第19話 高位令嬢、路地裏で攫われかける
高級商会街の裏手を抜けた先、夜の王都は急に音の質を変えた。
さっきまで聞こえていた荷車の軋みや商人の怒鳴り声ではない。
今響いているのは、もっと切羽詰まった音だ。
馬のいななき。
車輪のきしみ。
抑えた怒号。
それに混じる、女の短い悲鳴。
龍真は先頭のまま、石畳を蹴った。
後ろからミアたちの足音が続く。
エレオノーラも迷わず走っていた。こういう時、理由を確認している暇がねえと分かっているからだ。
細い裏路地を二つ、三つと曲がる。
すると前方の袋小路に近い石畳の広場で、一台の馬車が止められていた。
豪奢だが、紋章は隠されている。
護衛も少ない。
明らかに、身分を隠した外出用の馬車だった。
その周囲を、黒い外套を羽織った男たちが囲んでいる。
五人。いや、路地の影にもう二人。
動きが違う。酔っ払いのチンピラではない。距離の取り方も、馬車を塞ぐ位置も、逃げ道を潰す配置も、最初から人を攫うつもりで慣れている連中だ。
「観念しなさい、お嬢様」
先頭の男が、妙に丁寧な口調で言った。
「大人しくしていただければ、傷はつけません」
「その言い方で信用する馬鹿がどこにいるの」
馬車の扉の前に立っていたのは、若い女だった。
年は十七、八ほど。
夜目にも分かるほど整った顔立ち。金に近い淡い茶髪をまとめ、簡素な外套を羽織ってはいるが、立ち姿に育ちの良さが隠しきれていない。
それだけじゃない。怯えてはいるが、腰が引けていない。目の奥に芯がある。
身分を隠しているつもりでも、隠しきれていない。
高位の貴族令嬢。そう見て間違いなかった。
その前に立つ御者らしき老人は、腕を押さえて膝をついている。護衛役らしい若い男も二人倒れていた。血は多くない。つまり襲撃者の狙いは最初から殺しではなく、口封じと拉致だ。
エレオノーラが小さく呟いた。
「手練れ……」
「ただの追い剥ぎじゃねえな」
「ええ。あの令嬢を“狙って”来ています」
そこで、囲まれた女が男たちを睨み返して言った。
「誰の差し金?」
「お答えする義理はありません」
「でしょうね。答えられない程度の主人に飼われているのだもの」
「……口の減らない」
その煽り方に、龍真は少しだけ目を細めた。
怖がっていないわけじゃない。
だが、震えながらも相手へ言葉を返す。
ただ守られるだけの貴族娘じゃないらしい。
男の一人が一歩前へ出た。
「腕を折る前に大人しくしろ」
「やれるものならどうぞ」
その瞬間、龍真の中で何かが決まった。
「ずいぶん人数かけてる割に、やってることはみみっちいな」
低い声が、路地裏へ落ちた。
全員の視線が一斉にこちらへ向く。
男たちの顔が変わる。
令嬢も目を見開いた。
龍真は暗がりから一歩出る。
腰には村正。
後ろにはエレオノーラ、ミア、ノア、リリィ。
「……何者だ」
先頭の男が警戒を隠さず問う。
龍真はそこで立ち止まり、いつものように居住まいを正した。
「お控えなすって」
襲撃者たちの顔に、一瞬だけ素で「何だこいつ」という表情が浮かぶ。
令嬢でさえ目をぱちりと瞬かせた。
龍真は構わず続ける。
「手前、生国と発しまするは常陸の国、今の世じゃ茨城県水戸。姓は水戸、名は龍真と申します。夜道で娘一人に男が何人も群がってる場面に出くわしやして、名も名乗らず見過ごすってのは、どうにも性に合いやせん」
ミアが後ろで小さく「始まった……」と呟く。
リリィはこんな緊迫した場面なのに、半分くらい「今それやるんだ……」という顔をしていた。
男たちは戸惑いを隠せないまま、じりじりと武器の位置を変える。
「見ての通り、しがねえ流れ者。されど、泣いてる女や弱ぇもんを囲んで脅す真似ァ気に食わねえ。つきましては、そのお嬢さんから手を引いて、とっとと失せていただきてえ」
沈黙。
そして次の瞬間、襲撃者の一人が吐き捨てるように笑った。
「馬鹿か、てめえ」
「状況分かってんのか?」
「流れ者ひとり、いや獣人と女連れが何人いようが同じことだ。首を突っ込まなければ見逃してやったものを」
龍真はわずかに肩をすくめる。
「見逃されるような生き方してねえんでな」
「なら死ね」
早い。
最初に動いた男は、さっきまでの芝居めいた丁寧口調が嘘みてえに無駄がなかった。短剣を抜き、一直線に令嬢ではなく龍真の喉を狙ってくる。邪魔者をまず消す判断も早い。
だが、それでどうにかなる相手じゃない。
龍真の右手が村正へ触れる。
抜く。
しゃらり、と澄んだ音が夜気を裂いた。
その刃筋は短い。
だが十分だった。
短剣の軌道を外し、そのまま手首を打つ。骨までは断たない。だが握力は奪う。短剣が石畳へ跳ねた。
「ぐっ!?」
間髪入れず、龍真は一歩踏み込む。
肩口へ体重をぶつけ、男を壁へ叩きつけた。
残る男たちも一斉に動く。
「やれ!」
「女ごと押さえろ!」
エレオノーラが前へ出る。
「ミア、ノア! 令嬢を!」
「うん!」
「任せて!」
姉妹が走る。
令嬢は一瞬だけ迷ったが、ミアとノアの獣耳を見て、敵ではないと判断したらしい。倒れた御者の側へ下がる。
一方リリィは青ざめながらも、倒れた護衛のそばへ駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか!? 息してる! よかった……!」
戦いは一気に荒れる。
襲撃者は手練れだ。
ただの賊なら、龍真が一歩出た時点で崩れる。だがこいつらは違う。数で包み、逃げ道を塞ぎ、声も必要以上に荒げない。仕事慣れした動きだ。
龍真は二人を相手にしながらも、意識の半分を全体へ向ける。
右。剣持ち。
左。細身、投げナイフ持ち。
奥にもう一人、弓まではいかないが飛び道具を構えている。
「王都はこういうのまで上等なんだな」
低く呟き、龍真は右へ入る。
剣が来る。
重くはない。速さで押すタイプだ。
村正で流し、返しで脇腹を浅く斬る。男が息を呑んだその瞬間、左から投げナイフ。龍真は身をひねってかわし、柄頭で投げ手の顎を打ち抜く。
石畳へ転がる男。
残る一人が令嬢へ向かおうとしたところで、エレオノーラの剣がその前へ割り込んだ。
「どこを見ている!」
女騎士の太刀筋は鋭い。
王都の夜道、狭い路地、それでも迷いがない。相手の肩を斬らず、武器だけを弾く。次いで足を払って転ばせ、のど元へ切っ先を突きつける。
「動けば刺す」
冷たい声に、男は固まった。
その間に、龍真は最後の一人へ踏み込んでいた。
こいつがたぶんまとめ役だ。目が違う。仲間が倒れても冷静で、逃げ時を計っている。
「てめえ……地方の人間じゃないな」
男が後ずさりながら言う。
「何者だ」
「さっき名乗ったろ」
「ふざけるな!」
男が袖口から細針を放つ。毒針か何かだろう。
龍真は村正の刃でそれを弾き、そのまま距離を詰める。
速い。
村正はやはり、こっちの世界の長剣よりよほど手に馴染む。
男が短く舌打ちする。
「おい! 撤収だ!」
「逃がすかよ」
龍真が言うより早く、男は煙玉のようなものを石畳へ叩きつけた。白煙が一気に広がる。視界が潰れる。
「龍真!」
「分かってる!」
龍真は気配を追った。
だがこいつら、逃げ方まで上手い。煙に紛れ、屋根伝いの抜け道まで使っている。
数人はそのまま夜の路地へ溶けた。
煙が晴れた時、地面に残っていたのは、気絶した二人と、短剣、針、それから一枚の布切れだけだった。
「逃げられたか」
龍真が低く言う。
エレオノーラは舌打ちこそしなかったが、悔しさは隠していない。
「一部は取り逃がしましたね」
「だが収穫はある」
龍真が拾い上げた布切れには、薄く香油の匂いと、上等な刺繍糸が残っていた。下っ端の夜盗が身につけるようなものじゃない。どこかに所属する人間の布だ。
一方、助けられた令嬢はすでに姿勢を立て直していた。
怯え切って泣き崩れることもなく、御者と護衛の無事を確認し、ようやく龍真たちへ向き直る。
「……礼を言うべきなのでしょうね」
第一声がそれだった。
気位の高い響き。
だが、無礼ではない。むしろ礼を言うべきと分かっているだけ、ずっとましだ。
「助けていただいて感謝します」
「そう思うなら、夜道をうろつくな」
龍真の返しは容赦がない。
令嬢の眉がぴくりと動く。
「うろついていたのではありません」
「じゃあ何だ」
「調べ物です」
「一人で?」
「護衛はいたわ」
彼女は倒れた二人を見る。
確かに護衛はいた。だが足りていない。
リリィがこっそりミアへ囁く。
「強い……このお嬢様」
「うん、なんかエレオノーラさんと違う方向で強い……」
「聞こえています」
令嬢が即座に返し、二人がびくっとする。
耳がいいのか、勘が鋭いのか。どちらにせよ、ただの箱入りではない。
エレオノーラが一歩前へ出た。
「あなた、家名は」
「名乗る必要があって?」
「あります。この状況で、あなたを狙った相手の質が異常です」
「……そうでしょうね」
令嬢は一瞬だけ迷い、それから小さく息を吐いた。
「カティア・ローゼンフェルト」
「ローゼンフェルト侯爵家……!」
リリィが思わず声を上げる。
王都でも名の通る高位貴族。
商業と宮廷の両方に強い、由緒ある侯爵家だったはずだ。
龍真は特に驚かなかった。
どうりで育ちが隠しきれていないわけだ、くらいにしか思っていない顔だ。
その反応に、カティアは少しだけ目を細めた。
「驚かないのね」
「そういう名前に弱い趣味がねえ」
「変わってるわ」
「よく言われる」
そこでようやく、カティアの口元がほんの少しだけ動いた。
笑ったわけではない。だが、完全な警戒は少しだけ解けた。
「あなたたちも、かなり怪しいけれど」
「否定はしねえ」
「でも、少なくとも今の連中よりはずっと信用できる」
そう言い切るあたり、聡明だった。
ミアがぽつりと呟く。
「怪しいのは認めるんだ……」
「認めないと不自然でしょう」
カティアは当然のように答える。
「夜の王都で、獣人の娘二人と、受付嬢みたいな女の人と、やたら怖い流れ者と、腕の立つ女騎士が一緒に行動している。怪しくないと言う方が無理よ」
「ぐうの音も出ないですね……」
「だろ」
龍真が真顔で言い、リリィが「そこで乗らないでください」と小さく抗議した。
エレオノーラはカティアを観察していた。
身分を隠して夜道を出歩く高位令嬢。
口封じと拉致を狙う手練れ。
これはただの家出娘の騒ぎではない。
「何を調べていたのですか」
エレオノーラが問うと、カティアはすぐには答えなかった。
代わりに、周囲の路地と、倒れた襲撃者を見回す。
「……あなたたち、どこまで知っているの」
「聞き方が回りくどいな」
龍真が言う。
「人攫いが王都ギルドと高級商会街に繋がってる。そんで、その先にはゼルヴァイン公爵家の影がある。今のところはそこまでだ」
「……!」
カティアの目が見開かれる。
その反応だけで、図星だと分かった。
「本当に、そこまで掴んでいるのね」
「お前さんは」
「私も同じ線を追っていた」
カティアははっきりと言った。
「最近、ゼルヴァイン公爵家の周辺で、人の消え方がおかしいの」
夜の路地が、一段静かになった気がした。
王都でも名の通る侯爵家の令嬢。
その彼女が、自ら王都の不穏さを探っていた。
つまりこれは、下町だけの噂ではもう済まない。
王都の上流階級、そのさらに奥にまで繋がる話だ。
龍真はカティアを見た。
気位は高い。
育ちはいい。
だが、それだけじゃない。自分の足で危険な夜道へ出てくる程度には、頭も腹も据わっている。
面倒な女が増えそうだな、と最初に思った。
だが同時に、使える情報を持っているとも分かる。
「……なるほど」
龍真が低く言う。
「王都の上流も、案外暇じゃねえらしい」
「暇ならこんなところにいないわ」
「だろうな」
カティアは龍真を見返す。
「あなたたち、何者?」
「しがねえ流れ者だ」
「それで通ると思ってるの?」
「通す気がないなら好きにしろ」
「……本当に変わってるわね」
だが、その言葉にはさっきまでの刺は少なかった。
怪しい。
だが信用に値する。
カティアはすでに、龍真たちをそう見始めているのが分かった。
王都の裏社会と、王都の表社会。
その接点が、今この夜道で生まれた。
そしてそれは、龍真が“ただの下町側の流れ者”で終わらなくなるきっかけでもあった。




