星の精霊の神子
——父のように慕っていた人を亡くしてから、七年が経った。
石を敷き詰めた冷たい床の上で、今日も私は祈っていた。
国の繁栄を、平安を、そして人々の心が穏やかであることを。
王都から少し離れた、ヤハと呼ばれる森の入り口にあるここは、世界の創造神と、国の守護神である風の精霊を祭った神殿の一つだ。
孤児の私は、親代わりだった人を亡くした十歳の頃から、この神殿で暮らしている。
静かな礼拝堂で、両手を組み合わせて目を閉じると、風が吹く音だけが耳に入る。風の精霊は姿形を捉えることは出来ず、だからこそ、どこにでも顕在すると言われていた。
礼拝堂へ来ると、いつも時間を忘れてしまう。ここで一人静かに祈っている時が、一番心穏やかでいられる時間でもあったから。
ゴーンゴーンと鐘の音が聞こえて、目を開けた。昼食の準備ができたことを知らせる、正午を伝える鐘の音だ。
立ち上がって皺が寄った神官服を整えていると、馴染みのある声に名前を呼ばれた。
「アリィさま」
振り返ると、礼拝堂の入り口に神官長が立っていた。慌てて礼を取ろうとすると、神官長は穏やかに笑って、私を制した。
「構わぬよ。あなたはまだ、神官ではないのだから」
「いえ、そう言うわけには」
そう。私は神殿で暮らしていて、神官服も頂いてるけれど、まだ正式な神官ではない。強いて言うなら、神官見習いと言うのが一番近い。
本当は早く神官になるための試験を受けたかった。だけど、まだ成人を迎えていない私には、後見人の承諾が必要だった。
「誰かまだいるかと、礼拝堂を覗きましたが。良ければこの爺と一緒に、食堂へ参りませんかな?」
「はい。もちろん、喜んでお供いたします」
礼拝堂から食堂までは、少し距離がある。高齢の神官長の歩幅に合わせて、私は神官長の手を少し引きながら歩いた。
皺だらけの神官長の手は温かい。親を知らない私が言うのも何だけど、祖父と言う存在は、こんな感じなのかもしれないと思う。
「早く…神官になって、神官長をお助けできるようになりたいです」
ぽつりと私が呟くと、神官長は少し声を出して笑った。
「若人が何をおっしゃる。神官にはいつでもなれる。後見のあの方も言われているでしょう、そんなに急いで将来を決める必要はないのですよ」
「ですが、私は…」
「しんかんちょーさまー」
子供の明るい声が廊下に響いた。
声がした方を見ると、四人の子供たちが私たちに駆け寄ってきた。
「あ! アリィさま、こんにちは!!」
「こんにちは。廊下を走ってはいけないよ」
私がそっと注意すると、子供たちは口々に「だって、だって」と続けた。
「今日ね、草むしりのお手伝いをしたの」
「そしたら、お昼ごはん、いっしょに食べていいよって」
「だから神かんちょーさま、むかえに来たの」
「ほお、そりゃあ嬉しいわい。では、この爺を食堂まで連れて行ってくれるかな?」
神官長は笑うと、私の手をそっと離し、子供たちの一人と手を繋いだ。
ひやりとした空気が、さっきまで繋いでいた掌に吹き込んでくる。その冷たさを少し寂しいと思ったのは、きっと気のせいだ。
「アリィさまも! いっしょにご飯食べようよ!」
一人の少年が私の右手を引いた。子供特有の体温の高さが、その力強さが、ふわりと私の心に入り込んでくる。
『行くぞ、アリィ!』
私の顔を見上げて笑う少年の笑顔が、ふと兄弟のように育った幼馴染の子供の頃の笑顔と重なった気がした。
「アリィさま? お昼ごはん食べないの?」
繋いだ手を見つめていた私を、少年が不思議そうに見上げた。
「一緒に食べるよ、行こう」
私は微笑んで少年の手を握り返すと、神官長の後に続いて歩き出した。
私が暮らす神殿は王都に近い分、土地が狭く小規模で、神殿に訪れる参列者も他と比べれば少ない。
その代わり、訪れる人たちと顔馴染みになることが多かった。中には、神殿のちょっとした業務を手伝ってくれる人たちもいる。神官長を迎えに来た子供たちが、草むしりを手伝ってくれたように。
神官長は子供と一緒に過ごすのが好きで、空き時間に一緒に遊んだり、勉強を教えていた。
かつては北部にある大神殿の責任者だった神官長がこんな小さな神殿にいるのは不思議だけれど、初めて会った七年前から、その穏やかな笑顔は変わらなかった。
「わー、今日はお魚だ!」
食堂の席に一緒に並ぶ子供たちが声を上げる。
今日の昼食は近くの川で取れた川魚の蒸し焼きと、ライ麦で作られたパンだった。
いただく命にみんなで祈りを捧げた後、フォークを手に取る。
ふっくらと蒸された川魚の身は口の中でポロリと崩れた。こんがりと焼かれたパンに、川魚から染み出したスープをつけて食べるのも美味しい。
私と神官長、そして子供たちが昼食を楽しんでいると、ドカドカと足音がして空いている席に誰かが座った。
「美味そうなもの食ってるな。神官長、俺の分もあるか?」
窓から差し込む太陽の光で、金色に煌めく明るい茶色の髪。髪よりも少し暗めの茶色の目。子供たちが歓声をあげる。
「リカルド兄ちゃんだ!」
「よう、チビども。元気そうだな」
飾り気のない木綿のシャツに黒い長ズボン。腰にはこれで護身用になるのかと、首を傾げたくなるような細い剣。
数日ぶりに会う幼馴染は、私と目が合うとヒラヒラと片手を振った。
「よう、アリィ」
「リカルド……また抜け出してきたの?」
「自分の仕事はちゃんと終わらせてきたぞ」
抜け出してきたことを否定しないと言うことは、また黙ってここに来たのだろう。
私は半目でリカルドを睨むが、どこ吹く風と言った様子でリカルドは神官長に、私たちと同じ昼食を希望した。
「ふむ……一日作さざれば、一日食らわず。リカルド殿の言うことが誠ならば、提供致しましょう」
「今日は本当だよ、午前中に終わらせて来た」
神官長が食堂の奥に向かって手を振ると、調理師が一人分の昼食を載せた盆を運んできた。
リカルドは口早に祈りを捧げた後、目を輝かせてフォークを手に取った。美味しそうに料理を食べるリカルドを見て、子供たちも楽しそうにまた食事を始めた。
リカルドは私よりも二歳も年上なのに、子供たちと同じような食べ方をしていて、思わずクスリと笑ってしまう。
「何だよ?」
笑われたことに気づいたのか、リカルドが私を睨んだ。
「ううん、何でもないよ」
その仕草も幼い頃と変わらない。懐かしさが込み上げて来て、私は笑いながら小さく首を振った。
みんなで食事を続けていると、神殿の正面玄関の方角が少し騒がしくなった。
「神官長…」
一人の神官が足早に食事をしている私たちに近づいて来て、神官長に何かを耳打ちする。
それを聞いた神官長の顔に、珍しく少し皺が寄った。
「ふむ……では、私が行こうかの」
神官長は立ち上がると「失礼、少し席を外しますぞ」とリカルドに一礼して食堂を出て行った。
リカルドは神官長の背中をしばらくじっと見ていたが、凄い速さで皿の上の料理を口に詰め込み、立ち上がった。
「……様子を見てくる。アリィ、お前はチビたちと食べとけ」
「リカルドが行くなら、私も」
「お前はここにいろ。ただでさえ、ひ弱なんだからしっかり食べろ」
立ち上がりかけた私を置いて、リカルドは神官長が向かったのと同じ方角へ足早に向かった。
「アリィさま……?」
はっとした私が食事をしていた子供たちの顔を見ると、みんな不安げな表情をしていた。
子供たちを不安にさせてはいけない。私がしっかりしないと。
「大丈夫だよ、私たちは食事を続けよう」
そう言って私が笑いかけると少し安心したのか、ほっとした顔をして子供たちは食事を再開した。
けれど、私と子供たちが食事を終えても、リカルドと神官長は食堂へ戻って来なかった。
不安が込み上げて来た私は、近くにいた神官の一人に子供たちを任せて神殿の正面玄関に向かおうとしたけれど、別の神官に止められてしまった。
「アリィさま、今は行ってはいけません。大神殿からの使いが来ています」
「大神殿……」
心臓がぎゅっと握り締められたように苦しくなった。
ここには時々、北部にある大神殿からの使いがやってくる。
彼らの目的は、私だ。
正しくは、私の『目』だ。
この国で生まれる国民は、ほとんどが黒か茶色の髪と目をしている。けれど何十年、もしくは何百年に一度、特別な色を持つ子供が生まれた。
それが緑と青色だ。
古い神話の中に、この国は建国の折、創造神の僕の一人、風の精霊の力を借りて造られた、というものがある。
「緑」は国の守護神である風の精霊の色であり、「青」は風の精霊の妻である星の精霊の色とされている。
星の精霊は守護神ではないけれど、風の精霊と夫婦であることから同等の存在として、国では大切に扱われている。
この神話が元となって、体のどこか一部に「緑」もしくは「青」を持って生まれて来た者は、精霊からの祝福を受けた者として「神子」と呼ばれる。
私は、二百年ぶりとなる「青」を目に持って生まれて来た。
精霊の祝福を受けた「神子」は大神殿で神官となるための教育を受けながら育てられるのが普通だ。けれど私は、今の後見人の希望もあって、この小さな神殿で暮らしていた。
大神殿側としては、きっと今までの慣習を破られたと思っているのだろう。定期的に、私を大神殿へ返すようにと、人を寄越してくる。
もうすぐ私が成人となる十八歳を迎えることもあって、最近はその頻度が増していた。
神官長も、私の後見人も、大神殿のことは気にするなと言ってくれる。だけど、私のせいでこうして迷惑を掛けていると思うと、やっぱり慣習通り大神殿へ移った方が良いのではないかと考えてしまう。
足音を忍ばせて、こっそり玄関まで様子を伺いに行くと、数人の使者たちが神官長と、神官長をその背中に庇うリカルドに詰め寄っていた。
「ですが! アリィさまは星の精霊の神子ですぞ、神子は大神殿へと」
「だから、何度も言っておる。私たちはアリィさまをお預かりしている身。それともお前たち、私にあのお方からの承諾を得て来いと言うのか?」
「……っ、それは」
「それに、緑の魔女のことを忘れたとは言うまいな? あれと同じことが起こったらどうするつもりだ」
神官長の声がこれまで聞いたことが無いほどに低くなり、使者たちが一様に押し黙った。
「諦めろ、承諾は降りない。こちらも同じ意見だからな。アリィを大神殿にはやらない」
黙り込んだ使者たちに向かって、今まで黙っていたリカルドが地を這うような低い声で言った。
「こちらも? まさか、あなたさまは……!」
使者の声が驚愕に染まる。
「お前らの上に伝えろ。ここに、何度来ても答えは変わらない。言いたいことがあるなら、あいつの後見人である俺の母に言えとな」
慌てふためき、逃げるように神殿から出ていく使者を見ていると、振り返ったリカルドと目が合った。
「アリィ! 食堂にいるように言っただろ」
「だって、二人が心配で……」
咎めるようなリカルドの言い方に私が言い返すと、リカルドは少し驚いたような顔をした。
「アリィ……」
「いやあ、アリィさまにご心配頂けるとは、実に僥倖」
ほろほろと笑う神官長が、先ほどまでの緊張感は何だったのか、普段通りの穏やかな声で言った。
「アリィさまは、食事は召し上がられたかな?」
「はい……」
「それは良かった。では気分転換に、食後の散歩にでも行って来ると良い。リカルド殿、アリィさまの護衛として一緒に行ってくれますかの」
神官長がリカルドへそう言って、私は慌てた。
「いえ、そんな! リカルドについて行ってもらう訳には」
「何だ、俺が役に立たないとでも言うのか?」
「そうじゃなくて!」
いくら幼馴染でも、リカルドを護衛になんて恐れ多すぎる。
「散歩は良いですぞ、風の感じることは、精霊さまと共にいること。揺らぐ心も落ち着きます」
焦る私を尻目に、神官長はリカルドへ頭を下げた。
「しかし、大神殿の者が辺りにいたら心配です。リカルド殿、アリィさまをよろしく頼みます。私は先に食堂に戻って子供達の様子を見てきますので」
「わかった。任せろ」
腕を組んで大様に頷いたリカルドは、私へ声を掛けた。
「行くぞ、アリィ」
「えっ、えっと……行ってまいります」
私は神官長へ一礼をした後、先に歩き出したリカルドを追いかけた。神官長は穏やかに頷きながら、私たちに小さく手を振っていた。