第九話 永正之錯亂(三)
細川政元の最期については、これまでもたびたび引用してきた『細川大心院記』に活写されている。これは軍記物であるが、事件直後に細川京兆家関係者の手によって成立したものらしくその記述は生々しい。これによれば政元の最期は
(前略)御湯カタヒラ参スルカケヨリ小
太刀ニテ二太刀マテ切マイラセケレハ御
手ニテアハセ給フト見ヘテ御ウ手ヲ二太
刀切マイラセ取ナヲシテ御ソハ腹ヲツキ
タテマツリハ子コロハシ進ラセテ御首ヲ
ソカヒタリケル御足ノウラマテカキ奉リ
(後略)
(湯帷子を進上する掛け物の影から小太
刀で二太刀斬りつければ、手で防ごう
としたらしく腕に二箇所の切り傷があ
り、 (小太刀を)取り直して脇腹を突
き、はね転ばせたうえで首をかいた。足
の裏まで切った)
このような状況だったと記されている。
下手人の三名についてはその後の消息が分かっておらず(事件後間もなく香西兄弟の宿所に逃げ込み、口封じのためにそこで殺された蓋然性が極めて高い)事件の目撃者は皆無。したがってこれは、政元の遺体を検分した上で事件を再現した記述ということになろう。
記述の順番から、どうしても
「首を刎ねられた後に足の裏を切られた」
と読んでしまいがちだが、そんな無意味な死体損壊行為をしている余裕は暗殺者たちにはなかったはずだ。脇腹を突かれ転倒した政元は、恐らく仰向けになりながらも足蹴にするなどしてなおも激しく抵抗したのではあるまいか。足底部は、その攻防で傷つけられたものと考えられる。
ここまではっきりしている政元の死を描くにあたり、定説をとらず空を舞ったように描いたのは、なにも政元を冒涜しようというのではない。
いくら中世が非科学の時代だったからといっても、空を飛べると本気で信じていた人間はほとんどいなかっただろう。
合理的に考えれば、政元が修行のために重ねた努力は全部無駄だったのであり、時間も労力も、他の事業(たとえば異性との関係構築、血の繋がった後継者の育成)に費やした方がよほど有意義だったということになる。
当時の政元に対して
「どうせ飛べるはずなんかないのだから、領国経営と子作りに注力したらどうだ」
このように諫言した者が皆無だったとも思えない。
そのうえで政元は、なお修行をやめなかったのである。
これまで何度も繰り返してきたとおり、政元の修験道に対する熱意は並大抵のものではなかった。いくら男色で発散することが出来たといっても、異性に対する性欲を抑えるには相当の困難を伴ったはずだ。それでも政元は、後継者問題を引き起こしてしまうほど高いレベルで女犯の禁を貫き通したわけだから、その決意と信仰の度合いは、そこらの大名が、主に利害関係から特定の宗派に肩入れしたのとは同質視できないほど強烈だった。
これほどまでに強い信仰を封圧した上で、
「さあすべての力を領国経営と子作りに注ぎなさい」
などといってもきっと上手くいかなかっただろう。
それはたとえば
「休みなんか取らずに日夜働き続けろ」
と言っているのと同じなのである。こんなことをすれば、生産性が向上したとしても一時的なものに終わり、早々に破綻してしまうだろう。
思うに、人間がすべて合理的に行動するのであればこれほど無味乾燥なことはない。どれだけ理性的に見える人間であっても、非合理な情念に基づいて行動することがあり、それが時として歴史を動かしてしまうことがある。
政元の修験道への傾斜はその最たる例である。
本作の作風からすれば奇異の感を否めないであろう政元の最期は、万難を排して信仰を貫き通した政元に対する、私なりの敬意の表れと解釈していただきたい。
余談はこれくらいにしておこう。
さて先ほど少し触れたが、下手人の三名は遊初軒を逐電してすぐさま孫六彦六兄弟の宿所を目指した。邸内に迎え入れられた三名は討ち取った政元の首を兄弟に披露したが、下されたのは褒美ではなく口封じの刃であった。
「おのれ香西兄弟、謀ったな!」
「許すまじ香西兄弟!」
呪詛の言葉さえ喚き終わらぬうちに首を刎ねられた近習三名こそ哀れ。
さて兄弟はさっそく嵐山城の又六に使いを飛ばし、政元殺害の責を澄元に負わせ
「澄元が屋形を殺した。如何致そう」
と虚実ない交ぜの伺いを立てると、又六は病いまだ本復に至っていなかったが、輿に座乗し道中味方を加えながら、翌朝には洛中に入った。三千の大軍を率いていたと言われている。
口々に
「謀叛人澄元を殺せ!」
と呼号して澄元の宿所に迫る香西の大軍。
面食らったのは澄元だ。
「謀叛人とは何のことだ。いったい何が起こっている」
テレビやインターネットのようなメディアがなかった時代だから、澄元は翌朝時点でもまだ政元が死んだことを知らなかったかもしれない。
しかし市中に流れている噂を収集したところによると、政元は昨晩遊初軒において殺され、その下手人はどうやら澄元とみなされているらしい。
「こうなったらここで一戦交えるしかございません」
青ざめながら覚悟を促す三好筑前。
迫り来る敵の本当の目的は政元の仇討ちではなく澄元殺害であった。冤罪を主張しても、犯人の究明が目的ではないのだから言い訳するだけ無駄である。
澄元一派は押し寄せてきた香西兄弟や香川満景、安富元顕らの軍勢を迎えて勇戦したがいかんせん多勢に無勢。
「ここは、ここはもう支えきれません。落ち延びて再起を期しやしょう」
さすが歴戦の三好筑前、形勢不利とみるや拠点を捨てるに躊躇なく、命あっての物種と言わんばかりに近江国は甲賀郡を目指して落ち延びていった。山中為俊を頼ったというが、知己の間柄だったのだろうか。
互いに恨み重なる阿波勢と讃岐勢の激突だっただけあってこの戦いは熾烈を極めた。その証拠に、この企ての中心人物である香西兄弟のうち彦六元能は討死、孫六元秋も勇戦奮闘のうちに負傷し、翌日死亡している。相当の激戦だったことが偲ばれる。
さて政元近習の波々伯部源二郎は、竹田孫七に斬り掛かられて負傷していたが、それでもこの合戦に参加している。
『九郎澄之物語』に記された最期は次のようなものだ。
はうかへの源二郎といふ人は、これもま
さもとのめをかけたまいしひくわんな
り。まさ本の御しやうかひおりふし、
たゝ一人ありてたゝかひけるが、大事の
ておひて、あくる廿四日のかつせんにこ
しにていてゝ、うちしにしけるなり
(波々伯部源二郎という人は、政元が目
をかけていた被官である。政元が殺され
たとき、ただ一人戦ったが傷を負い、二
十四日の合戦には輿に乗って出たが討死
した)
享年十七だったという。死を惜しまれた様子が行間から伝わってくる。
ともかくも邪魔な阿波勢を駆逐した香西又六は、丹波より主君澄之を迎えた。将軍義澄は澄之に御内書を与え京兆家家督の継承を認め、ここに又六は宿願を遂げたのであった。




