王太子の縁談
──毎日、神殿で国の安泰を、人々の幸せを祈っている。
だけど、時々ふと思う。この祈りは、本当に創造神や精霊に届いているのだろうかと。
周囲から神子と呼ばれていても、実際に精霊を見たことなんて一度もないのに。
「ねえ、そういえばアリィさまは知ってらして? リカルド殿下のお見合いのお話」
「お見合い、ですか?」
その日、私は神殿で、風の精霊さまへと白い芍薬の花束を持参した、顔馴染みの花屋の婦人と話をしていた。婦人は季節の花が入荷されるたびに神殿へ届けてくれる、気立ての良い人だ。
神殿で暮らすうちに、何人もの地元の人と顔馴染みになった。地元の人たちは、私を神子としてではなく、他の神官と同じように接してくれる。
花屋の婦人も、そんな一人だ。
はじめて会った時は両手で拝まれたけど、今では世間話として世事に疎い私に色々な話を聞かせてくれている。
「そう。確かお相手は東の方の……何て名前の国だったかしら? 忘れちゃったけど、そこのお姫さまなんですって」
嬉しそうに花屋の婦人は言う。
「噂ではとても美しい方だそうよ。あ、もちろんアリィさまも綺麗だけどね? リカルド殿下の結婚話が出るなんて、この国もようやく落ち着いてきたってことかしらねぇ」
「……それは、おめでたいですね」
「きっと結婚が決まれば、アリィさまのところにも、お二人でご挨拶に来られるでしょうね。楽しみね」
「はい」
私は婦人から渡された白い芍薬の花束を、両手で受け取りながら頷いた。
「あ、そろそろお店に戻らないと。今日は夕方から雨が降るんですって。じゃあアリィさま、お話しできて嬉しかったわ」
「はい、私もです。お花は精霊さまへお供えいたします。あなたに風の精霊の加護がありますように」
微笑んで神殿を後にする花屋の婦人を見送る。私は花束を持って、礼拝堂にある祭壇に向かった。
歴史深く、平和に見えるこの国だが、偽王によって国を乗っ取られていた時期がある。
私が生まれるずっと前のことだ。
圧政を敷いた偽王は、王家の血を引く王子によって倒され、この国は平和を取り戻した。
その偽王を倒した王子が、リカルドのお父さまで私の最初の後見人、この国の救世主と呼ばれた前国王のリルージュさまだ。
だけど、リルージュさまは七年前に病気で亡くなられてしまった。リカルドはリルージュさまの血を引く、唯一の王子だ。
そっか。リカルドは今年二十歳になる。確かにそろそろ、結婚を考え始める年齢だ。
「わっ」
「アリィさま、大丈夫ですか!?」
両手で花を抱えて歩いていると、何もないところで躓いてしまった。周りにいた神官が慌てて駆け寄って来る。
「大丈夫です、びっくりさせてごめんなさい」
普段、こんなところで躓いたりしないのに。
自分でも不思議に思いながら、落としてしまった花束をもう一度抱えて歩き出す。
リカルドとは、一緒にお昼ご飯を食べた日から会っていない。
散歩の途中で王宮に戻って行ったのは、もしかしてお見合いの話があったからかな?
今度会った時、おめでとうって言わなくちゃ。
「いだっ」
「アリィさま!?」
白い芍薬の花束を見て歩いていると、今度は開いていた扉にぶつかってしまった。
額がヒリヒリして痛い。
「だ、大丈夫です」
その後も至るところで転んだりぶつかったりして、礼拝堂に辿り着いたときは、いくつか小さな打ち身ができていた。
どうして今日はこんなに、転んだり、ぶつかったりするのだろう?
自分でも不思議に思いながら、そっと白い花束を祭壇に供える。
両手を組み合わせて、創造神と風の精霊に祈りを捧げた。
いつものように、国の繁栄と平安を。人々の心が穏やかであることを。
そして、
創造神さま、風の精霊さま。
リカルドがお見合いするそうです。
どうか、リカルドのお見合いが良いものとなりますように。
どうか、リカルドが幸せで
「……あれ?」
頬に感じたのは、ヒヤリとした冷たさ。
そして、ぽたぽたと落ちていく水滴。
「な、んで……?」
どうして私は、泣いているのだろう。
手のひらで拭っても拭っても、溢れてきてたまらない。
同時に、胸が掴まれたように苦しい。
「……私は……」
リカルド。この気持ちは寂しさなのかな。
兄弟みたいに育ったあなたが一歩先に大人になっていくのを、いつも後ろで見ていた。
それは、一人だけ取り残されてしまったような感覚で、だから涙が止まらないのかな。
リカルド、私は。
「アリィ」
……泣きすぎたのかな。幻聴が聞こえる。
「おい、アリィ」
リカルドの声そっくりな幻が……。
「聞いてんのか、アリィ」
「リカルド!?」
振り向いた私は、呆れたような顔をして立っているリカルドを見て思わず声を上げてしまった。
「何でいるの!?」
「ちょっとな。それよりお前こそ、何で泣いてるんだよ」
涙を止めたくて、何度も顔を擦った。きっと目が腫れているのだろう。
私は慌てて顔を隠そうとしたけど、その両腕をリカルドに掴まれた。
「何があった? 神官共に何か言われたのか?」
「な……何でもないよ。それより離して」
「何でもないなら、どうして泣いてた?」
「……リカルドには関係ない」
私の突き放した言い方に驚いたのか、リカルドの腕を掴んでいた手から少し力が抜けた。
私はすかさず両腕を振り解いて、リカルドから距離を取る。
そうだ、言わなくちゃ。
「聞いたよ、リカルド。東の国のお姫さまのお見合いが決まったんだって?」
「何でお前がその話……!?」
私は、笑う。
「良かったね。おめでとう、リカルド」
きっと、きっと。
今、私は満面の笑顔を浮かべることができてるはずだ。
「風の精霊さまにもね、お祈りしてたんだ。このお見合いがうまく行きますようにって。リカルドがもっと幸せになりますようにって」
気を抜くと、また涙が出そうで、リカルドの顔が真っ直ぐに見れない。
ギリッと、歯を食いしばるような音が聞こえた。
「お前は……お前が、それを言うのか……」
「え?」
俯きがちな視界に入った、リカルドの服が少し濡れている。そういえば、花屋のご婦人が雨が降ると言っていたっけ。
「リカルド、服が濡れて……」
「アリィ」
名前を呼ばれて、礼拝堂の床に影ができた。見上げるとそこにはリカルドの顔があって、そして。
——いつの間にか、リカルドに、抱き締められていた。
「リ、カルド……?」
「好きだ」
ひ弱な自分とは違う、広い胸、強い腕、熱い体温。
「何、言ってるの……? 頭でも打った?」
「俺は! ……お前が、ずっと……好きだった」
私は目を見開いた。強く抱き締められているせいで、リカルドの顔が見えない。
「冗談……やめてよ」
吐き出した声は、自分でもわかるぐらいに震えていた。
「冗談なんかじゃない」
「冗談だよ。だって、私は男だよ」
確かにひ弱で、女性と間違われることが多いけど、それでも私は男だ。
一緒に育ったリカルドが一番知ってることだ。
でも、それよりも、
「離して……っ!」
襲いかかってきたのは、今まで目を背けていた自分の中の歪んだ感情。
胸が苦しい。自分の一部が削り取られてしまったように、痛い。
私は力一杯もがいてリカルドの腕から抜け出した。
「おかしくなんかない! 俺は……お前が……」
言い淀みながらも、手を伸ばしてくるリカルドは、私の知らない顔をしていて。
やめて……やめて。そんな顔をして、僕を見ないで。
どうして今、気付くの。どうして気づかないままにしてくれなかったの。
「近づかないで、リカルドの……馬鹿!」
止まったと思っていた涙が、またぽろぽろと溢れてくる。
リカルドから離れたくて、乱れた髪も皺が寄った神官服もそのままに、礼拝堂を飛び出した。
リカルドは、追いかけてこなかった。
そのまま一人になりたくて、ザアザアと降る雨の中、神殿の裏口から森に入った。
土砂降りの雨でぬかるんだ道を通り抜けると、この前、リカルドと一緒に来た展望台がある。
傘を持ってくる暇なんてなかったから、髪も神官服もびしょ濡れだ。
気づきたくなかった。知りたくなかった。
ただの幼馴染でいたかった。
涙だけが、変わらずにぽろぽろ落ちてくる。
リカルドの馬鹿。どうして……僕を、好きだなんて言うの。
やっぱり、神官になろう。神子だからじゃない。神官になって、リカルドが作るこの国が良いものとなることを祈ろう。そして、捨ててしまおう。気づいてしまった恋心なんて、ここで捨ててしまおう。
だけど、今だけは。この雨が止むまでは。
ふと、人の気配と一緒に、後ろでバシャリと水溜りを踏む音がした。
リカルドが追いかけて来たのかもしれない。
私が振り返ろうとした瞬間、そのまま強い力で背中を押された。
体がよろけて、宙に浮く。
「国のためならば……」
誰かの呟いた声と一緒に、目の前にあった展望台の柵がバキリと折れた。
それから先は——何も覚えていない。
◇◇◇
「風の精霊の神子が現れた、だと……?」
白い神官服を着た老人は、椅子に座ったまま、鋭い視線で目の前に跪く部下を見つめた。
「はい。ここから少し離れた神殿に現れたそうです。紛うことなき緑の髪と目だと、そこの神官長より連絡がありました」
老人は、自分の頭の中の記憶を探すようにしばらく黙り、言った。
「だが、今まで緑を持つものの目撃証言などなかったはずだ」
「本人からは、旅の途中だと申告が」
「旅人…」
老人は窓から外を見た。視界に入るのは、豪華絢爛な王都とは違う、簡素でさびれた町並みだ。
「王に知らせますか?」
「……どちらの王にだ?」
「そ、れは……」
言い淀む部下に老人は視線を戻した。
「今、王冠をかぶっているのは偽王にすぎん。だが、風の精霊の力を借り、国を成した初代国王の血は……今はまだ、弱すぎる」
しかし、と老人はつぶやいた。
「風の精霊の神子が隣にいれば……あるいは、」
老人の言葉に、部下の男はなにかに気付いたのか、ハッとした顔をする。
「その者はまだ神殿にいるのか?」
「はい、神官長が引き留めているようです」
「そうか」
老人は年齢を感じさせない動きで、椅子から立ち上がった。
「急ぎ、準備を。その者へ会いに行く」
「承知致しました」
一礼した部下が部屋を出ていくのを見届けた後、老人は再び窓から外を見つめた。
「風の流れが、変われば良いが……」
視界に映る空は、暗く澱んでいた。