幼なじみと恋するには
1.待ち合わせの彼
約束の時間は18時のはずだった。
白瀬沙月は駅の改札口の前で、電光掲示板の時計を何度も見上げている。
『待ち合わせ、18時で』
スマートフォンのメッセージに送られてきた文章はそこで止まっていて、遅れるなどの連絡もない。約束から40分経っていたが、それでも必ず彼は来るだろうと沙月は待っていた。
ただ、制服姿のままだったのが気になっていて、着替えてこればよかったかな…と後悔している。
「お嬢さん、ずっと誰かを待ってるみたいだけど大丈夫?」
サラリーマン風の中年の男が沙月に声をかけてきた。沙月はため息をついてから、返事をする。
「大丈夫です、お構いなく」
「時間あるなら、少しお茶でもどう?キミ、美人だからおじさん奢っちゃうよ」
ああ、またかと沙月はうんざりした。
1人でいると、こうして声をかけらることは少なくない。いくら断っても話しかけてきそうな時は無視をするのが一番だ。
沙月は男から目をそらした、その時。
「沙月、こっち!」
急に誰かがグイッと手を引いて、沙月は走らされる。
「悪い、遅れてごめん」
振り返った顔は、よく知っている人物だった。
「ね、あの人…似てない?」
「ホントだ~。声かけてみようか」
女の子たちのひそひそ話が聴こえてきて、沙月はチラリとその方へ視線を向ける。沙月と目が合うと、女の子たちは気まずそうな表情をしてすぐ話題を変えていた。
「ねぇ、目立ってるんだけど」
沙月はミルクティーを飲みながら、向かい側に座る人物に言った。
「そう?俺、ここのパンケーキ食ってみたかったんだよな」
自分が注目を浴びていることも気にせず、彼は嬉しそうにパンケーキを口に運んでいる。変装のためか、度数の入っていないメガネは掛けたままだ。
沙月と訪れたパンケーキのお店は、この辺りではちょっとした人気のお店で女性客が多い。
少し離れた席に座っている女の子たちは、チラチラとずっとこっちを意識している。
「涼ちゃん、自分が有名人だって自覚してる?パンケーキなんて似合わないもの食べてるの、見られて平気?」
「平気も何も、食べたいものを食べてるだけじゃん。普通の人と同じだよ」
「今頃、SNSで上がってるかもよ。俳優の羽村涼がパンケーキ食べてて可愛いって」
沙月はからかうように言ってやった。
そう、彼はいま人気上昇中の俳優、羽村涼だ。2年前に正式にデビューして、ドラマや映画に準主役で出るくらいの活躍ぶりだ。
子どもの頃から彼は周囲からモテていて、街でスカウトされることも多かった。
「プライベートの撮影や投稿は禁止してるから大丈夫。ほら、沙月も食えよ」
涼は沙月のためにパンケーキを小さく切ってフォークに差すと、沙月の口元に差し出してくる。
「ちいさい…」
「お前なぁ」
呆れたように涼は笑った。
沙月が羽村涼と会うのは2ヶ月ぶりのことだった。
涼は沙月の家の隣りに住んでいて、互いの両親は高校からの同級生だ。その縁あって、沙月も涼とは子どもの頃から遊んだりして家族ぐるみで仲がいい。
俳優になった今でもこうして会ったり、連絡をくれたりするのだ。
「あ、羽村涼じゃない?」
「きゃあ~、カッコイイよね~」
沙月と涼が座っている席を横切っていく女の子たちが気づいて、涼に向かって手を振ってくる。涼は嫌がりもせず、軽く手を上げてファンサービスに応えていた。
「そんなに食べて、夜ごはん食べられるの?みんな、ご馳走を作って待ってるって言ってたわよ」
すっかりパンケーキを平らげた涼に沙月は忠告するが、「平気、平気」と気にする様子もなく涼は笑う。
「朝から何も食べてなかったから、腹減っちゃってさ。まだ全然食える」
「そんなに食べても太らない体質、羨ましい」
「なに言ってんの。沙月は食べるのガマンして痩せすぎだろ。ふっくらしてる方が可愛いのにさ」
コーヒーを一口飲んで、涼はにこりと笑った。
相変わらず口が上手い、と思う。
昔から、沙月のことを「可愛い」と言ってくれる涼のために努力をしているのに、人の気も知らないのだろうなとため息が出た。
沙月は周囲を見回すと、こそっと涼に囁いた。
「そろそろ出ない?お店の中も騒がしくなってきたし」
涼の存在を聞きつけて、人が集まってきているのは明らかだった。店員が涼に気遣って客たちを席へと誘導しているが、通りすがりのフリをして姿を見に来る人も絶えない。
「そうだな。沙月が変に噂されても困るもんな」
涼は伝票を手に取って立ち上がると、周りの女の子たちに手を振ってレジへと向かう。すると女の子たちは沙月の存在を気にすることなく、涼の方へと集まって後を追っていった。
「あたしじゃなくて、涼ちゃんの方が噂されて困るでしょうに」
沙月は呟くと、席を立って先に店を出た。
自分がどれだけ人気者になったか自覚がないのか、涼は外で沙月と会うことも気にしない。嬉しいような、困るような複雑な気分だ。
「お待たせ、沙月。帰ろう」
涼が店から出てくると、沙月は頷いた。
「うん、ご馳走さま。ホントに良かったの?奢ってもらっちゃって」
「待ち合わせに遅刻したお詫び。それに、未成年の女子高生にお金を出させるわけにはいかないだろ」
そう言って、涼は先に歩き出す。
もうすぐ18歳になるのに、今でも子ども扱いされていると思うと沙月は少し哀しくなった。21歳の涼との距離は年齢だけでなく、心の距離がちっとも縮まらない。
涼の後をついて歩きながら、沙月はグッと涙をこらえていた。
2.強い女の子になるために
「沙月のこと、またイジメたな!」
ドカッと涼は、相手の少年を殴った。その拍子に少年はコロンと後ろに転がって、座り込むと急に泣き出す。
「うわぁぁ~ん!涼が殴った~‼」
「先生!羽村がケガさせた!」
小学校の教室で、そんな事が起きたのは沙月が2年生の頃だった。
少年がいつも沙月のことをからかって、小突いたり意地悪ばかりしているのを見かねた涼が手を出してしまったのだ。
「羽村、お前5年生だろ。いくら幼なじみがイジメられていたからって、手を出すのはダメだ。2年生とじゃ力の差がありすぎだ」
職員室で、涼は担任の教師から説教をされた。当事者である沙月と少年も横に並ばされていたが、教師の矛先は涼にばかり向けられている。
自分のせいで涼が叱られてしまって、沙月は涙が零れそうだった。
「でも、先生」
涼は言った。
「同じ2年生の男子と女子でも力の差はあるでしょ。毎日叩かれたり、言葉の暴力も受けていた沙月の気持ち、先生はわかる?沙月がどれだけ傷ついていたか知ってるの?」
「そ、それは…」
職員室内がシーンとなり、その場にいる教師全員が気まずそうな顔をしていた。
「俺は、亡くなった沙月のお母さんと約束したの。沙月を泣かせないって誓ったから、俺はこいつから沙月を守っただけだ」
まっすぐな眼をして言った涼に、教師の誰もが何も言えなくなってしまった。
沙月はこの日、初めて涼という存在を意識したのだった。
『俺が沙月を守る』
その約束は今でも続行中のようで、涼は2日と空けずに何かとメッセージを送ってくる。
【今日は雑誌の撮影、外さむいっ】
添付されている写真はきれいな教会の雪景色だった。場所はどこだかわからないが、雪の中での撮影なんだろうなと思う。
【がんばれ 風邪ひかないようにね】
それだけ送信すると、沙月はスマートフォンをコートのポケットにしまう。
この前の、パンケーキを食べに行った日から2週間が経っていた。
年末年始も涼は仕事だと言って自宅には帰ってこなかったが、初詣は夜遅くに待ち合わせて一緒に行ってくれた。
1月も、もうすぐ終わる。
「沙月、来月は誕生日だね」
電車の中で、親友の支倉結が言った。
「お誕生会でもしようかって、桜井くんが提案してきたんだけど」
「また、あいつ?何かと関わってこようとするんだから」
呆れたように沙月が言うと、結はふふっと笑った。気の強い沙月と違って、結はふんわりした雰囲気の優しい女の子だ。
「誕生日の日はご家族とお祝いするでしょ?だから、その前の日曜日にどうかって話してるんだけど」
「うん、大丈夫よ。ありがと、結」
「桜井くんにもお礼言ってね」
「はい、はい」
沙月は適当に返事をする。
桜井は同級生の男子生徒で、見た目は真面目そうなのだが中身は少し軽い性格だ。
結とは4年付き合っていたのに「友だちに戻りたい」と言って、今では結ともいい友だち関係を築いているようだった。
そして、今はーーー
「お帰りなさい、結さん」
駅に着くと、改札口の外で白瀬楓が待っていた。弟の姿を見て、待ち合わせていたのか…と気づくと、沙月は結に手を振る。
「先に帰るわね。またね、結」
楓がまだ中学生のため付き合ってはいないようだが、いい雰囲気の2人の邪魔はしたくないなと思って、沙月は足早に歩き出した。
親友の結は縁あって楓と知り合い、2人はいま恋をしている最中だ。
「恋…か。いいな、幸せそうで」
街を歩く人たちの中にもカップルを見かけて、沙月は羨ましくなる。
自分の恋は、あの頃から始まった。昔から正義感が強くて、いつも一緒にいて守ってくれる人。
彼は沙月の気持ちに気づいていない。いや、気づかれないように接しているのだから当然なのだけど。
ピコン、とスマートフォンのメッセージ通知の音が鳴った。
【来週、連休取れたから帰る。沙月の誕生日、お祝いしよう】
涼からのメッセージだった。
毎年、必ず誕生日を覚えていてくれて、家族と一緒に祝ってくれる。
本当は涼と2人で会いたい、という言葉をもう何度飲み込んできたことだろう。
【OK 楽しみ!】
仕事の最中のはずだから邪魔しないように、沙月は短い文と「OK」のスタンプで返信をしてメッセージを終わらせた。
「あ、ねぇねぇ。涼くんだ、見て見て!」
「きゃ~、本当!カッコイイ~」
商業施設の大型スクリーンに映画の告知が流れて、羽村涼の姿が映ると街ゆく女の子たちの声が聴こえた。沙月も見上げてそれを見つめる。
恋愛映画だろうか、主演は有名な男性アイドルだがカッコよさでは涼も負けてはいない。ヒロインの女優を相手に見つめ合うシーンが流れると、沙月の心はモヤッとした。
「俺、俳優を目指すことにした。だから沙月も応援してよ」
沙月が高校へ入学してすぐ、涼は突然そう言った。
これまでも何度かスカウトされては断っていたのに、今度は本気だった。通っていた大学も辞めて、毎日レッスンに通うと言って沙月と一緒にいる時間は急激に減っていった。
そんな簡単に人気が出るわけじゃないと思っていたのに、ドラマの端役を演じた涼の容姿が目を惹いてSNSから一気に人気に火がついていった。
それでも涼は、まだまだ自分は有名人ではないと言う。
「いつでも連絡してこいよ。沙月とこうしてごはん食べに行ったり、遊んだりは大事にしたいからさ」
涼がそんなことを言うのは、子どもの頃の約束を守ってのことだとはわかっている。でも、沙月ももう子どもじゃないのだ。
ドラマや映画のように、いつか涼には大事にしたい女性ができるはずだ。
その時、沙月は涼のことを祝福しようと心に決めている。涼に頼らなくて大丈夫なように、自分は強くならなくちゃいけなかった。
3.誕生日デート
2月1日。沙月の誕生日の1週間前に、涼は家に帰ってきていた。
「沙月、涼さん待ってるけど」
沙月の部屋のドアをノックして、楓が声をかけてくる。
着替え終わってはいるものの髪型が決まらなくて、沙月は何度もヘアアイロンをあててはやり直していた。
「だって、髪がまだ…」
「そのままでいいんじゃない。涼さん、ストレートが好きでしょ」
部屋に入ってきた楓のアドバイスに、沙月はドキッとする。
「なんで楓がそんなこと知ってるのよ」
「なんとなく。掃除するから早く出掛けちゃってほしいんだけど」
相変わらず愛想のない弟だ。
母が亡くなってからは父が家事をやってくれているが、そんな父の姿を見て育ったせいか小学生くらいから楓は家事をこなすようになって、今では沙月よりも完璧だ。
「あたしの部屋は、あとで自分でやるから掃除しなくていいけど」
「ついでだから。誰もいない方がさっさと終わるんだよね」
こいつ、追い出そうとしている…と沙月は思いながらも、楓に甘えることにした。
「ありがと。お土産買ってくるわね」
「それよりも約束の時間、とっくに過ぎてるから。涼さんの貴重な時間をムダにしないで、姉さん」
普段は名前で呼ぶくせに、嫌味を言う時だけ「姉さん」と言う楓に沙月は何も言い返せなかった。
「ごめん、涼ちゃん。お待たせしちゃった」
沙月がリビングに現れると、ソファに座っていた涼はふと顔を上げて驚いた表情をする。
「…なに?なにか、変?」
膝上の丈のチェックのワンピース姿の沙月は、どこかおかしいかと自分の服を見下ろしてみる。
「いや、似合っててビックリした。可愛い、沙月」
「あ、ありがとう」
涼は沙月のそばに来ると、セミロングの髪にそっと触れた。
「沙月のお母さんも、こんなふうに髪が長かったね」
「うん。お父さんに聴いて、ちょっと真似してみたの。最近、お母さんに似てきたって言われて嬉しい」
「沙月のお母さん、美人だったからね。沙月もきっと、もっとキレイになるよ」
さっきから褒めちぎってくる涼に、沙月の心臓はバクバクと破裂しそうだった。さすが俳優、キザなセリフも簡単に言えるのだと思ってしまう。
「じゃ、行こう。今日は沙月の誕生日祝いにしっかりエスコートさせてもらうよ」
「うん、よろしくお願いします」
涼に差し出された手を取って、沙月は笑った。
沙月の念願の、2人きりの誕生日デートだ。
涼は沙月を車に乗せると、エンジンをかけてゆっくりスタートさせた。
スポーティーな黒塗りの車体が、涼のイメージにとても似合っている。
いつの間に車の免許を取っていたのだろう、いつ車を買っていたのだろうと沙月は最近の涼のことは知らないことばかりだ。
いつも帰省する時は電車だったから、運転できるなんて予想もしていなかった。
「沙月、平気?車、怖くない?」
気遣って訊く涼に、沙月は笑った。
「大丈夫。涼ちゃん、運転うまいね。パパとは大違い」
沙月の父は免許はあるものの運転が苦手で、車にはあまり乗らないのだ。
「向こうではよく運転してるからな。今日は沙月のために少し遠出をしようと思ってるから、疲れたら休憩挟むから言って」
涼はサングラスを掛けると、車内の空調を調整してから車のスピードを上げていく。流れる音楽は沙月が好きだというグループの曲だった。
涼の服装もいつものカジュアルではなく、スタイリッシュで大人っぽいせいか雰囲気が違う気がして沙月は意識してしまう。
今なら、周りから恋人同士に見えるのかなと思いながら、ぼんやりと外の景色を見つめたのだった。
到着した先は、海沿いの高級ホテルだった。
ビュッフェスタイルの食事が人気のレストランが併設されていて、予約を取るのも大変だという噂の場所だ。
「涼ちゃん、ここって…」
沙月は気づいた。ここはシェフである父が働いているのだ。
「そう、白瀬パパのレストランだよ。こっそり予約をしておいたんだ」
そう言って、涼は沙月の手を引いて歩く。
玄関ロビーに控えていたホテルのスタッフが、丁寧に頭を下げた。
2階のレストランに行くと、店頭のスタッフに涼は名前を告げた。
「ああ、羽村さま。お久しぶりですね」
年配のスタッフはにこやかに涼に話しかける。以前もここに来ているくらい常連なんだろうなと沙月は思った。
「今日は可愛らしいお嬢さまとご一緒なのですね」
「彼女は白瀬シェフの娘さんなんだ。今日が誕生日なので、僕がご馳走したくてお連れしたんです」
いつもの涼と違って大人びた言葉を話す姿に、沙月はドキッとする。知らない大人の顔だった。
「そうですか、白瀬シェフのお嬢様でしたか。お誕生日おめでとうございます。こちらへどうぞ」
彼は沙月にニコリと笑うと、あまり人がいない奥のほうの席に案内してくれた。
「沙月、何が食べたい?料理を取ってくるよ」
涼が席を立つと、沙月も慌てて立ち上がる。
「あたしも行くから」
「いいから座ってろよ。適当に持ってくるから、たくさん食えよ」
「ありがと、涼ちゃん」
気遣いが細かい涼に、沙月は落ち着かなかった。
恋人ができたら、こんなふうに接するのだろうかと思うとまた胸がモヤモヤする。
涼の動作をずっと見つめていると、やはり有名人だからか他の客に存在を気づかれてしまったようだ。女性が数人、涼に話しかけていた。
涼が困っている、その時だった。
シェフの父が現れて、「ローストビーフを切り分けますので、どうぞお集りください」と客たちに声をかけて涼から意識をそらさせた。
名物のローストビーフを目当てに、あっという間に父の元へ行列ができてしまう。
その隙に涼は皿に料理を盛って、沙月の元へ戻ってきた。
「涼ちゃんのこと気づかれちゃったね。やっぱり人気者だもんね」
「白瀬パパのおかげで助かった。ローストビーフ、こっそり一番最初にもらっておいたぞ」
「おいしそう!あたし、パパが作るローストビーフが大好きなの。家ではオーブンが違うから作らないって言うくらい、こだわってるからあまり食べさせてもらったことないんだけど」
「でも沙月や楓の誕生日の時は料理を作ってくれるんだろ?白瀬パパに沙月をここへ招待したいって相談したら、張り切って作るって言ってくれたよ。だから今日は特別おいしいはずだ」
そんな計画をしてくれていたとは知らず、沙月は嬉しくなる。
それから2人で料理を楽しみながら食べていると、「沙月」と父が声をかけてきた。
「誕生日おめでとう」
父の手には2人分ほどの小さなデコレーションケーキがあって、苺が贅沢に盛り付けられていた。
「わぁ、可愛いケーキ」
「これはパパからのサービスだ」
「ありがとう、パパ」
嬉しくて、テーブルにケーキを置く父の手を沙月はギュッと握った。
「涼くんにもお礼をしなくちゃな。沙月をここへ連れてきてくれてありがとう」
「いえ、たいしたことでは…それより、俺こそ先ほどはご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「すっかり人気者だね。こちらへはお客様をお通ししないから、ゆっくりしていくといい。では、失礼するよ」
父は沙月の頭を優しく撫でると、涼に軽く会釈をして去っていく。
「沙月、切り分けてあげるよ」
「え?涼ちゃんも食べるの?」
「お前、これ一人で食べる気か…」
涼が呆れたように言うと沙月はクスクスと笑う。
「冗談だってば。涼ちゃん、切って」
沙月がケーキを渡そうと涼の方へ向けると、涼は突然スマートフォンを向けてパシャッと写真を撮った。
「18歳、おめでとう。いい記念写真だ」
撮った写真を沙月に見せて、涼はにやりと笑った。
「もう!急に撮るなんて意地悪~」
「いいじゃん。可愛いよ」
そう言ってケーキを受け取ると、涼は丁寧に切り分けてから沙月へ渡してくれる。沙月の分のほうが少し大きめで、そんな気遣いが嬉しかった。
食事を終えると、涼はホテルの最上階の展望デッキへ沙月を連れていった。
ここから見る海の景色はキレイだと評判で、休日だとやはり人が多く家族連れやカップルばかりだ。
「風が強いから、これ着てろよ」
涼はジャケットを脱ぐと、薄着の沙月の肩に羽織らせる。
「いいわよ。涼ちゃんも寒いじゃない」
「おとなしく受け取りなさい。俺は鍛えてるから平気なの」
涼はいたずらっぽく笑った。
「なんだか、今日は知らない涼ちゃんばかり見てる気がする」
「そう?こういう場所、あまり好みじゃなかった?」
「違うの。やっぱり大人なんだなって実感したの」
たった3歳差なのに、21歳の涼は沙月よりずっと大人の世界で生きているのだなと初めて知った。
いつもは子どもっぽい表情を見せる涼は、自分に合わせてくれているのかもしれない。
「沙月。俺が、なぜここへ連れてきたかわかる?」
「え…」
そう問われて、沙月は涼に視線を向けた。
「ここ、白瀬パパとママが出会った場所なんだって。大切な日には必ずここでお祝いしてきたって白瀬パパから聴いて、俺はいつか沙月をここに連れてきてあげたいと思ってた」
「そうなんだ…パパとママが」
4歳の時に沙月の母は病気で亡くなった。それからは父と、涼の父母が母親代わりとなって育ててきてくれたのだ。
沙月にとって母との思い出は少ないが、父はこれまで誰とも交際をせず再婚もしなかったから、今でも母のことをとても大切に想っている。
「白瀬ママが18歳の時にパパはここで約束したことがあると話してくれたから、俺も見習ってみようかなと思って」
「なにを?」
「まだ内緒。ほら、沙月。海、見てごらん」
涼が指を差した先の遥か遠くを、船がゆっくりと横切っていく。太陽の光が海中深くまで届いているため、海本来の鮮やかな青色がユラリユラリと波打っていた。
「キレイ…」
眩しそうに見つめながら沙月が言うと、涼も頷いた。
「うん、キレイだ」
涼の目線が沙月に向けられていたのを、沙月は気づかなかった。
4.縮まらない距離
「誕生日、おめでとう!沙月」
パンッ、パンパンッと沙月の家で、結と桜井がクラッカーを鳴らした。
テーブルにはたくさんの料理が並べられていて、作ったのはシェフをしている沙月の父だ。弟の楓も父をサポートして手伝っている。
「18歳、おめでとう。沙月ちゃん」
隣りの家の涼の親である羽村家も参加して、沙月にバラの花束をプレゼントしてくれた。
「ありがとうございます。結も桜井もありがと」
嬉しそうに沙月は笑った。
「俺、年末に初詣での待ち合わせをしていた沙月の相手が涼さんと知って、めちゃくちゃビックリしたんだよな。まさか幼なじみが俳優の羽村涼さんだったなんてさ」
桜井が、涼と出会ったきっかけを興奮気味に話す。
「この事を知ってるのは、私と桜井くんだけだから内緒にしてね」
結の言葉に桜井は「もちろん」とコクコク頷く。
「せっかくのお休みと伺っていたのに、お邪魔してしまってすみません」
結と桜井がペコリと頭を下げると、そばにいた涼はにこりと笑った。
「いやいや、俺のほうこそ便乗しちゃって悪かったよ。キミたちが沙月の誕生日をお祝いしてくれるって聞いて、一緒にやろうって提案したのはこっちだから」
涼と桜井は気が合ったのか、年末に会った時に沙月の知らないうちに連絡先を交換していたらしい。誕生日を祝う予定を立てていると話したことで、こうして白瀬家に集まって沙月の誕生パーティーは開かれたのだ。
先週、涼は沙月の誕生日デートをプレゼントしてくれたのに、今度は家族を含めてみんなで祝ってくれている。
父も、沙月の友だちが来ると聞いたせいか、食べきれないくらいの料理を次々と作ってくれていた。
涼は沙月の父にビールが入ったグラスを渡して乾杯すると、自分もゴクリと飲んだ。酒を飲む涼の姿を見るのは、沙月は初めてだった。
隣りに座ると涼は、いくつかの料理を皿に取って沙月に渡してくれる。
「ほら、沙月。今日はダイエット禁止な」
「わかってる。パパの料理はおいしいから、残さず食べるんだから」
「よし、負けずに桜井くんも食えよ」
「はい、いただきます!」
元気よく涼に返事をすると、桜井はガツガツと食べ始める。
「桜井さん、慌てなくてもまだたくさんありますって」
楓がグラスにジュースを注ぎながら、焦りながら桜井に言った。桜井の存在にみんなが明るく笑う。
「沙月、桜井くんは本当に彼氏じゃないのか?」
こそっと沙月の父が訊いてくる。沙月が涼以外の異性を家に連れてくるのは初めてのことで、気になって仕方ないようだ。
「ちがうって何度も言ってるでしょ。ただの友だち」
「でも沙月は昔から『男女の友情なんてない』と言っていたじゃないか。パパ、心配で心配で…」
「そう言っていたけど、友だちになっちゃったんだもの」
自分でも呆れるほどだが、桜井との友だち関係は悪くないと思い始めている。
「白瀬パパ、沙月は俺のものだから他の男になんて簡単にあげませんよ」
沙月の肩を抱いて涼がそんな事を言い出すと、冗談とはわかっているものの沙月の顔は急激に温度を上げていく。
「お、涼くん言うなぁ。いくらキミでも沙月はやらんぞ」
沙月の父は、涼の言葉にワハハと笑った。
「酔っ払いすぎよ、2人とも!」
涼の母親が引き留めてくれたおかげで、話題は別の話に移っていき沙月はホッとする。高鳴る胸が落ち着くまで、誰にも気づかれないように祈っていた。
「今日はありがと、結」
20時になって、結が帰宅すると言って沙月は玄関まで見送りに来た。結の隣りには楓がいて、家まで送っていくのだなと沙月は気づく。
幼い頃から「女の子には優しく!」と楓に口うるさく言って教育してきた甲斐があったと思う。
「こちらこそ、お邪魔しました。とても楽しかったね」
結はにこりと笑う。相変わらず優しく可愛らしい結に、沙月はギュッと体を抱きしめた。
「あたしも、すごく楽しい誕生日だった。嬉しかったわ」
小学生までは友だちと呼べる子がいなかったが、中学校へ入学してから知り合った結とは、一度もケンカをしたこともない親友だった。こうしてお互いの誕生日を祝い合って、大人になっても仲良くしていたい存在だ。
「沙月、頑張って」
結はこそっと囁いた。
「え…?」
「気持ちが届くといいね」
何も言わなくても、沙月の気持ちは結にバレている。
「べつに、あたしは…」
言い淀む沙月に、結は自分より少し背の高い沙月の頭をポンポンと優しく撫でる。結のほうが、まるでお姉さんのようだ。
「理想の高い沙月の想い人、とても素敵な人だね。応援してるから」
そう言って結は手を振ると、楓とともに歩き出す。
詳しいことを話さなくても、結にはわかっているのだ。沙月の好きな人は涼だということを。
「おい、結!置いていくなよ。俺も帰るから~」
桜井がバタバタと走って追いかけていく。
「じゃあな、沙月。またな!」
「気をつけて帰りなさいよ」
走りながら手を振ってくる桜井に、沙月は苦笑いをする。
後ろ姿が見えなくなると、沙月は空を見上げた。
寒い空の上には、満月に近い形をした月が明るく光を注いでいる。
あと何度、涼とこの誕生日を迎えられるのだろうと考えながら、沙月は家の中へと戻った。
「沙月」
自分の部屋へ戻ろうとした時、涼が沙月の手を引き留めた。
「どうしたの?」
親たちはまだリビングでお酒を飲んで楽しんでいるようで、ガヤガヤと騒がしい。
改まった様子で涼は、ジーンズのポケットから小さな箱を出して沙月の手に握らせた。
「18歳、おめでとう。これ、俺からのプレゼント」
「え…だって、この前も祝ってもらって、さっきも…」
みんなに祝ってもらった時に、「これは白瀬家と羽村家からのプレゼントだよ」と言って、欲しかったタブレットをもらったはずだった。
「これは特別だから」
そう言いながら、涼は沙月の髪に触れる。
「俺、仕事が忙しくなりそうで、しばらくこっちに帰ってこれないんだ。連絡も今までのようには頻繁には取れないと思う。ごめんな」
申し訳なさそうに涼は言う。
「そっか…うん、わかった。涼ちゃん、無理しないで。一流の俳優になるために頑張る時だもんね」
今までも、涼はきっと無理をして時間を作ってくれていたんだろうと沙月は気づいた。何でもないフリをするのが涼はとてもうまかったから。
寂しいと思ってはいけない、と必死で気持ちを落ち着かせた。
「そんな、寂しそうな顔するなって」
「え…」
困ったように微笑む涼に沙月はドキッとした。気持ちを見透かされている。
「沙月」
腕を引かれて、ぽすんと涼の腕の中に抱きしめられた。その胸に顔をうずめると、ドクドクと心臓の鼓動が聴こえてくる。
「ちゃんと待ってろよ。いいな?」
「…うん」
どういう意味なのだろうと疑問に思いながらも、沙月は頷いて返事をする。涼の抱きしめる腕の力が強くなった。
「沙月、細すぎ。もっと食わないと育たないぞ」
「え…でも身長162センチあるから、これ以上伸びなくても」
「じゃなくて、ここ、な」
涼は沙月の体を自分に押し付けさせて示した。あまり肉付きのない沙月の胸が涼の体に触れる。
「涼ちゃんのばかっ!」
沙月の手が涼の頬をパチンと打った。
「いててっ…ごめん、ごめん。じゃ、またな」
子どものようにいたずらっぽく笑うと涼は、手を振って沙月から離れていく。次はいつ会えるかわからないのにこのまま離れてしまっていいんだろうか、と思ったが沙月は動けなかった。
さっき渡された小箱は青色の箱に白いリボンが掛かっていて、沙月の手の中で開けてもらえるのを待っているようだった。
5.本当のこと
「あの、白瀬さん!」
卒業式の前日。最後の授業が終わって結とともに教室を出ると、誰かが沙月に声をかけてきた。振り向くと、別のクラスの男子生徒だ。
「お時間を少し、もらえるでしょうか」
緊張気味に彼は言った。
「沙月、私先に行ってるね」
彼の様子に空気を読み取った結は、先に廊下を歩いていく。薄々、沙月もわかっていた。これは告白だ。
廊下の隅へ移動すると、彼は沙月に手紙を差し出した。
「ふ、古臭いかもですけど、僕の気持ちを手紙に書いたので読んでほしいです。よろしくお願いします」
頭を下げて、一生懸命に言ってくれる彼に沙月は少し切なくなる。今まで告白されてもすべて断ってきていたから、彼もそれは承知の上だろう。
なのに、勇気を振り絞ってくれたのだと思うと、自分にはない彼の勇気が羨ましかった。
「ありがと。でも、ごめんね。好きな人がいるから受け取れない」
沙月が答えると、彼は顔を上げて沙月をまっすぐ見た。かすかに目が潤んでいる。
「いえ、こちらこそすみません。きちんと言ってくれて、ありがとうございます」
後悔はない、という表情だった。彼はペコリとお辞儀をすると、小走りに去っていく。
廊下の向こう側に彼の友人らしき2人の男子生徒たちがいて、彼が走ってくると慰めるように肩を組んで帰って行った。
「やっぱり告白だった?」
昇降口で待っていた結に訊かれて、沙月はコクンと頷いた。
「沙月、モテモテだね。これで3人目だっけ」
卒業前に気持ちを伝えたいと思っているのか、何度か告白を受けていた。
「みんな、勇気あるよね。すごいなって思う」
他人事のように言いながら、沙月は首に巻いていた白いマフラーを巻き直した。これは去年、涼が誕生日プレゼントにくれた物だから大切に使っている。
「明日、卒業式だもんね。みんな、区切りを付けたいのかもだね」
「区切り…か」
結の言葉を沙月は繰り返した。
あれから、涼からの連絡がこなくなって2週間が経っていた。最近はドラマだけでなく雑誌でも見かけることが多くなって、人気が高くなってきているのがわかる。
映画での準主役を演じた男子高校生役が評判よかったのだ。
「結。あたしもそろそろ、区切りをつけようかな」
「どういうこと?」
「ずっとあたしのことを守ってくれてありがとうって。もう子どもじゃないから心配しないで、って涼ちゃんに伝えたい」
みんなのように告白をする勇気はないけれど、俳優として生きていく涼を応援するならこれ以上甘えた存在ではいたくない。涼にとっての心配な幼なじみの女の子は、ひとりでも大丈夫だと伝えなくてはいけないとずっと思っていた。
「あ、でも結はずっとあたしのそばにいてよね。大学が離れても親友だから!」
結の手をギュッと握って沙月は笑う。結は大学へ進学、沙月はヘアメイクを学ぶために専門学校へと別々の道へ進むのだ。
「うん、もちろん。ずっとよろしくね、沙月」
結も手を握って笑うと、沙月は嬉しそうに涙を浮かべた。
翌日、快晴の天気の下で執り行われた卒業式は順調に終わり、教室や校庭で卒業生たちは記念写真を撮りあっていた。
泣いている人、笑っている人、手を振り合って去っていく人。
それぞれの姿を3階の教室の窓から眺めながら、沙月はふとある人物に目を留める。
正門の前に弟の姿があった。中学の制服姿で、手には花束を持っている。
「あいつ、なかなかやるじゃん」
おそらく結を待っているんだろうと、すぐに気づいた。
校庭に姿を現した結は、楓に気づくと走っていく。楓も結のそばへ駆け寄って行くと、結に花束を差し出した。
「いいなぁ、幸せそう」
沙月が呟くと、「ほんとにな」と隣りから声が聴こえた。いつの間にか桜井が横に立っていた。
「結が幸せそうでよかった」
眩しそうに見つめながら、優しい声音で桜井は言う。
「あんた…まさかずっと結のことが好きだったの?」
驚くように沙月が訊くと、桜井は苦笑いをする。
「バレたか。でも、結には話すなよ」
「言わないけど。そっか、ずっと好きだったのね」
「俺さ、最初からわかってだんだよな。結は俺のこと本気で好きになってくれないって。でも優しいから、自分から別れを言うなんてできない子だろ?だから、友だちに戻ろうって俺から言ったんだ」
「友だちで、よかったの?」
「友だちでもいいから、俺は結のそばにずっといたかったんだ。好きな子の幸せは一番近くで見守っていてあげたいじゃん?」
桜井はにやりと笑う。どこまで本気で言っているのか、イマイチよくわからない。
「あんたが、楓と結の邪魔をする姿しか思い浮かばないんだけど」
「ま、そんくらいは許してくれよ。楓くんには悔しい思いさせられてるんだからさ」
いつも軽い男だと思っていた桜井は、実は結のことをよく見ていたんだなと沙月は初めて知った。散々、なじるような冷たい事を言って申し訳なく思う。
「桜井、あたし…」
「だからさ」
桜井は沙月の言葉を遮って、続けて言う。
「沙月も気持ちをぶつけてもいいと思うぜ。もしダメだったとしても、幼なじみって関係はずっと変わらないだろ?」
「え…」
「涼さんのこと。ちゃんと自分の本当の気持ち、伝えろよ」
桜井は窓の外を指差した。それを追って視線を向けると、正門からスーツ姿の男性が走ってくるのが見える。
「まさか、涼ちゃん?」
「俺が連絡したんだ。今日ここに来なかったら、俺が沙月をもらうって」
桜井は愉快そうにククッと笑った。
「じゃあな、沙月。友だちの恋を応援してやれる俺の役目はここまでだ。この教室にはもう、誰もこないようにしてるから頑張れよ」
そう言って、桜井は手を振ると教室の扉を閉めた。誰もいない教室に、沙月はポツンと取り残された。
6.幼なじみと恋するには
バタバタと走ってくる音が近づいていた。先生がいたら「廊下を走るな!」と叱っているところだろう。
沙月はどんな顔をして涼と会えばいいのかわからず、ドキドキとして落ち着かない気持ちをどうすればいいのか考える。
そうしているうちに、教室の扉がガラッと乱暴に開かれた。
「沙月!」
「は…はい」
呼ばれて沙月は思わず返事をした。
飛び込んできて叫んでから、涼はひとり立っている沙月を見つけると周囲を見回した。
「大丈夫か⁉桜井くんは…!」
「あいつなら、少し前に帰ったけど」
沙月が答えると、涼はハッとしたように胸ポケットに入れていたスマートフォンを取り出してメッセージを確認した。すると、ガクッと机に手を付く。
「あいつっ…!」
机の上に投げ出されたスマートフォンの画面には「うそぴょーん」というスタンプが表示されていた。騙された、と気づいて涼は床にへたり込んだ。
「涼ちゃん」
汗だくの涼に、沙月はそばに寄るとハンカチを差し出した。心配してここまで走ってきてくれたことが、すごく嬉しい。
「あたしのこと、心配して来てくれたんだよね?」
涼の額の汗をハンカチでトントンと拭きながら、沙月は笑う。涼は沙月を睨むように見つめると、いきなり抱き寄せた。
「当たり前だろ!沙月は桜井くんと仲がいいから、彼の存在を知った時から俺はずっと心配してた。沙月の身近な男は俺だけだと思っていたのに、桜井くんから沙月をもらうってメッセージを見てすごく焦ったんだからな」
涼は沙月の体をギュッと強く抱きしめた。
「俺、待ってろって言っただろ。離れていても寂しくないようにプレゼントを渡したの、忘れたのか?なんで身につけてないんだよ」
叱るように強く言う涼は、初めて沙月に見せる姿だった。抱きしめられていた沙月は、涼の顔を見上げて潤んだ瞳を向ける。
「ごめん、まだ開けてないの。大切に引き出しの奥にしまってて…」
「ダメ、許さない」
そう言うと、涼は沙月の唇に触れる。涼の唇が噛みつくように塞いできて、沙月は言葉を紡ぐことができず唇を吸い取られた。
「沙月、好きだ」
唇が離れると、涼は沙月を見つめて言った。ずっと聞きたかった言葉に、沙月の目から涙がこぼれる。
「幼なじみとしてじゃない。沙月に出会った時から、俺は沙月だけが大切で大好きだったんだ」
「涼ちゃん…」
「本当はもっと一人前の大人になってから言うつもりだったんだけど」
桜井の策にはめられたと言いたげに、涼は深いため息をつく。
「涼ちゃん、来てくれてありがとう。あたしも涼ちゃんが大好き!」
沙月は涼の体に抱き着いた。
ずっとずっと言いたかった言葉、涼への気持ち。幼なじみでいいなんて何度も偽ってきたこの気持ちを、隠さず伝えていいのだと思うと嬉しかった。
「これからも沙月のことは俺が守っていく。約束するから信じてくれ」
まだ駆け出しの俳優、羽村涼との恋は容易なことでないのはわかっている。それでも好きだという気持ちはもう止められない。
「うん、涼ちゃん」
「卒業、おめでと。沙月」
涼はもう一度沙月を抱きしめると、沙月も甘えるように涼の体を抱きしめたのだった。
ピコン、ピコンとスマートフォンのメッセージ着信の音がした。
桜井はズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、画面をタップする。そのメッセージを確認すると、ククッと声に出して笑った。
「なんですか、桜井さん。急に笑って気持ち悪いですよ」
少し先を歩いていた白瀬楓は振り向くと、笑みを見せている桜井を冷ややかに見る。楓の隣りにいた結も振り返ると、ニヤついている桜井を見て微笑んだ。
「いい事あったんだ、桜井くん?」
「ああ。最高の褒め言葉をもらったよ」
結にそう返事をすると、桜井はまたスマートフォンの画面を見つめた。
『男女の友情も悪くないって教えてくれてありがと』
沙月からのメッセージだった。
涼をけしかけて逃げるように去ってしまったけど、うまくいったんだなと桜井はホッとしていた。
結もきっと、このまま楓といい関係になっていくのだろう。
「楓、のんびりしてると俺が結をもらっちゃうからな」
2人に聴こえないくらいの声で桜井は呟いた。すると、また楓がくるりと振り向く。
「桜井さん、ここでサヨナラしてもいいんですよ?」
さっきの言葉が聴こえている訳ではなかったが、タイミングのいい楓の言葉に桜井は一瞬ドキッとした。
「置いていきますよ」
「待てよ、楓くーん!」
急かすように言う楓に、桜井はじゃれつくように走って飛びついたのだった。




