
彼の前に控える商会役人が答える。
「はい。下町、ギルド、守備隊の一部で名が出始めています。獣人を連れ、王都ギルド裏口を嗅ぎ回り、昨夜はローゼンフェルト侯爵家のご令嬢の馬車にまで接触したと」
「接触、ね」
アルベルトは書類の端を軽く叩く。
「地方から王都へ来た流れ者にしては、少々派手すぎる」
「処理いたしますか」
「急ぐな」
男は微笑んだ。
だがその笑みには温度がない。
「正体も目的もはっきりしない段階で消せば、かえって余計な波を呼ぶ。まずは見る」
「監視を?」
「当然だ。王都で目立つ異物は、敵になる前に測るべきだ」
彼は机の上のメモに、新たな名を書いた。
水戸龍真。
それだけで、紙の上の名が妙に浮いて見える。
王都の人間の名ではない。
だが、だからこそ覚えやすい。
「獣人を庇う、礼儀正しい危険人物、か」
アルベルトは小さく笑った。
「面白い。少し会ってみる価値はありそうだ」
こうして、ゼルヴァイン公爵家の代理人は、ついに龍真という存在を明確に認識した。
そしてその日の夜。
《三つ足カラス亭》へ戻ってきた一家を待っていたのは、一通の手紙だった。
宿の女将が、妙に顔をこわばらせて封書を差し出す。
「昼過ぎに、立派な格好の男が来てね」
「男?」
「ああ。あんたに渡せって」
龍真は封書を受け取った。
上質な紙。
封蝋には、見覚えのある双頭の黒鳥。
ゼルヴァイン公爵家。
リリィがごくりと唾を飲み、ミアの耳がぴんと立ち、ノアが顔を強張らせる。エレオノーラの目はすでに鋭くなっていた。
「……早いですね」
「思ったよりな」
龍真は封を切り、中を読んだ。
短い文面。だが十分だった。
王都へ来たばかりの流れ者へ向けた、“丁寧な招待”。
だが、その実態は明らかだ。
探り。
牽制。
そして、相手がどこまで噛みつく男かを見るための直接接触。
龍真は手紙を畳み、低く笑った。
「来たな」
王都の噂は、ついに公爵家の耳まで届いた。
そして今、ゼルヴァイン公爵家の代理人から、龍真へ直接接触が入ろうとしていた。




