後宮画師は氷の皇子に陰ながら愛される!! ~妹と浮気した婚約者が私を嘲笑った日、彼の破滅は始まっていた~
「おい、澄花。今日もお絵描きか?」
背が高く筋肉質な青年が遠慮なく戸を開く。
屋敷の一角、陽の差し込む静かな画房に粗野な声を響かせたのは、澄花の婚約者である烈真だ。
彼は軍功により台頭した武家の跡取り息子で、澄花は代々続く芸術一家の生まれである。
互いの家は名誉を高め合うため、二人を婚約させた。
所謂、政略結婚なのだが、澄花は彼が苦手だった。精悍な顔立ちをしているものの、その外見に反して中身は粗暴で、配慮も思慮もない男だからだ。
「何のご用でしょうか、烈真様」
「婚約者に会うのに理由がいるのか?」
「私の顔など別に見たくもないでしょうに……」
「まぁ、お前の地味な顔など見てもつまらないからな」
「…………」
確かに澄花は華やかではない。彩りに富んだ装いもせず、黒く長い髪を背中に垂らしている。
だが決して醜いわけではない。むしろ顔の造形は整っている方だ。涼やかな目元には芯のある静けさが宿り、鼻筋はすっと通っている。
だがそれでも烈真の目には、『地味な顔』としか映らない。飾られた美や、目を引く派手さ。そういったものにしか価値を見出せないのが烈真という男だった。
「聞いているのか、根暗!」
「大きな声を出さなくても聞こえていますよ」
「ならいい。俺がお前を蔑ろにするのは許されても、お前が俺を無視するのは許されないからな」
まるで自分が世界の中心であるかのような声音で言い放つ。
(人というものが、ここまで尊大になれるものなのですね……)
傲岸不遜という言葉をそのまま具現化したような発言に、驚きより呆れが勝る。
(言い返しても、この人の心には何も響きませんね……)
澄花は視線を眼の前にある紙の上へ落とす。
筆の先に描かれていたのは、一羽の小鳥だ。
墨の濃淡で柔らかく描かれたその鳥は、羽を広げて空を舞う姿をしている。地上から離れ、どこまでも高く、自由に。そんな願いを込めた構図であり、自信作でもあった。
しかし烈真は、ずかずかと歩み寄ると、絵に目を落として嘲るように鼻を鳴らす。
「これが大金になるんだろ。随分と楽な仕事だよな~」
「なら、あなたも描けばよいではありませんか?」
「お絵描きを? この俺が? 誰がやるかよ」
「能力がないからできないの間違いでは?」
澄花はつい皮肉を口にしてしまう。
烈真の眉がぴくりと跳ね上がると、彼は机の上に置かれていた墨壺を手に取る。そして突然、澄花の顔へと勢いよくぶち撒けた。
墨の飛沫が宙を舞い、容赦なく澄花の顔に降りかかる。冷たく、ぬめりを帯びた黒い液体が、白い頬や額に無惨に散る。
「ははっ、ぶっさいくだな、お前」
嗤い声が画房に響く。澄花は唇を噛みしめ、布で墨を拭う。その瞳は怒りで燃えていた。
「なにか文句でもあるのか?」
「いえ、なにも……」
(この幼稚な男性が私の夫になるのかと思うと気が重くなった……とは言えませんね……)
もし家同士の関係がなければ躊躇わず口にするが、円満な婚約関係を父から求められている以上、心のなかで毒を吐くしかなかった。
「遠慮するな。。言いたいことがあるなら言ってみろ」
「私は別に……」
「まぁ、そうだよな。何も言い返せないよな」
にやにやと、烈真はいやらしい笑みを浮かべる。
(まるで私を怒らせようとしているような……)
烈真にとっても両家の絆は重要なはずだ。だが最近の彼の無礼はますます酷くなっている。
(なにか狙いでもあるのでしょうか……)
思慮に耽っていると、それを沈黙と捉えたのか、烈真の笑みがより深くなる。
「ここまでされて黙ったままとはな。本当、情けない女だよ、お前は」
「――ッ……」
澄花の呼吸が一瞬止まり、喉の奥から声にならない声が漏れる。悔しさ、怒り、羞恥が混ざり合って、胸を焼く。
感情を押し殺そうとするほど、体のどこかに震えが生じる。怒りを叫びに変えられない代わりに、震えだけが本心を代弁していた。
烈真はそんな様子を楽しむと、満足そうに鼻を鳴らして背を向ける。
画房の戸口に向かって、歩き去る後ろ姿。その背中を、澄花はただ黙って見つる。
(私の手に刃物が握られていなかったことを、感謝することですね)
口には出さずとも、胸の内で呟いたその言葉は、鋭く冷たい。
握られていたのが絵筆でなければと、自分の考えにぞっとするが、それほどまでに我慢が限界に近づいていた。
(この屈辱は、絶対に忘れません……)
澄花は目を伏せる。紙の上で羽ばたこうとしていた鳥の絵も、今は静かに沈黙しているようだった。
●●●
ストレスを解消するべく、澄花は街を訪れていた。
賑やかな市場通りには露店が立ち並び、絹や香木、乾いた果実、染料の匂いが混ざり合って流れてくる。
(相変わらず賑やかですね)
通り過ぎていく人々を横目で見ていると、ふと、視界の端に見覚えのある姿が映り込む。
白地に紅の刺繍をあしらった華やかな着衣。ふわりと揺れる金の髪飾りは人目を引く。その派手な外見の持ち主は、澄花の双子の妹、紅蘭だった。
(……どうして、こんな場所に?)
紅蘭は一人で外出するのを嫌うタイプの性格だ。
違和感を覚えて目を凝らすと、その隣に立っていたのは、見間違えようのない男の姿。澄花の婚約者であるはずの烈真が、甘く緩んだ笑みを浮かべていたのだ。
(あんな顔、私には一度も向けたことがないのに……)
胸の奥に棘が刺さるような痛みを覚えながら様子を伺っていると、彼は紅蘭の髪に手を伸ばし、指先で飾りを直す。
まるで、恋人同士のような振る舞いに、澄花は思わず身を隠す。
(まさか、あの二人が……)
澄花は距離を保ち、目を離さずに跡を付ける。人通りが多いおかげで、距離を取っていれば尾行はさほど難しくない。
やがて二人は、通りの一角にある高級服店の前で足を止める。
店先には上等な絹織物が並び、戸口には香の匂いが漂っている。紅蘭は一歩前へ出て、ガラス張りの店内を覗き込んでいた。
その表情は、まるで子供のような期待に満ちている。目をきらきらと輝かせ、指先をぴんと立てて店の奥の飾り棚を指差す。
「素敵な帯ですわね……」
「買ってやろうか?」
「よろしいんですの!」
「いいさ。どうせ澄花に貢がせた金だ」
とんでもないことを口にする烈真。気づくと、澄花は拳を握りしめていた。
(勝手なことを!)
澄花はお金に不自由していないが、それは絵の依頼を引き受けていたからだ。
その収入の存在を烈真に知られ、彼は金を催促するようになった。
本来なら断るべきだろうが、烈真は受け取った日だけは大人しくなる。いずれ結婚する相手なのだから仕方がないと割り切って、大人しく従っていたのだ。
(でもまさか、私のお金を紅蘭へのプレゼントに使っていたなんて……)
胃の奥が熱を持ち、胸の内で膨れ上がっていく。理性では止めきれない激しい衝動が、澄花の中で爆ぜようとしていた。
(この人は、どこまで私を馬鹿にすれば……)
そのとき、足が勝手に動いていた。
人混みをかき分けるように、迷いなく前へ進む。二人の前に立ったその瞬間、烈真が眉をひそめ、紅蘭がぎくりと肩を揺らす。
「お、お姉様!」
「……何をしているのですか?」
「わ、私たちはその……たまたま、通りかかって……」
「そのような言い訳が通用するとでも?」
「そ、それは、その……」
紅蘭の声はかすれ、言葉にならないまま宙を彷徨う。視線を泳がせ、袖を握りしめたまま、まるで子供のように言い訳を探していた。
「これは、そう、たまたま店先で会っただけなんですの!」
「偶然で、帯を買ってもらうのですか? しかも私のお金ですよね?」
澄花の声に鋭い冷たさが滲む。だが張り詰めた空気を壊すように、烈真が欠伸を漏らしながら話に割って入る。
「もういいだろ。ごちゃごちゃとうるさいな」
面倒そうに紅蘭を背にかばいながら、澄花を見据える。
「丁度良い機会だ。この際だからはっきり言ってやる。俺との婚約を破棄しろ、根暗!」
「……正気ですか?」
「紅蘭はお前と違って可愛げがあるからな」
「だからといって、あなたと私の婚約は、家同士の繋がりで結ばれたものです。勝手に破棄していいものでは――」
「それなら問題なしだ。なにせお前の父親も認めた浮気だからな」
「……は?」
澄花の喉が、乾いたように詰まる。
「俺の浮気を知らないのはお前だけ。皆、見て見ぬふりってやつだ。家の繁栄のためなら、姉でも妹でも構わないって、そう言ってたぞ。はっきりとな」
「あ、ありえません!」
「信じられないなら、本人に聞いてみろよ」
「言われなくても、そうします!」
次の瞬間、澄花は踵を返し、地を蹴る。だが走り出した背中に、烈真の言葉が届く。
「負け犬は、惨めだな~」
屈辱を感じながらも澄花の走る足は止まらない。真実を知るために、彼女はグッと堪えるのだった。
●●●
澄花の足音が、石畳を打つ。
烈真の放った『俺の浮気はお前の父親も認めている』という一言が、頭の奥で何度も繰り返される。
そんなはずないと思いたかったが、烈真に嘘をついている気配はなかった。
(もし……本当に、お父様が知っていたとしたら……)
心臓が痛んで、喉の奥が詰まりそうになる。だがそれでも逃げるわけにはいかない。
屋敷の門をくぐると、見張りの者が驚いた顔で澄花を振り返るが、彼女は一瞥もくれずに廊下を駆け抜ける。
目指すのは、澄花の父親である玄雲が身を置く執務室。この家の心臓部とも言える場所だ。
澄花は廊下の手前まで辿り着くと、深く息を吸い込む。胸の中に渦巻く感情が、喉元でせり上がりそうになるのを、必死に飲み込んだ。
(進まなければ何も変わりませんから……)
覚悟を決め、戸に手を伸ばす。
「失礼いたします」
ゆっくりと戸を開けると、書架に囲まれた空間の中央で、父である玄雲が書類に目を走らせていた。
背筋は伸び、衣の乱れひとつない。筆を持つ手すら乱れず、その姿はまるで彫像のように冷ややかだった。
「お父様、少しお話ししたいことがあります」
「どうした?」
「烈真様が、紅蘭と密会しているのを街で目撃しました。事情を聞いたところ、お父様も公認している浮気だと。この話は本当なのですか?」
澄花の問いに沈黙が流れる。そして玄雲は重々しく口を開く。
「今頃気づいたのか?」
娘が裏切られ、踏みにじられたとは思えないほどあっさりとした声音だった。澄花の背筋に冷たい汗が流れる。
「では、あの話は本当なのですか?」
「烈真が紅蘭を気に入っているのは、随分前から察していたからな。重要なのは我が家が烈真の家と結ばれること。それが揺らがなければ、誰が花嫁かなど些細なことだからな」
「それは……」
あまりに勝手な都合ではないかと、怒りで握った拳に爪が食い込む。
「向こうが紅蘭を望むのであれば、婚約破棄を承諾してやれ。それで済む話だ」
「お父様……私は……ずっと、この家のために努めてまいりました。烈真様と関係が悪くならぬようにと侮辱に耐え……家を継ぐ者として、恥じぬよう頑張ってきました……」
「努力してきたことは認めよう。芸術の才能も素晴らしいものがある。だがな……画師にとって最も大切なのは、腕前よりも人脈だ。いかに宮中と繋がり、上の者と関係を持つか。それがすべてなのだ。実力など、所詮は飾りにすぎん」
「…………」
澄花は言葉を失う。夜遅くまで筆を握り、何度も納得がいくまで描き直してきた努力の日々がすべて無駄だと言われた気がしたからだ。
「世のすべての者が、絵を見る目に肥えているわけではない。むしろ大半はそうではない。誰が描いたか、どこで評価されたか、その肩書と背景を重んじるのが世の常だ。特に、後宮で評価されたという事実は強い。あそこに絵が置かれるだけで、数倍の価値が生まれるからな」
「ですが、それは……」
「言いたいことは分かる。だが現実も受け入れろ。己の感性を誇るだけでは、画師として一流にはなれぬのだ」
「…………」
澄花が黙ったのは反論する言葉が出てこなかったからではない。この場でどれだけ反論しても、目の前の男に届かないことを確信できたからだ。
「烈真の一族は、皇族との繋がりが深い」
玄雲は間を置かずに本題へ戻す。
「事実、第一皇子の直属の部下に推薦する話も進んでいるそうだ」
「第一皇子様ですか……」
「ああ。後宮で皇帝に継ぐ権力者だ。顔はほとんど知られておらんし、きっと烈真も会ったことはないだろう。だが噂で聞く限りだと、冷静で理知的、そして感情を表に出さないことから氷の皇子と呼ばれているそうだ」
玄雲の視線が、机上の書類へと戻る。わずかに筆先を整えながら、背筋を崩すことなく口を開く。
「我が一族が繁栄するためには、この縁談をなんとしても成功させねばならん。烈真が紅蘭との婚姻を望むなら、叶えてやるしかない」
「……次期当主の座はどうなるのですか?」
「こうなっては仕方がない。当主以外の者と縁談を結ばせるわけにはいかないからな。紅蘭に、私の後を継がせることとする」
「……正気ですか? 紅蘭は、絵が描けないのですよ!」
澄花の声に、ほんのわずか怒気が滲む。だが玄雲は、それすらも意に介さぬように言い放つ。
「それは問題ではない。紅蘭には、お前がついているからな」
「私に代筆しろと?」
「表に立つのは紅蘭だが、絵は澄花が描く。それでよい。まずは実績を積ませるのだ」
「実績ですか……」
澄花の心臓が強く脈打つ。喉が詰まり、息が苦しくなっていくのは、悪い予感が頭をかすめたからだ。
「……預けていた私の絵は、どこにあるのですか?」
玄雲の筆が止まる。無言のまま、ゆっくりと視線だけで澄花を捉え、わずかに口元を歪ませる。
「さすがに勘がいいな」
「質問に答えてください!」
「後宮主催の絵画競技会に、紅蘭の名で提出させてもらった」
「う、嘘ですよね?」
「嘘なものか、これで紅蘭は家を代表する若き絵師として評価される。我が家はさらなる発展を遂げるだろう」
玄雲のその一言が、引き金だった。
(私を踏みにじるのなら……)
魂を込めた絵が、妹の作品として扱われる。そして父は、それを喜べと強要する。到底、我慢できることではない。
「……私はこの家と縁を切ります」
「ふん、家の庇護を捨てて、絵一つで生きていけるとでも思っているのか? 野垂れ死ぬのが、関の山だ」
「そうなるのも覚悟の上です」
澄花は静かに立ち上がる。わずかな衣擦れの音が、張り詰めた空気の中でやけに大きく響いた。
戸を開けるとき、澄花は一度だけ振り返る。
父は筆を手に取り、もう娘には顔を向けていない。その態度には未練も情も感じられない。この家の出した答えを知った澄花は屋敷の外へと駆け出すのだった。
●●●
澄花が屋敷を飛び出してから、数ヶ月が経過した。
薄雲がたなびく空の下、都の外れにある人通りの多くない通りの一角に、小さな暖簾がかかる一軒の絵屋があった。
店の前に飾られた絵は、通りがかる者の目を引く。やわらかな筆致と、どこか心を和ませる色使いがあった。
その絵屋の店主こそ、他の誰でもない澄花である。
住まい兼工房となったこの店舗は、かつて空き家だった町家を借り受けたものだ。これもすべて、確保していた資金のおかげだった。
烈真に小遣いをせびられていたあの頃、澄花は表向きには従順な顔をしながらも、裏では過去に描きためた作品を売却した資金を密かに貯めていたのだ。
元々は結婚後の備えの資金だったが、思わぬところで役に立ち、生活の基盤を築くに至ったのだ。
絵屋は開店してから少しの間、ほとんど依頼が来なかった。
だが口コミが広がり、看板絵や掛け軸、婚礼や出産祝いの屏風などの仕事依頼が殺到しており、忙しい毎日を送っていた。
もっとも、すべてが順風なわけでもない。
今日もそうだ。ばさりと、暖簾が跳ね上げられ、土埃をまとった男が無遠慮に足を踏み入れる。
「これ、あんたの絵か?」
男は壁に飾られた掛け軸を顎で指し示しながら、ふてぶてしい目で澄花を値踏みする。
油気の多い指が紙の端に触れようとした瞬間、澄花はすっと身体を動かし、袖口でその手の動きを遮る。
「恐れ入りますが、お手は触れぬようにお願いいたします」
「ふん、生意気な店主だな」
その言い草にも、澄花は眉一つ動かさない。冷静さを保ち続ける。
「この絵。もっと安くできるだろ?」
「申し訳ありませんが、値引きのご要望には応じかねます」
「俺は客だぞ? その要望を無視するってのか?」
「まだご購入いただいていない以上、あなたはお客様ではありませんよ」
淡々とした返答に、男の額に皺が寄る。
「生意気な女だな……俺が『買ってやる』と言ってるんだ。ありがたく思って値下げすればいいんだよ」
「何度言われても同じです。価格を下げることはありません」
その声は揺るぎない。だがそれでも男は諦めない。唇の端を歪め、軽蔑の混じった言葉を吐き捨てる。
「ふん、強気なもんだな。せめて紅蘭くらい有名なら、その態度にも納得できるが……お前は、所詮、無名絵師だろうが」
「紅蘭……」
「あんたと同じ女絵師だが、後宮の絵画競技会の予選で評判になっている若き天才だ。あれこそが本物ってやつだ……ま、素人の俺でもそれくらいはわかるな」
男は満足げに鼻を鳴らし、どこか誇らしげに腕を組む。
一方、澄花の表情は凍りついていた。
(紅蘭の名前で出された、あの絵が……)
それは澄花が心血を注いで描いた一枚だ。その絵が今、妹の名で「本物」と称されている。
指先がかすかに震えるのを、澄花は袖の中でそっと握りしめる。それに気づかないまま、男は言葉を続ける。
「無名なんだから、お高くとまってないで現実を見ろよ」
「…………」
「聞いているのかよ、おい!」
声を荒げる男に対し、澄花は無言を貫く。頭の中で反論を組み立て、口を開こうとした、その時だ。
「なら、その絵、僕が買います」
落ち着きつつも、はっきりと響く声。それは風のように静かに、だが空気の流れを変える力を持っていた。
暖簾の向こう側から現れたのは一人の青年だ。瞳には澄んだ光が宿っており、整った顔立ちと絹のような黒髪は、息を飲むほどに美しい。
青年は通りすがりの者ではない。この店を頻繁に訪れてくれる常連客であり、澄花の絵に心を寄せてくれた、数少ない理解者の一人である。
名は清雅。佇まいは品があり、質の良い衣を肩から羽織っている。上流の出なのか、あるいはどこかの名家の若様か。詳しい素性は語られないままだが、言葉遣いの端々に育ちの良さが滲んでいる人物だ。
そんな彼の声が店に響いた直後、不意に割り込まれた形となった男は、目を剥き、顔をしかめて清雅をねめつける。
「誰だ、お前? 今こっちは交渉中なんだぞ!」
まるで縄張りを荒らされた野犬のように、男は言葉を荒げる。
だが、その威圧は清雅にはまるで通じない。物怖じせずに、真っ直ぐに視線を向ける。
「僕は澄花のファンでね。君のような見る目のない男に彼女の作品を購入してほしくないのさ」
なんなら倍額を支払っても安いと、清雅が続けると、男は言葉を吐き出せないまま、苦々しく舌打ちを残して、去っていく。
残された店内に静かな余韻が漂う中、澄花は頭を下げる。
「助けていただいて、ありがとうございました」
「気にしないでよ。僕はただ価値が分かる人に君の絵を買って貰いたいだけだからね」
清雅が優しく微笑むと、そのまま自然と雑談を始める。
最近頼まれた仕事の話や、茶屋の新しい菓子が美味しかった話まで――まるで長年付き合いのある親友のように、他愛のない話題がスラスラと飛び出してくる。
(まだ出会って間もないのに……)
そう思いながら、澄花はふと過去を思い出す。
「清雅様は初めて出会った頃から変わりましたよね」
「そうかな?」
「穏やかな笑顔は変わりませんが、以前は本心で笑っていませんでしたから」
「驚いたな。気づかれていたのか……」
「いえ、あの頃はまったく。ですが、今の清雅様は、きちんと笑ってくれますから……あの頃の笑みとは違うなと分かるようになったんです」
澄花がそう言うと、清雅は一瞬だけ目を伏せ、ふっと小さく息を吐く。
「実はね、僕は後宮で働いているんだ」
「後宮ですか!」
澄花が驚きに目を見開く。
後宮、それは皇帝の妃たちが暮らす華やかで閉ざされた世界である。
表向きは女の園であり、原則として男子禁制の場。唯一例外として、宦官という去勢された男性たちのみが、その内部で働くことを許されている。
だが目の前の清雅は、明らかに宦官ではない。澄花の戸惑いを察したのか、彼はやわらかく微笑みながら続ける。
「驚いたよね。でも、事情があってね。僕は後宮内への出入りを許されてるんだ」
声はあくまで穏やかだ。けれど、どこか、それ以上を語ることを避けるような間があった。
「後宮は、想像よりずっと閉ざされた場所でね。美しい衣装や煌びやかな宴の裏側には、駆け引きや嫉妬、野心が渦巻いてる……この国の権力者たちが集まる場所では、一瞬の油断も命取りになる。そんな空間に長く身を置いていると、人を疑うのが当たり前になってしまってね。感情を押し殺すようになったんだ……」
「清雅様……その気持ち分かります……私も裏切られましたから」
澄花は妹に婚約者を奪われたことや、絵を勝手に競技会に提出された話を打ち明ける。すると彼は悲しそうに眉根を下ろし、ボソリと呟く。
「……本当は、君が評価されるべきなのにね」
「私は周りの人たちが喜んでくれれば十分ですから」
「そう思える君は凄いよ。でもね……僕は、もっと欲張りなんだ」
「え?」
「いつか君を陽の光が当たる舞台に連れていく。約束するよ」
その真っ直ぐな言葉に澄花の頬がほんのりと色づく。彼の優しさに感謝しながら、日常の時を過ごすのだった。
●●●
その朝、澄花はいつものように絵屋の暖簾を掲げた。
軒先にはまだ朝の冷気がわずかに残っているが、射し込む日差しは穏やかで、店内には墨と和紙の香りがほのかに漂っている。
(……妙に静かですね)
澄花はふと手を止め、店先に目をやる。通りを行き交う人の姿はあれど、誰一人として店に目を向ける者はいない。
いつもなら、通りすがりに立ち止まってくれる客もいる。それが今朝に限っては誰もが足を止める気配すらない。
耳を澄ますと、かすかな声が風に乗って聞こえてくる。
「今日は後宮の絵画競技会、決勝戦の日だってな」
「紅蘭が出るらしいぞ。最近噂になってるじゃないか」
「後宮主催だから皇族も来るかもな。まさに天下一の画師を決める大舞台だよな」
妹の名前が耳に届いた瞬間、澄花の背筋に冷たい汗が流れる。
(私の絵が決勝まで進んだのですね……)
自分の作品が誰かにすり替えられたまま、脚光を浴びる現実に、冷えた苛立ちを覚える。
「……折角ですし、見に行きますか」
口にした言葉は穏やかだったが、その足取りには確かな決意が宿っている。暖簾を下ろし、木戸に鍵をかける。
空は晴れていた。まるで何事もないかのような、優しい陽気の中、澄花は人々の波が進む方向へと歩み出す。
やがて人の波を越えた先に、視界が開ける。
後宮に隣接する広場に特設の舞台が設けられており、舞台上には大きな屏風が左右に並んでいる。その裏にはきっと審査対象の絵が隠されているのだろう。
舞台の周辺には多くの人が集まっており、華やかな衣をまとった貴婦人に、髪を整えた書生、下級官吏、職人風の男たちまで、年齢も身分も異なる者たちが、期待と興奮を隠しきれない様子だった。
(後宮主催だけあって、人の数が違いますね……それに審査員の顔ぶれも有力貴族ばかりです)
舞台の後方には、椅子がずらりと並び、その多くが華やかな衣を纏った貴族たちで埋まっている。そして中央座席には見覚えのある人物の姿もある。
(お父様……)
玄雲が涼しい顔で審査席に腰掛け、悠然と扇を広げている。
(娘の絵を競技会に出品しておきながら審査員を務めるのですね……)
この競技会は紅蘭が勝つように仕組まれているのかもしれない。そんなことを考えていると、舞台の中央に立つ司会役の男が高らかに声を張り上げる。
「これより絵画競技会の決勝戦を執り行います!」
ざわめいていた場内が、一気に静まり返る。観客たちが身を乗り出し、次の言葉を待つ。
「最終選考に残った絵画は、わずか二作品!」
男が背後の二枚の屏風に手を向けると、幕の下から少しだけ、それぞれの絵の一端が見える。鮮やかな色彩と、筆致の緻密さが遠目にも分かるほどだった。
「では、まずは一人目の挑戦者。都でもその名を知らぬ者はいない、有名画師、墨舟殿の登場です」
舞台袖から、一人の男が姿を現す。
背筋の伸びた白髪混じりの老画師。ゆったりとした衣を纏い、風格を漂わせて歩を進める。その姿に、観客席からは大きな拍手と歓声が湧き上がった。
「あの人の山水画、見たことがある!」
「名作だよな!」
「優勝はこの人で決まりかもな」
称賛の声が広がる中、屏風が開かれ、墨舟の絵が顕になる。
それは見事な山水画だ。
雄大な山々の連なりと、霧に包まれた峰の重なり。その奥に流れる川と、枝を広げる老松。それは絵に年月を捧げた者にしか出せない風格があった。
(筆が滑らかですね……さすが名人です……)
観客の誰もが、その絵に息を呑む。堂々たる一作に、会場を圧倒するような衝撃が広がっていく。
沈黙が広がる中、やがて、司会役の男が声を張る。
「続きまして、もう一人の挑戦者を紹介いたします。若き天才画師、紅蘭殿です」
司会役の男の宣言と共に、華やかな装束を身にまとった紅蘭が、舞台へと歩み出てくる。
その姿に観客は自然と視線が吸い寄せられる。牡丹の刺繍があしらわれた衣を纏う紅蘭は、目が話せないほどの華やかな雰囲気を放っていたからだ。
やがて舞台中央に立つと、屏風がゆっくりと開かれる。
太陽の光を受けて反射した絵は、烈真をモデルに描いた、澄花の渾身の作品だった。
練達の筆致で描かれた青年は、凛とした表情を浮かべ、風をはらんだ衣を靡かせている。背景には、春を迎えた山桜の並木が咲き誇り、絵の中で時間が流れているかのような錯覚を与える。
「なんて、美しい絵だ……」
「墨舟の絵も凄かったけど……」
「こっちの方が、もっと……心に響く……」
観客の誰もが息を呑んで見つめる中、その反応は次第に熱を帯びていく。
そして最も大きな反応を示したのは、ライバルである墨舟だ。口を結んだ顔が、わずかに歪み、そして静かに目を伏せる。
「……私の負けだ」
囁くような小さな声。それを司会が拾う。
「墨舟殿、いま何と?」
「審査員の評価を聞くまでもない。私ではこの絵に勝てない。負けを認めよう」
そう呟くと、墨舟は静かに一礼し、舞台から姿を消す。
場内がざわめく中、その流れを受け継ぐように現れたのは、他でもない絵のモデルである烈真だ。
紅蘭の隣にぴたりと立つと、舞台上の観客に向けて、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「この絵は、婚約者の紅蘭が俺を描いてくれたものだ」
「私が素晴らしい絵を描けたのも烈真様への愛のおかげですわ」
紅蘭がにこりと微笑むと、観客たちから感嘆の声が上がる。次第に大きな拍手が沸き起こった。
「婚約者への愛が込められた一枚――そう思うと、さらに胸に迫るものがあるな」
「なんとまあ、睦まじいことよ」
観客席のあちこちで、感嘆と賛美の声が広がっていく。ただ澄花だけは、観客の喝采の中で視線を落とす。
(別に、あの絵に愛情など込めてはいないのですが……)
烈真をモデルにしたのは事実だが、それは犬や猫を描くときと変わらない。ただ対象がそこにあったから描いただけ。それ以上でも以下でもない。
けれど、人は絵に物語を求める。
事実、紅蘭の口から語られた「婚約者への愛」という言葉が、絵に意味を与え、感動を呼び込んでいた。
その影響は審査員たちにも及ぶ。目を輝かせながら、拍手の雨を鳴らす。
「見事な筆致と構図。色彩と感情の調和……」
「どれを取っても、非の打ちどころがありませんな」
「さすが玄雲殿の娘だ」
審査員たちが次々と頷き、唸り、口々に賛辞を送る。
やがて、玄雲自身もゆっくりと立ち上がる。重厚な装束の裾が静かに揺れ、彼は壇上の中央へと歩み出る。
会場中の視線が自然と彼に集中する中、扇をゆっくりと閉じた玄雲は、誇らしげに言い放つ。
「皆様、本日は私の娘、紅蘭の才能をお褒めいただき、誠にありがとうございます。どうかこれからも、我が国の芸術発展のため、応援よろしくお願いいたします」
その声は実に堂々としたもので、観客席から拍手が湧き起こる。鳴り止まない拍手、称賛の囁き。空気はすでに紅蘭の優勝で固まりつつあった。
司会役の男が再び前へ出ると、高らかに声を張り上げる。
「それでは皆様、異論ありませんね。優勝は紅蘭殿に決定といた――」
「異議あり!」
凛とした声が、拍手の波を切り裂くように響く。
観客たちの目が、一斉に声のした方向へ向かう。そこに現れたのは一人の青年で、品のある所作で壇上へと歩み出る。目元は涼やかで、まっすぐな光を宿していた。
「……あなたは?」
「僕は清雅。特別審査員として、後宮の命によりこの場に参上した」
その一言に、会場の空気が一変する。
司会の男は目を瞬かせたあと、戸惑いの色をにじませながら審査員席を一瞥する。
湧いたざわめきを切るように、年配の審査員の一人がその視線に答えた。
「氷の皇子が、もしかしたらお越しになるかもしれぬとは聞いていたが……」
「皇子は多忙でね。僕に代理を任されたんだ。後宮から正式に任命された審査員として、僕には皇子と同じだけの権限が与えられている。審査の再確認、異議申し立てを行う権利も含めてね」
その説明に、観客の間にも再びざわめきが走る。
そんな中、紅蘭が不安げな表情のまま一歩前に出る。清雅の顔を真正面から見つめて、問いかけた。
「……私の絵に、不満がありますの?」
「まさか。絵そのものは、実に素晴らしい。優勝にふさわしい作品だと思うよ」
「ならどうして私の優勝に異議を?」
「簡単さ。この作品、君が描いたものじゃないよね?」
その一言に、紅蘭の緩んだ表情がぴたりと止まる。空気が重々しくなる中、彼は言葉を続ける。
「この絵の筆跡を僕は知っている。これは――澄花の絵だ」
波のように騒然たる声が広がる。観客たちが一斉に顔を見合わせ、審査員たちも一様に目を見開いた。
「澄花、壇上にあがってくれないか?」
静まり返った広場に、清雅の澄んだ声が響く。
澄花ははっと息を呑むと、人々の視線が一斉に向けられる。まるで波紋の中心に立たされたかのような圧力を感じながらも、清雅の優しいまなざしのおかげで、勇気が湧き上がる。
(友人の期待に応えなければなりませんね)
澄花はゆっくりと壇上にあがる。その瞬間、ざわめきが起きた。
「紅蘭に顔が瓜二つじゃないか?」
「でも、雰囲気が違う」
「もしかして……姉妹か?」
観客席のあちこちから、ざわざわとした声が漏れ始める。
澄花は紅蘭と顔が似ていても漂う雰囲気が異なっている。華やかさの代わりに、静謐と芯の強さを感じさせる佇まいがあった。
「紹介しよう。彼女は紅蘭の姉である澄花だ。そしてこの絵の本当の作者でもある……紅蘭が姉の絵を自分の名前で競技会に提出したからこそ僕は異議を唱えたんだ」
場内が一瞬で凍りついたように静まる。紅蘭は反論しようと口を動かすが黙ったまま。その代わりに、婚約者である烈真が大きな反応を示す。
「違う、この絵は間違いなく紅蘭が描いたものだ!」
「証明できるのかい?」
「俺はモデルとして立ち会っていたからな! この目で紅蘭が描くところを見ていた! それこそが何よりの証拠だ!」
「……嘘じゃないと誓えるのかい?」
「ああ!」
烈真は即答する。その横で、紅蘭が必死に頷く。
「君の意見は分かったよ。では次に玄雲。君から話を聞かせてもらおうか」
「私からですか?」
「といっても答えるのは簡単だ。 この絵の作者は誰だい?」
玄雲は沈黙する。場の空気が重々しくなる中、催促するように烈真が口を開く。
「紅蘭が絵を描いた時は、あんたもいたはずだ。覚えているだろ?」
「あ、ああ。そうだったな。確かにこの絵は紅蘭のもの。私が証言しよう」
清雅は静かに頷く。彼らが嘘を吐くことも想定していたのか、余裕な態度で質問を続ける。
「君たちの言い分は分かったよ。でもね、もし嘘を吐いていた場合、後宮を騙したことになる。重大な不敬にあたり、大きな罰が下ることになるが、覚悟の上だよね?」
「も、もちろんだ」
三人が同時に首を縦に振る。張り詰める空気の中、清雅はゆっくりと澄花に向き直る。
「澄花。この絵は君の作品だね?」
「はい。間違いなく、私が描いたものです」
その言葉が空気を切り裂くように響く。騒然とする会場の中、烈真は語気を強めて叫んだ。
「馬鹿なことを言うな! これは間違いなく紅蘭が描いた絵だ!」
「その通りですわ! 私が烈真様をモデルにして、精一杯心を込めて描きましたもの」
二人の反論に加勢するように、玄雲も続ける。
「この娘は昔から虚言癖がある。皆様、信じてはいけませんよ」
「おお、そうだ! 俺も元婚約者だから、澄花のことはよく知っている。こいつは嘘吐きなんだ!」
非難の雨を浴びせられ、澄花は涼しい顔のままだ。むしろ哀れむような感情さえ浮かんでいた。
(人はここまで自己中心的になれるのですね)
家族の心の醜さに呆れていると、清雅が一歩、前へ出る。
「澄花は嘘なんてついていない。僕は短い時間しか共に過ごしていないけれど……彼女は誠実で、自分の作品に誇りを持っているからね」
会場が再びざわめく。誰を信じればいいのか分からない。そんな状況下で、清雅は口元に笑みを浮かべる。
「とはいえ、証言ばかりでは水掛け論だ。だから僕に妙案がある」
「妙案?」
「筆と紙を用意するから、ここで二人に描いてもらえばいい」
清雅の言葉に、烈真は顔が青ざめ、紅蘭は視線を泳がせ、玄雲は表情を強張らせる。
「構わないね、澄花?」
「もちろんです。私でよければ何枚でも描かせていただきます」
「紅蘭はどうだい?」
「わ、私は……」
紅蘭はか細い声をようやく絞り出したが、すぐに言葉に詰まる。
会場に再び沈黙が蘇る。やがて紅蘭は片足を後ろに引き、逃げ腰の姿勢をとる。だがそれを非難するように清雅の鋭い視線が突き刺さる。
「やっぱり君は嘘を吐いていたんだね」
「……わ、私は悪くないですわ!」
突如として紅蘭は叫ぶ。その声は、まるで周囲の沈黙に耐えきれなくなった子どもの癇癪のようだった。
「お父様が私の名前で作品を提出しろと言うから……私は大人しく従っただけですわ!」
観衆たちが息を呑み、壇上にいた審査員たちも表情を強張らせる。その隙を見計らったように紅蘭は駆け出そうとするが、控えていた憲兵が素早く反応し、その腕をがっちりと掴む。
「離してくださいまし!」
「君は後宮を騙そうとした。これは大きな罪だ。何のお咎めもなく解放とはいかないよ」
「わ、私は命じられただけですわ!」
「だとしても君は知っていて協力したんだ。罪は贖ってもらう」
清雅が目で合図を送ると、憲兵が腕を掴んだまま連行する。その様子を烈真と玄雲は呆然と眺めていた。
「さて……次は君たちだ。覚悟はできているよね?」
その一言に烈真の顔色がみるみる青ざめ、口元がひくついていく。
「悪いのは全部、澄花だ。こいつが根暗で、一緒にいても面白みがなかったから……俺は浮気して、騙すのに協力することになったんだ!」
言葉が早口になり、声がうわずる。観客たちの間から、呆れたようなため息が漏れるが、誰も同情する者はいなかった。
「自分勝手な主張だね。君が許される道理は、どこにもないよ」
清雅の一言に反応するように、憲兵たちが動き、烈真の両腕を押さえる。
「おい、根暗! 俺のために、今からでも発言を撤回しろ!」
「私があなたに従う道理がありますか?」
「ある。お前は俺を愛しているんだろ。なら仕方ない。結婚してやる! だから、俺のことを庇って罪を被れ!」
あまりに無茶な言い分だ。澄花は冷静さを保ったまま、言葉を返す。
「私があなたを愛したことなど一度もありませんよ」
「な、なんだとっ!」
「さようなら。牢屋の中で反省してくださいね」
澄花の言葉を合図に、その身を引きずるように連行される。彼の叫びが響くが、虚しく空に吸い込まれていくのだった。
「最後は君だ。言い残すことはあるかな?」
清雅の問いかけに、玄雲は静かに目を伏せる。やがて、しばらくの沈黙の後、口を開く。
「私は家のために、最善を尽くしたまでだ。後宮を欺いてでも結果を求めた。それを悪いとは私は思っていない」
その言葉に、再び会場がざわつく。だが清雅の目に同情は浮かんでいない。
「勘違いしているようだね。君の最大の罪は後宮を騙したことじゃない」
「なら何だと言うのだ?」
「娘を裏切ったことさ。本当に家の発展を願うなら、澄花の才能を捨てるような真似をすべきじゃなかった。烈真を切り捨ててでも、君は最後まで澄花の味方であるべきだったんだ」
「う……ぐっ……」
事実、澄花の絵はコネなどなくとも、競技会で優勝できるほどの魅力があった。
最後まで娘を信じていれば結果は違ったものになっていたはずなのだ。
玄雲の唇が震える。初めて、その目に後悔の色が浮かんだように見えた。
「澄花……私は牢屋で頭を冷やしてくる。次期当主はお前だ。我が家を任せたぞ」
その言葉と共に、玄雲は肩を大きく落とす。そして彼もまた、憲兵に連れられて壇上を去っていく。
その背中を眺めていると、舞台の空気が変わる。タイミングを見計らったように、司会が少し声を張る。
「それでは改めて競技会の結果を発表します! 無名ながら圧倒的な実力を見せた、新進気鋭の画師、澄花殿の優勝です!」
しばしの沈黙ののち、会場中に拍手が鳴り響く。最初は遠慮がちだった音が、やがて一人、また一人と重なり、熱気を帯びていく。
「ありがとうございます、清雅様。あなたのおかげで優勝できました」
「僕はただ約束を守っただけさ」
「約束ですか?」
「陽の光が当たる舞台に連れていく。そう約束しただろ?」
どこか誇らしげな声を受け、澄花はほんの少しだけ笑みを零す。その背には太陽の明るい光が降り注ぎ、キラキラと輝くのだった。
●●●
絵画競技会で優勝してから、澄花の人生は目まぐるしく変わった。
それまで無名だった澄花が、一夜にして「天才画師」として名を馳せることになったのだ。
後宮主催という格式ある場で実力を証明し、しかも盗作という不正を暴いた話題性は、絵の技術以上に人々の関心を引いた。
澄花の元には各地の名家からの仕事依頼が殺到し、一日として筆を握らない日はなくなっていた。
基本的に頼まれた仕事は受け入れるのをポリシーにしている澄花。だが一つだけ、はっきりと断ったことがある。
父、玄雲の後を継ぎ、次期当主となることだ。
「私は、一人の画師として生きていきます」
そう明言した澄花の目には、何の迷いもない。
あれだけ自分を蔑ろにした父の座を継ぐことに、未練などない。それに家にはまだ優秀な家臣が多く残っている。
(当主不在でも、彼らならきっと何とかするでしょう)
自分にとって大切なのは、家の名ではなく、自分の手で描き出す「一枚一枚」の絵だと気づいた故の判断だった。
それから澄花は絵に没頭し、時間は刻々と過ぎていく。そんな彼女が迎えた、ある晴れた日の午後、彼女の絵屋に、暖かな風とともに清雅が現れる。
「澄花、今日は機嫌がよさそうだね」
「清雅様、お越しいただきありがとうございます」
「君が優勝してから、街でも騒がれているよ。後宮からの仕事も、ずいぶん増えているそうだね?」
「嬉しい悲鳴というやつですね。おかげさまで『後宮画師』の名誉まで頂きました」
後宮御用達の画師、通称、『後宮画師』は、絵を仕事にする者にとって最大の誉れである。澄花は画師として一流の仲間入りを果たしたのだ。
「きっと多忙なんだろうね」
「ありがたいことに、少しも筆を休める暇がありません」
そう言って笑う澄花。その背後、店の奥に飾られていた一枚の肖像画に、清雅は目を留める。
そこに描かれていたのは、彼自身の姿だ。
だが、それはただの「写し絵」ではない。
そこにいたのは、彼女の前でだけ見せる、柔らかな微笑を湛えた青年だった。
清雅はしばし、言葉を失ったようにその絵を見つめると、小さく呟く。
「どんなときでも冷静であれと教育されたせいで、僕はいつも氷の仮面をかぶっている……だから鏡で自分の顔を見るのが苦手だった……」
「清雅様……」
「ただ君の絵は違う……きっとこの絵が本心から笑う僕を描いてくれたからだろうね」
まるで初めて自分を知ったかのような声音だった。
「清雅様が、心から笑ってくださった瞬間が印象的でしたから……だからこそ生まれた作品です……」
「本当に……絵はいいものだね……」
清雅は感動で絵に魅入られる。誰かの心を震わせられたなら、画師にとってこれ以上の喜びはない。
二人は並んで絵を見つめて、ゆっくりとした時を過ごす。天才画師はこれからも大切な人に陰ながら愛されて、人生を歩んでいくのだった。
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