最終話 永正之錯亂(五)
人々の苦しみなどそっちのけで争った結果、澄之は滅亡して澄元が京兆家の家督に据わることとなった。ただし澄元が一門から歓迎されていたかと問われたらそれは違う。
反澄之の目的を達成したあと、細川一門の分裂は急速であった。
阿波から上洛してわずか二年目の澄元を支持する一門はなく、しかのみならず三好之長専横の振る舞い甚しいことも相俟って、澄元もまたあっという間に声望を失ってしまったのである。
反澄元の急先鋒は野州家の高国であった。一説によれば政元が最初に迎えた養子は澄之ではなく高国だったともされており、澄元の対抗馬として祭り上げられることとなった。
新たなライバルの出現に危機感を覚えた澄元は高国を伊賀に追い払った(永正五年(一五〇八)三月)が、この強引な追放劇は、高国の力を削ぐなんの足しにもならなかったばかりか一門との対立を決定的なものにしてしまった。
高国は翌月には逆襲に転じ、大軍を率いて上洛を果たした。味方がいなかった澄元はまたも甲賀を目指して落ち延びていくこととなった。
新たに京兆家の惣領に選出された高国だったが、そんな彼に危機が迫っていた。このころ既に、義尹を奉じた大内の大軍が備前まで到達していたのである。
京兆家の軍事力を支えていた薬師寺兄弟や香西兄弟、赤澤宗益といった人々はここ数年の抗争でほとんど姿を消してしまっており、急速に弱体化していたこのころの細川では大内の大軍を退けられないことは明白であった。
高国は義澄に進言しなければならなかった。
「今の細川では大内に抗しきれませぬゆえ降伏しようかと考えています」
「馬鹿を申すな。わしは政元に無理やり手を引っ張られて、出たくもない寺を出て、なりたくもない将軍になったのじゃ。それをいまになって見棄てると申すか! そんなことが許されると思うてか! そちがわしに忠節を誓わぬと申すのであればわしは出家して……」
例によって狂躁する義澄を、高国が白けきった目でじっと見つめる。
「……なんじゃその目は」
「公方様、もはや政元はこの世におりませぬ」
「そ、それがどうした」
「二言目には寺を出たくなかっただの出家するだの。子供じみた理屈はもう聞き飽きました。将軍でいるのがそんなに嫌なら四の五の言ってないでさっさと出家なされたが良い。我らにとってはそちらの方がかえって好都合じゃ。さいわい次の公方様はもう決まっておる。我らはそれへ臣従する。まさか義尹様も、出家を殺すような寝覚めの悪いことは致すまい。安心して剃髪なされたが良い」
「……!」
義澄擁立の立役者だった政元は、義澄が辞意を漏らせばいちおう止めなければならない立場にあったが高国は違う。高国は義澄擁立とは何の関係もなく、したがって義澄が、出家や逐電を口にして自分を人質に取るようなことを言っても慰留しようとしないし、政元にも増して物言いに遠慮がなかった。
高国に見棄てられた義澄は本当に京都にいられなくなり、近江へと落ち延びていった。没落後の義澄がそれでも復権を目指し続けたのは本人の意志によるものか、それとも取り巻き連中が権力闘争から下りることを許さなかったためか、それは分からない。
ちなみに、政元とともに明応の政変を首謀した伊勢貞宗は義澄に同行して京都から没落しようとしたが、高国に慰留されている。もしかしたら水面下でのやりとりで、貞宗の処遇については義尹陣営と話がついていたのかもしれない。永正五年七月、義尹はついに入京し空前絶後の将軍還任を成し遂げるが、同年末には貞宗に対し赦免の沙汰を下している。
返り咲きを果たした義尹は、畠山尚慶を幕政に復帰させ、大内義興を山城守護に補任、更に恭順した細川高国に京兆家家督継承を認めるなど論功行賞に取りかかった。
取り立てられたなかの一人に、畠山順光という若武者があった。畠山を名乗ってはいるが三管領家畠山と血縁関係にあったわけではない。同朋衆木阿弥の子、幸子丸は、父子ともども義尹を支えてきた手柄を認められ、武士として取り立てられたのであった。手柄のあった者に足利一門の名字を与える「入名字」の制に範をとって、三管領家畠山名字と、順光の名を与えられたのである。
永年にわたる投資がついに実を結んだ木阿弥。ここまで決して平坦な道程ではなかった。
屈辱的な和平の使者に立てられたこと。
拷問にかけられたこと。
義尹の妹を救い出すために身銭を使い果たしたこと。
今となっては、苦労の数々がすべて良い思い出であった。
「義尹様に従ってきたわしの選択、間違いやなかった……」
木阿弥の活動は永正八年(一五一一)ころまで確認できる。義尹と息子の栄達を見届けることができたのだから、満足したうえでの大往生だったのではなかろうか。
義尹(義稙)政権はこの後、永正十八年(一五二一、八月に大永に改元)三月に突如京都を出奔するまで継続することとなる。
その後京都には、大小さまざまな武家が現れては短期間のうちに消えていった。その消長の激しさに比例して、細川政元の名も人々の記憶から急速に失われていった。
政元が生涯をかけても遂げられなかった譲位並びに新帝即位式典を成し遂げ、政を往古の旧に復したのは、羽柴秀吉と申す地下人であった。羽柴は三管領家筆頭斯波家の又被官であったが、もうこのころになると、三管領がどうとか四職がどうだのといったことを気にする人間はいなくなっていた。
即位大礼から約一年後の天正十六年(一五八八)正月、第十五代将軍足利義昭は自らその官を辞した。
歴史的使命を終えて終焉を迎えるまで、政元横死からなお八十年の余命を、幕府は保ったことになる。
(完)