太陽の王子
『遅いぞ、アリィ』
『待ってよ、リカルド!』
私たちが今よりもずっと幼かった頃、体を動かすのが好きなリカルドは、よく外を走り回っていた。
鈍間な私は、いつもその速さについていけず、置いて行かないでと半泣きでその背中を追いかけていた。
ヤハの森の中を歩く、昔よりもずっと伸びた身長。広い肩と大きな背中。
リカルドは時々、気まぐれに私に会いにくる。神殿で働いている私をボーッと眺めていたり、子供たちと遊んでいたり、今日みたいに一緒に食事をしたりするけど、気づいた時にはいなくなっていることが多い。
だから、こんな風にリカルドの後ろを歩くのは久しぶりだった。
「悪い、早かったか」
神殿の裏口からヤハの森に入り、先に歩いていたリカルドが足を止めて振り返った。木々の間から日の光が差し込んで、リカルドの顔に影を作る。
「ううん、大丈夫だよ」
私は首を振って、立ち止まったリカルドの隣に並んだ。
森の外れまで来ると、視界は一気に開けた。目の前に広がるのは青い空。ここは、周囲の土を集めて作られた小高い展望台だ。
足元は崖で、水流の多い川が流れている。けれど、訪れる人が少ないこともあって、申し訳程度の落下防止柵が設置されていた。
「いい天気だな」
リカルドが大きく背伸びをして言った。
「うん」
隣に並ぶと、どうしても自分とリカルドの体格の差が気になってくる。
「何だよ?」
「……何でもない」
さっき食堂でリカルドに言われたように、私はひ弱だ。リカルドぐらい伸びる予定だった身長は頭ひとつ分、低いまだし、筋肉だってもっと付くと思っていたのに、実際は神殿で使われる薪を一袋を持ち上げるので精一杯だ。
リカルドに誘われて、一つだけ設置されているベンチに並んで座った。名前を知らない鳥が、一声鳴きながら空を高く飛んでいく。
「あいつのことは気にするな。お前が大神殿に行く必要はない」
リカルドが空を見上げながら、ポツリと言った。
「だけど、これまでの神子はみんな大神殿で生活してたし、私もいつかは神官になるんだから……」
「お前は神官にならなくていい」
僅かにリカルドの声が低くなったが、私は首を振って静かに微笑んだ。
「そう言うわけにはいかないよ。親のいない私がこうやって生きていけるのは、神殿と王家のおかげだもの」
──幼い頃に亡くなったと聞かされた親の顔は、覚えていない。記憶を遡った先に薄っすらと浮かぶ女性の顔はあるけれど、それが母親なのかは正直わからない。
一番はっきり覚えている人は、父のように慕ったあの人だから。
私はリカルドと同じように青い空を見上げた。
古くから精霊の神子は国を豊かにし、人々に平穏をもたらすと言われている。だけど、今そう呼ばれている自分に特別な力がないことは、ちゃんと分かっている。
精霊術の一つでも使えれば、まだ違ったかもしれない。たまたま、生まれた時に目が青かった、それだけで他に何も持っていない私を人は「神子」と呼ぶ。
星の精霊の色である「青」の目以外に何も持たない私に、リカルドや神官長、後見人は優しい。
いつも、急いで神官になる必要はない、この小さな神殿でゆっくりと過ごせば良いと言ってくれる。
それは、一緒に暮らす他の神官たち同じだった。私に対する態度はいつも穏やかで、歳の離れた兄弟のように接してくれる。
何の心配も要らず、寝る場所があって、食事が用意されていて、優しい人たちが側にいる。
「青」を持つ者だからという理由であっても、孤児の私にはこの国に返しきれない恩がある。
この大切な国のために、自分は何ができるだろう。それを考えた時、やっぱり神官になるのが一番良いことなのだろう。
「そんなこと、お前が気にする必要はない」
リカルドは、私にいつもそう言う。
本来、神子が暮らす大神殿は国のずっと北寄りの山岳地帯にある。冬は大雪が降ってとても寒いらしい。優しいリカルドは、ひ弱な幼馴染の私を心配して、恩なんて気にしなくていいと、神官にならなくていいと言ってくれる。
「それに……いや、」
何か言い掛けたリカルドは言葉を濁した後、ふいに片手を伸ばして私の髪を一束摘んだ。
「また髪が伸びたな」
「そうかな?」
リカルドの、太陽に当たると金色に輝く明るい茶色と違って、私の髪はぼんやりとした薄い茶色だ。
今はもう少しで、腰に届きそうなぐらいの長さまで伸
びた。
昔、リカルドが「お前の髪の色は小麦畑みたいだな。豊穣の色だ」と、そう言ってくれたから……何となく伸ばしている。
リカルドの指の間からサラサラと落ちていく自分の髪を眺めていると、ふっと小さくリカルドが笑った。
少し高い位置にある顔は幼馴染の私から見ても綺麗で、周囲の人たちがリカルドのことを『太陽の王子』と呼ぶのもわかる気がする。
圧政に苦しむ国を偽王から解放した救世主。そしてその息子、我が国に光をもたらす太陽の王子。
この国で、王太子のリカルドはそう呼ばれてる。
孤児の私がリカルドを「幼馴染」と呼べるのは、この青い目と──私の最初の後見人が、リカルドの父で前国王のリルージュさまだったからに他ならない。
「リカルド?」
あまりにも長くリカルドが私の顔を見ているものだから、不思議に思って名前を呼ぶと、それまで髪を触っていた手が私の頬にゆっくりと伸ばされた。
「アリィ、俺は……」
リカルドが何かを言いかけた時だった。
ガサリと聞こえてきた音に、リカルドが腰にしまっていた細剣を抜き、私を庇うように身構えた。
「誰だ」
茂みの中から姿を現したのは、大柄な男性。私たちより十四、五歳ほど年上だろうか。世事に疎い私でも見たことがある、王宮騎士の制服を着ている。
「ラング」
リカルドが不機嫌そうな声で男性の名前を呼び、細剣をしまった。
「何の用だ」
「殿下。文官が探しておりました。本日の公務は終了しておりません。早くおかえりください」
「……急ぎはないはずだ」
「追加でご確認いただきたい書類が出来たと」
大きくため息をついたリカルドは、私を振り返った。
「散歩の途中だが、戻らないといけなくなった。悪い、アリィ。神殿まで送る」
「一人でも大丈夫だよ」
「いや、神官長に言われているからな」
「行くぞ」とリカルドに促されて、ベンチから立ち上がった私を見て、男性が頭を下げた。
「星の精霊の神子さまですね。リカルド殿下の剣指南役、近衛のセル・ラングと申します。星の精霊の神子さまにこうしてご挨拶出来ること、光栄にございます」
「はじめまして……アリィと申します」
人々の私への反応は、だいたい三種類に分かれる。
一つは、珍しげにこの青い目を覗き込む人。もう一つは「神子」に会えたと喜ぶ人。
そして最後は、何故お前のような者が王太子の側にいるのだと、目で訴える人。
刺すような目で私を見るラングさまは多分、私がリカルドと一緒にいるのを良く思っていない。
……仕方がない。いくら幼い頃、一緒に育ったと言っても、今の後見人がリカルドの母である王妃さまであっても。
元はただの平民で、しかも親のいない孤児で、目が青いからと言う理由だけで側にいる私を、よく思わないのは当たり前だ。
森の中を歩いて神殿へと戻った。リカルドもラングさまも何も言わない。さっきまで快晴だったはずの空は、気づけば薄灰色の雲に覆われていた。
神殿の裏口まで送ってもらった私は、リカルドとラングさまに神官としての礼を執り、深く頭を下げた。
こういう時は神官として振る舞うように、神官長から教わっている。
「リカルド殿下、ラングさま。送っていただき、ありがとうございました」
「……よい。頭を上げよ」
短い沈黙の後、硬い声音が落ちてきた。顔をあげて見たリカルドの顔は、どこか不機嫌そうだった。
「……また来る」
リカルドはポツリと言って、王宮がある方角へ踵を返した。その後ろを、一礼したラングさまが追って行く。
二人の後ろ姿を見送っていると、ポツリと顔に水滴が当たった。
さっきよりも濃い灰色の雲が、すでに空一面に広がっている。間をおかず、シトシトと細い雨が降ってきた。
「雨……」
リカルドは大丈夫だろうか。王宮までは少し距離がある。風邪を引かければいいんだけど。
「アリィさま!」
神殿から傘を持った神官が、私を見つけて走ってきた。
「ああ、良かった。雨が降ってきたので、お迎えに行こうかと。リカルド殿下は?」
「迎えの方が来られて、王宮へ戻られました」
「そうですか……では、アリィさまも早く中へ。風邪を召されたら大変ですから」
促されて神殿の中へ入った時には、早くも大粒の雨が神殿の屋根を強く叩いていた。
◇◇◇
「雨か……」
地面スレスレの長さの黒いコート。付属のコートを頭に深くすっぽりと被った人物は、大木の下で暗く濃い灰色の空を見上げていた。
雨足は強く、重なった葉の間からも雫がポタポタと落ちてくる。
「これは明日まで止まないな……」
足元はぬかるみ、すでに幾つかの水溜りが出来始めていた。
「面倒だが、どこかで宿でも探すか……」
パシャリと足元の小さな水たまりを靴で忌々しそうに踏みつけ、その人物は歩き出した。
「クソ、こんなことなら、西から回れば良かった……」
呟いたその声は男にしては高く、女にしては低い。
バシャバシャとコートに泥を跳ねさせながら、勢いよく木々の間を歩いていたが、少し先に明かりを見とめて足を止めた。
「教会……? いや、神殿か。ま、屋根ぐらい借りれるだろ」
そう言って再び歩き出した時、強い突風が吹き、被っているフードが少しずれた。
フードからこぼれ落ちた長い髪は、暗い曇り空の下でもわかるほどの深い緑色をしていた。