第十話 永正之錯亂(四)
丹後で後陣を任されていた赤澤宗益は、陣中が騒ぎ立っていることに気付き
「何事じゃ。何を騒いでおる」
と馬廻に訊ねると、
「御屋形様が討たれたというもっぱらの噂です」
などと言うではないか。
「それは誰の戯れ言ぞ」
重ねて問うと
「既に市中はその噂で持ちきりだそうで……」
宗益は陣中を見渡した。
大和六方衆や一色勢の攻めを受けてビクともしなかった赤澤軍団が、目に見えて浮き足立っている。
(まずいな……)
総崩れの前兆であった。
宗益にとって、政元の死が事実かどうかはこの際問題ではなかった。ただ、この動揺につけ込まれて追撃を受けんか、ひとたまりもなく全軍崩れ立つことだけは間違いないことであった。
宗益は敵にも味方にも勘づかれることなくこの場から撤退しなければならなかった。
「陣を移す」
「ええっ!? どこに移すってんです。城はまだ落ちちゃいませんぜ」
「いいから動くんだよ。ゆっくり、敵に勘づかれないように、だ」
しかし崩壊は急であった。
政元ほどの大物の死をいつまでも隠し通せるものではない。政元の死を知ったのであろう敵は、それまで固く閉じるばかりだった城門を開け放ち、包囲の赤澤勢をさんざんに打ち破った。畿内各所であれだけ猛威を振るった赤澤軍団だったのに、いちど守勢に回ってしまえば驚くほど脆かった。個人単位までバラバラに分断された赤澤軍団はそこかしこで落ち武者狩りの標的にされた。
京都を目指した宗益だったが周りは討ち減らされついに単騎となり、久世戸(現在の京都府宮津市)の文殊堂に逃げ込んだ。
「これが五社七堂に名字を籠められた者の末路か……」
宗益は文殊堂で腹を切って果てた。六月二十六日(又は七月八日)のことと伝わる。
ここに政元と聞いて忘れてはいけない人がいる。足利義尹その人である。
明応二年(一四九三)に二十八歳で将軍位を逐われた義尹も今年で四十二歳。
明応八年(一四九九)十一月、上洛途上にありながら六角高頼の急襲を受けて大敗、西国の太守大内義興を頼っていまは周防山口に滞在していた。
「え……えらいこっちゃ大樹。政元が……政元めが!」
慌ただしく義尹の在所に駆け込んできたのは同朋衆木阿。
「いかがした木阿、少し落ち着け」
「これが落ち着いていられましょうや。大樹、お聞きあれ。政元めが討たれましたぞ」
「……まことか」
聞いた瞬間、義尹はどのような反応を示すべきか迷った。
確かに政元は自分を将軍の座から引き摺り下し、弟義忠を殺しもした。畠山尚慶や義尹自身が上洛を狙うたびにその野望を打ち砕いてきたのが政元であり、憎むべき相手のはずであった。
政元は、義尹が上洛を果たすうえでの最大の障害であった。
もし政元の死が本当なのだとしたら、これから上洛作戦が具体的に練られていくことになるだろう。政元のいない細川が大内を退けられるはずがなく、義興が首を縦に振りさえすれば、もはや上洛は成ったも同じであった。
(また将軍にならなければいけないのか……)
声に出しては言えないがいまからうんざりさせられる。政元は憎い敵だったかもしれないが、同時に政元が京都にいることによって義尹は、将軍というとんでもなく煩わしい地位から大手を振って距離を置くことが出来ていたのである。
その政元がいなくなった。
政元の死を聞いて満座が沸き立つなか、ひとり義尹だけが
「ぬか喜びはまかり成らぬ。政元は魔性ゆえに虚報を流して我らを山口より吊り出そうと企てているやもしれぬ。いま少し情報収集を」
慎重な姿勢を崩さなかったのは、政元の死が誤報であることに一縷の望みをつないでいたからなのであった。
さて洛中の状況に戻ろう。
義澄の御内書を得て京兆家の家督を継承した澄之だったが、どこからどうやって漏れたものか、政元殺害が澄之派によるテロだったことは早くから知れ渡っていたらしい。
このため淡路守護家細川尚春は、政元暗殺より一箇月あまり経った永正四年(一五〇七)八月一日、遊初軒に澄之を攻めた。また細川高国は薬師寺長忠を、細川政賢は香西又六をそれぞれ攻撃した。細川澄元や三好筑前も近江より逆襲に転じ、澄之派を攻撃した。
もし澄之が武家の出であれば、かかる危急に際して実家の援軍が期待できたはずだったが、九条は公家ゆえにそんなものは持たなかった。
「澄之は公家出身で力量に乏しい」
これがはからずも証明されてしまったのである。
味方のいない澄之方は遊初軒でひとかたまりになって防戦に当たったが敗北は時間の問題であった。
「このまま遊初軒に踏みとどまっていても全滅を待つばかりで策なきに等しい。嵐山まで退いて後日を期すべきと考えるがどうか」
澄之が波々伯部盛郷に諮問すると、盛郷はこれに反対してかく述べ立てた。
「いま、先代より承りしこの屋敷を捨てて退けば、澄之は力量に乏しいとの誹りを自ら認めたも同じ。我ら死闘いたしますゆえ、ともに最後まで踏みとどまって怨敵を打ち払い、力量十分なるを世に証明いたしましょうぞ」
これには澄之も反対しづらく、盛郷の言葉に縛られた澄之勢は飽くまで遊初軒に踏みとどまりそこで全滅。澄之は盛郷の介錯で腹を切って果てる仕儀と相成った。辞世かくの如し。
梓弓はりて心は強けれど
引手すくなき身とぞなりぬる
なお波々伯部盛郷といえば、薬師寺元一と共に阿波に渡って六郎澄元養子の件を慈雲院に申し入れた人物でもある。一説によると盛郷は、澄之を滅亡に追い込むため、敢えて遊初軒に踏みとどまるよう進言したともされている。細川に血縁のない澄之が家督を継承することに、強い拒否反応を示す家臣は多く、盛郷もそのひとりだったようだ。
政元が死んで京都が混乱の巷に陥っている最中、朝廷の政治姿勢に大きな変化があった。内裏に小屋を設け、戦乱から逃げ惑う人々を受け容れたのである。
それまではなにをするにしても幕府頼み、民百姓が焼け出されようが知った話ではないと言わんばかりの朝廷だったが、いよいよ頼みの幕府が機能不全に陥り、それどころか無用の戦乱まで惹起して、民衆に危険を及ぼす存在となり果てたとみるや、にわかに往古の執政者としての自覚を取り戻して内裏を開放し、自ら民衆保護に乗り出したのである。
この後、義尹の上洛によって幕府は一時的に安定するが、幕府頼みのメンタリティから一度脱却した朝廷が、以前のように幕府べったりに戻ることはもう二度となかった。
幕府は確実に、その歴史的使命を終えつつあった。




