第六話 丹後之陣
(どいつもこいつも、俺の邪魔ばかりする)
遠く遡ればまず母親からしてそうだった。
「天狗になどなれるはずがございませぬ。そんなことより早う跡取りを」
このようにせがむこと一再ではなく、あまりにうるさいので分家から養子を取ったら
「そんなに若いのに実子を諦めていかがなさるおつもりじゃ」
と、誰よりも強く反対したのが母親だった。
延徳三年(一四九一)には念願の奥州下向の目処が立ち、いよいよ出立というときになって、重臣安富元家らが
「御身に何かあっては一大事」
と引き留めてきた。
仕方がないので九条家より養子を迎え嫡子となし、いよいよ満を持して奥州に旅立ったと思ったら越後まで到達したところで
「六角討伐を開始したから戻ってこい」
との義尹からのお達し。
義澄治世において何度か出奔を試みたのは、義澄との間に埋めがたい溝があったからだが、もしかなうことならそのまま本当に出家してしまい、奥州に下向してしまいたいとさえ考えていた。
義澄が出奔するのは単なるこけおどし、ハッタリの類いにすぎなかったが、政元は半ば本気であった。
これまで周囲の人間は、やれ後継者がどうとか管領の職がどうとか言っては政元を引き留めたが、澄之、澄元両名がいるわけだから、もう後継者不在を理由に修行の旅を引き留められる謂われはない。
しかし周囲の人間はそれでもなお政元を引き留めようとした。
「行かれるなら跡継ぎを決めてからになされ」
こんなことを言うのである。
「それは伝えるべき時が来たら書面によって伝える」
かく言い聞かせても
「使いの者が途中で難に遭えばいかがなさる」
だの
「直接面と向かって仰せ下さらなければ争いのもと」
だの
「そんな大事なことを書面で伝えなさるなど前代未聞」
だのと反対するばかりで、誰ひとりとして政元の意を汲もうという者がいない。今に始まった話ではないが……。
将軍義澄の慰留もあっていったん諦めた奥州下向だったが、政元は翌年(永正四年、一五〇七)三月、強引に奥州への旅に出立した。供に連れて行ったのは波々伯部源次郎、柳本又次郎、須知源太、横河彦五郎、井上又四郎、登阿弥のわずか六名だったとされる。
折しもこのころ、政元の盟友で若狭守護武田元信は、宿敵である丹後の一色義有と激しくやり合っている最中であった。政元は元信に請われ、澄之や薬師寺長忠、澄元や三好筑前(之長)らを丹後に派遣している。
この風雲急を告げる最中に奥州下向などと言い出されたら誰であっても驚き慌てるのは当然のことだろう。政元一行を追って若狭の山々に分け入ったのは薬師寺長忠、赤澤宗益、長塩弥五郎といった面々だったが、対面すらかなわず引き留めることが出来なかった。
ついで六郎澄元が三好筑前を連れ立って同じように説得に当たったがこれも不発。ついには丹後包囲陣の中心人物である武田元信その人自身が陣を離れ、政元の説得に当たらなければならなくなる始末であった。
「御帰陣なくんば丹後の陣は利を失います」
己が被官人相手ならともかく、一国一城の主が恥も外聞もなく頭を下げて頼み込んできたとあってはさすがの政元も無下には出来ない。ここにいたって政元は、ようやく丹後包囲陣に帰ることを了承したのだった。
旅装を解き、具足で身を固めたところで気付いたことがある。
往時はいくさ場で感じたあの特有の高揚感、生の輝きを、政元は今、感じることが出来なくなっていた。
丹後の一色など物の数にも入らないからだろうか。
丹後の陣が細川にとってほぼ無意味だからだろうか。
そのいずれでもないだろうと思う。
(きっと俗人の域を脱しつつあるのだ)
俗人なればこそ死を恐れ、その裏返しとして生が輝いて見えるのだ。既に政元は三十有余年にわたり経を読み陀羅尼を唱え、その間女犯の禁を貫き通し精進潔斎を欠かさない半俗半聖の生活を送っていた。
今をさかのぼること十四年前、明応の政変の折に感じた高揚感を今は感じないということは、その分だけ政元は、俗人の領域から離れ、別次元に達しようとしている証拠のように、政元には思われた。
丹後の陣は苛烈を極めた。
赤澤宗益は出陣に先立ち政元より太刀を拝領して大いに面目を施し、内堀次郎左衛門や荻野十郎といった与力およそ三〇〇騎ばかりを引率して成相寺に着陣。ここは一色義有の立て籠もる阿弥陀ヶ峰城よりわずか四~五町(約四四〇メートルから五五〇メートル)しか離れていない要衝であった。
香西又六の弟孫六元秋、彦六元能、心珠院宗純蔵主らは丹波勢を率い、丹後国人石川勘解由左衛門尉直経の籠もる加悦城を約一万五千の大軍で包囲。
しかし丹波勢のなかにあるべき又六元長の姿は見えなかった。折悪しく病を得、嵐山城に逼塞を余儀なくされていたのだとされている。
丹後の陣自体は、細川家にとって同盟国である武田元信への義理立て以上の戦略的意味はなかったが、それでも澄之、澄元それぞれの被官人たちは、自分たちの働き如何で後継者が決まると思っているから、脇目も振らず必死に攻め掛かる。
しかし攻める細川方が必死なら、逃げる場所がなく文字どおり背水の陣の一色勢はもっと必死だった。
五月に入ると阿弥陀ヶ峰城に籠もる丹後守護代永延修理進春信が、梅雨の大雨に紛れて武田方の逸見駿河守陣中に襲いかかり、駿河守本人に傷を負わせるほどの打撃を与えて、逸見勢を追い払っている。
政元も愚かではないから、細川のためにならぬ丹後のいくさで、被官人どもが目の色変えて戦っている理由などお見通しだった。
(これ以上ここに在陣してもためにならぬ。被官にとってもわしにとっても……)
せっかく引き戻されて帰陣した政元だったが、五月下旬には丹後を離れ帰洛することとした。
これ以上囲んでも城は落ちないだろうし、自分が在陣していることで被官人が下手に発奮して犠牲者が出ても、補償など出来ないのだから、ここに居続けるよりは、帰った方がはるかに合理的だ。
このように判断した結果であった。
政元は赤澤宗益を阿弥陀ヶ峰城包囲陣に、香西孫六らを加悦城包囲陣にそれぞれ残して帰洛し、澄之、澄元もこれに従った。
香西孫六などは、政元の帰国を知ってあからさまに戦意を喪失し、これまでさんざん痛めつけてきた加悦城城主石川直経と相語らって
「和睦し包囲を解くが、城は落ちたということにしてほしい」
と持ちかけたらしい。
もとより石川も無益な戦いは望むところではなかったのでこれに応じている。加悦城はじっさいには落ちていなかったが落ちたことにされた。
丹後に在陣する細川勢は、赤澤宗益だけになってしまった。




