プロローグ 閻魔の背中、異世界の門を叩く
雨の匂いがした。
それは土の匂いでも、濡れたアスファルトの匂いでもない。
もっと淀んだ、嫌な匂いだ。人が怯え、追い詰められ、泣きそうになっている時にだけ漂う、胸くそ悪い空気の臭い。
水戸龍真は、夜の路地裏でその臭いを嗅ぎ取った。
茨城県水戸市、駅前から少し離れた古びた雑居ビルの裏手。
飲み屋の看板の灯りが雨粒に滲み、路地の奥では壊れかけた室外機が低く唸っている。
こんな時間に好んで近寄るような場所じゃない。
だが、龍真は足を止めなかった。
黒いシャツの上に羽織った安物のジャケットは、肩口から細かな雨を吸って色を濃くしている。
無駄のない長身。黙って立っているだけで空気が張り詰めるような男だった。
切れ長の目は暗がりの先を射抜き、低い靴音だけを路地に響かせて進んでいく。
奥から、くぐもった声が聞こえた。
「や、やめてください……!」
若い女の声だった。
震えている。無理に気丈さを保とうとして、それでも隠しきれない恐怖が滲んでいる。
「うるせえな。ちょっと付き合えっつってんだろ」
「スマホ返してください……っ」
「返してほしけりゃ、もうちょい愛想よくしろよ」
龍真は息を吐いた。
胸の奥で、静かな火が灯る。
弱ぇ者泣かせ。
それだけで十分だった。
角を曲がると、三人の若い男が一人の女子高生を壁際に追い詰めていた。
制服のスカートは雨で濡れ、肩にかけた鞄は地面に落ちている。頬には涙の跡があった。
三人のうち一人がスマホをひらひらと弄び、もう一人が女の手首を掴み、最後の一人が道を塞いでいる。
どいつもこいつも、目つきだけは威勢がいい。だが龍真から見れば、芯のねじ曲がった小悪党に過ぎない。
「……おい」
低い声だった。
三人が一斉に振り返る。
「あ?」
先頭の男が眉を吊り上げる。
だが、その言葉の先は続かなかった。
雨の中に立つ龍真の姿を見た瞬間、相手の顔色が微妙に変わったからだ。
長身。
鋭い眼差し。
無表情なのに、どういうわけかその場の空気を一人で支配してしまうような迫力がある。
龍真はゆっくりと近づき、少女と男たちの間に立った。
「その子から、手ぇ放しな」
「なんだテメェ」
「見て分からねえか。通りすがりだ」
淡々とした声音だった。
だが余計に怖い。
「通りすがりが首突っ込んでんじゃねえよ!」
威勢をつけるように叫び、男の一人が龍真の胸を小突こうとした。
次の瞬間、その手首は龍真に掴まれていた。
「いっ――」
叫びは最後まで続かない。
龍真はほんの少し手首を返しただけで、男の膝を路地に着かせた。無理な力ではない。理にかなった崩しだった。
「やめとけ。怪我するぞ」
「してんのはこっちだろうが!」
残りの二人が一気に飛びかかる。
龍真は半歩だけ身を引いた。
それだけで一人目の拳は空を切る。二人目の蹴りは壁を叩いた。
その隙に、龍真の肘が一人の脇腹へ沈み、もう片方の男の顎を掌底が打ち抜く。
「がっ……!」
「ぐ、う……!」
どさり、と二人が折り重なるように倒れた。
最初に膝をついた男も這うように距離を取る。
三人とも、何が起きたのか理解できていない顔だった。
龍真は少女を振り返らずに言った。
「嬢ちゃん、立てるか」
「は、はい……」
「じゃあ拾えるもん拾って、表通りまで走れ」
「で、でも……」
「いいから行きな」
少女は震える手で鞄を拾い、落ちたスマホを奪い返すように抱きしめた。
そして何度も振り返りながら、路地の出口へ向かって走り出す。
それを見送って、龍真は男たちへ向き直った。
「今夜のところは、それで勘弁してやる。消えな」
普通なら、ここで終わる。
小悪党にそれ以上の度胸はない。そういう類の連中だ。
だが今夜の雨は、ひどく胸騒ぎがした。
倒れていた男の一人が、顔を歪めて笑った。
「……ナメんじゃねえぞ、この野郎」
その手に、鈍く光るものがあった。
ナイフだった。
次の瞬間、もう一人が路地脇に停めてあった原付の荷台から金属バットを抜いた。
最後の一人も、ポケットから折りたたみ式の刃物を取り出す。
龍真の目が細くなる。
「最初から、そういうつもりか」
「一人でカッコつけてんじゃねえ!」
「ぶっ殺せ!」
狭い路地で、一気に三方向から来る。
龍真は舌打ちひとつせず、最短で動いた。
バットの軌道を半身でかわし、持ち主の鳩尾へ拳を叩き込む。
うめきと共に男が沈む。
左から来たナイフ持ちの手首を弾き、蹴りで刃物を落とす。
そのまま肩を入れて壁に叩きつける。
だが、最後の一人が速かった。
少女が逃げた先――路地の出口付近に、へたり込んでいたのだ。
恐怖で足がもつれたのだろう。まだ遠くへ行けていない。
「ひっ……!」
男は少女の髪を掴み、喉元にナイフを突きつけた。
「動くな! 動いたらこいつ刺すぞ!」
雨音が、やけに大きく聞こえた。
龍真は止まった。
少女の顔は真っ青だった。唇が細かく震えている。
男は呼吸を荒げ、半狂乱の目で喚く。
「道あけろ! 警察呼ばれたら終わりなんだよ! 分かんだろ!?」
「……ああ」
「だったら下がれ!」
「そいつぁ無理だ」
「あ!?」
龍真の声は静かだった。
「女の喉元に刃ぁ当てて、通る話があるかよ」
男の顔が引きつる。
まともな理屈じゃない。だが、龍真の目は本気だった。
一歩。
龍真が前へ出る。
「来るなっ!」
男の手が震え、刃先が少女の皮膚に薄く食い込む。赤い線が走った。
少女の目に涙が溢れる。
それを見た瞬間、龍真の中で何かが決まった。
理屈じゃない。
計算でもない。
そうする以外、龍真にはなかった。
地を蹴る。
男が反射的に刃を引くより、龍真が踏み込む方が早い。
少女を抱き寄せるように庇い、身をひねって急所を外す。
だが、完全には避けきれない。
ずぶり、と。
鈍く、嫌な感触が腹の脇を貫いた。
「ぐっ――」
熱い。
次に冷たい。
遅れて、猛烈な痛みが全身を駆け上がる。
龍真は少女を押し出すようにして背後へ逃がし、空いた拳で男の顎を撃ち抜いた。
男は白目を剥いて倒れる。
だが、終わりではなかった。
最初に沈めたはずのバット持ちが、ふらつきながら立ち上がっていた。
獣みたいな顔で叫び、全力でバットを振り下ろしてくる。
避ければ、少女に当たる。
だから龍真は避けなかった。
背を向け、少女をかばう。
直後、鈍い衝撃が背中を砕くように突き抜けた。
ぐしゃり、と鈍い音。
肺から息が押し出される。膝が揺れる。
それでも龍真は倒れなかった。
「走れ!」
少女が泣きながら駆け出す。
路地の先で、人の叫び声が上がった。誰かが警察を呼んだのだろう。
男たちは完全に腰を抜かし、散り散りに逃げていった。
龍真はそれを追わない。
追う必要もなかった。
もう、脚に力が入らない。
雨の中、龍真はゆっくりと壁にもたれた。
腹から血が流れている。背中も熱い。いや、熱いというより、焼けるようだった。
「……ちっ」
情けない声は出さない。
それでも口の端から血が垂れた。
遠くでサイレンが鳴っている。
少女の泣き声も聞こえる。
だがそれらが、やけに遠い。
視界の端が黒く滲む。
龍真はゆっくりと雨空を見上げた。
「ったく……最後まで、損な性分だ」
そう呟いた時だった。
背中が、燃えた。
「――っ!?」
ただの痛みではない。
熱が皮膚の下から噴き上がってくるような、異様な感覚。
背に刻まれた閻魔大王の刺青が、肉ごと、骨ごと、魂ごと灼くように熱を帯びる。
龍真の呼吸が止まった。
熱はやがて光へ変わった。
ジャケットの内側から、赤黒い光が漏れ出す。まるで溶岩のような、血のような、不吉で神々しい光。
「な……んだ、こりゃ……」
誰も答えない。
だが、確かに“何か”がいた。
視界の奥。
雨の夜の路地裏が、ぐにゃりと歪む。
空間が裂け、赤い業火のような景色が覗いた。
その中に、巨大な影が見える。
玉座。
炎。
山のような威容。
そして、睨み下ろしてくる巨顔。
閻魔大王。
馬鹿げている。
出血多量で見ている幻覚にしちゃ、あまりに鮮明すぎた。
だが、その眼差しは確かだった。
裁く者の目ではない。
値踏みするような、試すような目。
低く、地の底から響くような声がした。
『水戸龍真』
路地裏の空気そのものが震えた。
龍真は笑うしかなかった。
「……死に際にゃ、ずいぶん大物が迎えに来るじゃねえか」
『貴様の背に刻まれしものは、ただの虚仮威しではない』
『弱きを救い、外道を斬り、己を律するための誓い』
『その覚悟、見届けた』
赤い光がさらに強くなる。
血で濡れた地面が、まるで水面のように揺れた。
『問う』
『貴様、なおも剣を執るか』
『なおも守るか』
『なおも、筋を通すか』
龍真は朦朧とする意識の中で、鼻で笑った。
「……いちいち聞くな」
「そういう生き方しか、知らねえよ」
一瞬、閻魔の貌が笑った気がした。
『ならば行け』
『その魂、異界に落とす』
『次の地で、貴様の仁義を試せ』
視界が真紅に染まる。
サイレンも、雨音も、少女の声も、全部が遠ざかっていく。
代わりに、身体が宙へ引き裂かれるような感覚が走った。
龍真は最後に、自分の胸の奥で確かに思った。
――助かったなら、それでいい。
その次の瞬間。
水戸龍真は、死んだ。
そして――
目を覚ました時、彼の鼻に届いたのは、血と雨の臭いではなかった。
深い森の匂い。
湿った土。
見たこともない花の香り。
遠くで鳴く獣の声。
頬を撫でる風は、どこまでも澄んでいた。
ゆっくりと目を開く。
そこに広がっていたのは、知らない空。
知らない木々。
知らない世界。
そして胸元には、見覚えのない黒い外套。
傍らには、一振りの刀に似た長剣。
龍真は身を起こしかけ、腹に手を当てた。
あるはずの傷は消えていた。
代わりに、背中がまだ熱を持っている。
遠くから、悲鳴が聞こえた。
「いやっ、来ないで……!」
少女の声だった。
龍真はゆっくりと顔を上げる。
森の向こう、獣の唸り声。複数の足音。追われている誰かの気配。
その瞬間、龍真は短く息を吐いた。
「……なるほど」
状況は何一つ分からない。
だが、やることは分かる。
彼は立ち上がった。
背中の閻魔が、衣の下でかすかに熱を帯びる。
「異世界だろうが何だろうが、弱ぇ者泣かせは同じかよ」
水戸龍真は、ゆっくりと剣の柄に手をかけた。
これは後に、王女も、女騎士も、エルフも、魔族娘も、
そして一つの国の運命すら呑み込んでいくことになる、
最強の任侠男の伝説、その始まり。




