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第1話 閻魔の背中、異世界の森で目を覚ます

 鼻を突くのは、血の臭いだと思っていた。


 雨に濡れた路地裏。

 アスファルトに広がる、自分の血。

 遠くで鳴るサイレン。泣きじゃくる少女の声。

 腹を貫いた刃の冷たさと、背中に叩き込まれた鉄の重さ。あの感触は、まだ身体の奥に焼きついている。


 ――最後に見たのは、赤く燃えるように光る、自分の背中だった。


 閻魔大王。


 若い頃、覚悟を刻むつもりで背中一面に入れたあの刺青が、まるで生き物みてえに熱を持ち、血のように赤く発光していた。

 痛みの中で、確かに見た。

 裂けた空間の向こう、玉座のようなものと、炎の中に座す巨きな影。

 あれが夢だったのか、死に際の幻だったのか――その答えを知る前に、意識は闇へ沈んだ。


 だから、水戸龍真は最初、自分がまだ死にきれていないのだと思った。


「……ん」


 喉の奥から、低い息が漏れる。


 重い瞼を持ち上げる。視界に飛び込んできたのは、どこまでも高い木々だった。見たこともないほど太い幹。濃く生い茂る葉。木漏れ日がまだらに地面へ落ち、湿った土の匂いが鼻を満たす。


「……ここは」


 声に出した瞬間、龍真は自分でも妙な違和感を覚えた。


 路地裏じゃない。

 病院でもない。

 ましてや見慣れた水戸の街並みでもなかった。


 上半身を起こす。背中の下で乾いた葉がかさりと鳴った。肩と首を回し、腹に手を当てる。そこにあるはずの裂傷は、跡形もなかった。服は血で裂け、黒ずんだ痕が残っているのに、皮膚そのものは綺麗に塞がっている。


「……冗談きついな」


 静かに呟きながらも、龍真の顔には動揺がほとんど浮かばない。

 だが、背中の熱だけは消えていなかった。いや、むしろ目を覚ましてからの方がはっきりしている。肩甲骨のあたりから腰まで、広い面積がじわじわと灼けるように熱い。刺青の線一本一本が、皮膚の下でまだ脈打っているような、不気味な感覚だ。


 龍真はゆっくり立ち上がった。


 長身の身体が、樹々の間の薄明かりの中で影を落とす。

 黒いシャツは破れ、ジャケットもぼろぼろだ。だが立ち姿は崩れない。背筋は真っ直ぐで、呼吸も乱れていない。修羅場を何度もくぐってきた男の身体は、訳の分からねえ状況に叩き込まれても、先に足元を確かめることを忘れなかった。


 周囲を見回す。獣道のような踏み跡もなければ、人工物らしいものも見当たらない。木々の間から差し込む光の加減からして昼間だろう。鳥とも獣ともつかない鳴き声が遠くで響き、風が葉擦れを連れてくる。


 知らない森。

 知らない空気。

 知らない世界。


 あの赤い光と、閻魔のような影。死んだはずの傷が消えていること。どう考えてもまともじゃない。だが龍真は、そこで「ありえねえ」と頭を抱える性分じゃなかった。


 分からねえなら、まず生きる。

 それだけだ。


 背中の熱を意識の隅に追いやり、一歩踏み出そうとした、その時だった。


「――いやっ!」


 少女の悲鳴。


 高く、鋭く、切羽詰まった声だった。


 龍真の身体は、考えるより先に動いていた。

 右足が地を蹴り、濡れた落ち葉を散らす。悲鳴のした方向へ一直線に駆ける。枝が頬を掠め、低い茂みを踏み越え、急な斜面を滑るように降りる。


 走りながら、龍真の目は周囲を冷静に拾っていた。

 折れた枝。踏み荒らされた草。小さな足跡。何かに追われて無理に進んだ痕跡。しかも一人じゃない。大きな爪か牙を持つ獣のような何かの足跡も、幾つか混じっている。


「面倒な臭いがするな……」


 呟いた声は低い。だが足はさらに速くなった。


 樹々が途切れ、小さな空間に出た瞬間、龍真は状況を把握した。


 開けた場所の中央で、一人の少女がもつれるように倒れ込んでいる。年の頃は十四、五ほどか。茶色がかった髪はぼさぼさで、顔立ちは幼い。何より目を引いたのは、頭の上から覗く三角の耳と、腰のあたりで震える小さな尻尾だった。


 獣人。


 少なくとも龍真の知る日本にゃいねえ。


 その少女――ミアと後に名乗ることになる少女へ、黒ずんだ獣が飛びかかろうとしていた。


 狼に似ている。だが二回りは大きい。背は不自然に隆起し、牙は口の外まで突き出ている。唾液を垂らしながら喉を鳴らし、その目には獣らしい知性よりも、ただ獲物を裂くためだけの飢えた殺意が宿っていた。


 ミアが転んだ拍子に、すぐ横の地面へ一本の剣が落ちていた。柄と鍔の形は西洋剣に近いが、刃は細身で長い。手に馴染むかどうかも分からない代物だ。


 だが、武器があるだけで十分だった。


 龍真は走り込む勢いそのままに、地を滑るように身を沈め、剣の柄を掴んだ。


 その瞬間、不思議な感覚が走る。

 初めて触れたはずの得物なのに、妙に重心が分かる。刃の長さも、手の内も、まるで何年も振り慣れた道具のように身体へ入ってくる。


 ――理合は同じだ。


 龍真の目が細くなる。


 獣がミアへ飛びかかった。


「……遅ぇ」


 龍真は一歩、踏み込んだ。


 無駄のない軌道だった。

 剣を振り上げるというより、身体の中心をそのまま前へ滑らせるような一閃。鹿島新當流免許皆伝の理が、見知らぬ異世界の長剣へそのまま通る。


 ひゅ、と風が鳴った。


 次の瞬間、獣の首がずれていた。


 どさり、と重い音を立てて巨体が地に落ちる。胴と頭が遅れて分かれ、黒い血が草へ飛び散った。


 ミアの悲鳴が止む。


 静寂。

 葉擦れの音だけが、数拍遅れて戻ってきた。


 龍真は剣を斜めに下ろしたまま、倒れた獣を見た。刃毀れもなければ、手の痺れもない。むしろ驚くほど振りやすかった。


「……こいつはまた、妙なもんだな」


 独り言を落とし、龍真は剣についた血を軽く払う。それからようやくミアへ目を向けた。


 少女は目を真ん丸にして、腰を抜かしたまま固まっていた。耳も尻尾もぶるぶる震えている。助けられた安心より先に、いきなり現れた知らない大男への恐怖が勝っているらしい。


 無理もねえ、と龍真は思った。

 雨の夜の路地裏でも、こっちの顔を見て逃げる手合いは少なくなかった。まして異世界で、血塗れの剣を持った見知らぬ男だ。


 龍真はわざとゆっくり剣を下ろし、低い声で言った。


「……もう大丈夫だ」


 できるだけ静かに言ったつもりだったが、元々の声質が低いせいか、ミアはびくっと肩を震わせた。

 それでも、すぐに必死に頭を下げる。


「あ、あの……た、助けてくれて……ありがとう、ございます……!」


 言葉は少したどたどしい。だがちゃんと通じる。龍真は眉をわずかに動かした。


 言葉が通じる。獣人の少女。怪物みてえな狼。見知らぬ森。

 さっきから現実感が薄いにもほどがあるが、ひとまず意思疎通できるのは助かる。


「立てるか」


「は、はい……っ」


 ミアは慌てて立ち上がろうとしたが、足がもつれてまた尻もちをつきかけた。龍真が片手を差し出すと、彼女は一瞬ためらったあと、おそるおそるその手を取る。


 小せえ。骨ばっていて、冷たい手だ。まともに食ってねえ手だと分かる。


 龍真は何も言わずに引き上げた。


「怪我は」


「す、少し擦りむいたくらいです……でも、平気です」


 強がっているのが丸分かりだった。膝も肘も泥だらけで、息も上がっている。だが命に関わるような傷はないらしい。龍真は小さく頷き、周囲へ視線を走らせた。


「こいつに追われてたのか」


「い、いえ……これは森の魔狼で……本当は、もっと……」


 ミアの言葉がそこで途切れる。

 龍真が目を向けると、少女は唇を噛み、怯えたように森の奥を見た。


「追われてる、って顔だな」


「……っ」


「誰にだ」


 沈黙が一拍。


 やがてミアは、喉を震わせながら答えた。


「奴隷商です」


 龍真の目が、すっと細くなる。


「……奴隷商」


「私は……その、つ、連れていかれる途中で……逃げて……でも、森に入ったら魔狼が出て……っ」


 説明しながら、ミアの耳がへにゃりと垂れた。恐怖と疲労と、たぶん何日も張り詰めてきた緊張が一気に押し寄せてきたんだろう。声の震えが止まらない。


「やつら、まだ追ってきます……捕まったら、また売られて……今度は、もっと遠くへ……」


 龍真は何も言わなかった。

 いや、言えなかったというより、言うまでもなかった。


 女を売り物にする。

 子どもを追い回す。

 その時点で話は決まっている。


 筋が通らねえにもほどがある。


 だがここは自分の知る世界じゃない。法律も土地勘も、敵の規模も何一つ分からない。そこを無視して突っ込むほど龍真は短気でもない。


 まずは状況整理だ。


「名前は」


「え……?」


「お前の名前だ」


「あ、ミ、ミアです……」


「そうか」


 龍真は短く答え、自分の胸を親指で示した。


「水戸龍真」


 ミアがぱちりと目を瞬く。

 苗字も名前も、たぶんこの世界の響きじゃないのだろう。


「……リューマ、さん」


「龍真でいい」


「りゅ、龍真……さん」


 律儀に言い直すあたり、根は真面目な娘らしい。

 龍真は少しだけ口元を緩めそうになって、やめた。


「事情はあとだ」


 そう言って、手にした剣を軽く構え直す。

 森の空気が、さっきから妙にざわついていた。鳥が飛び立つ気配。葉を踏みしめる、複数の重い音。人間の足音じゃない。だが、さっき斬った魔狼とも違う。


 いや――違わない。もっといる。


「まずは生き延びるぞ」


 その声に、ミアがはっと顔を上げた。


「……え」


「まだ来るんだろう」


 龍真の視線は、森の奥へ向けられていた。


 次の瞬間、茂みの向こうで枝が大きく揺れた。

 ぐるる、と低い唸り声。一本ではない。二本、三本、それ以上。鼻を鳴らしながら、何頭もの魔狼が円を描くように近づいてくるのが分かる。


 それだけじゃない。


 さらに遠く。

 人の声。金属の擦れる音。荒い息。木々をかき分ける複数の足音。


 ミアの顔から血の気が引いた。


「そ、そんな……もう……!」


 耳がぴんと立ち、尻尾が硬直する。

 彼女は震える指で森の暗がりを指した。


「ま、まだ追手が来ます……!」


 龍真は答えなかった。

 ただ一歩前へ出て、ミアを庇う位置に立つ。


 手にした異国の長剣が、木漏れ日の下で鈍く光る。

 背中の閻魔大王が、衣の下でじわりと熱を増していくのを感じた。


 異世界だろうが何だろうが、やることは変わらねえ。


 弱ぇ者泣かせは、見過ごせない。


 森の奥から、今度ははっきりと人間の罵声が響いた。


「いたぞ! あの獣人だ!」

「逃がすな!」

「商品に傷をつけるなよ!」


 龍真の目が、静かに据わる。


「……なるほど」


 低く落とした声は、冷えていた。


「外道がまとめて来るってんなら、手間が省ける」


 魔狼の唸りと、人間の怒号。

 森のざわめきは、戦いの幕開けみてえに不気味に揺れていた。


 水戸龍真は、見知らぬ異世界の森で初めて、刃を正面へ向ける。


 その一太刀が、この世界の運命を大きく変えていくことになるとは――

 まだ、誰も知らない。

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