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政元地獄變!  作者: pip-erekiban
最終章 永正之錯亂
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第五話 政元山科本願寺訪問之次第

 政元が奥州下向を言い出したのは永正三年(一五〇六)七月のことであった。

(またか……)

 みな口には出さないが、うんざりしている様子がありありと見て取れる。ひとり政元本人だけが

「既に後継者は決しておる。人選はおって沙汰いたすゆえ、わしは年来の夢である修行の旅に出る。なにかあれば天狗のように空を飛んで帰ってくるだろう。安心いたせ」

 上機嫌だった。

 奥州下向に先立って政元は山科本願寺に入っている。当時政元は本願寺勢力との結びつきを強めている最中であった。この前年には香西又六が山城に半済を賦課し、反発した山科郷民と合戦に及んでいる。これを止めたのが山科本願寺を訪れていた政元だった。

 政元の山科本願寺訪問と、又六による山科攻撃のタイミングが合致したのは恐らく偶然ではない。当時、京兆家の家督をめぐって疑心暗鬼に陥っていた又六が、政元の山科本願寺訪問を見計らって因縁の山科郷民に難題をふっかけ、政元の眼前で威嚇混じりの放火狼藉に及んだというが事件の真相だろう。

 また政元は永正三年正月には、共同して細川家に楯突いてきた両畠山と戦うために河内国内の門徒動員を本願寺に依頼している。教線を急激に拡大させ、地侍を含めた民衆層にまで信者を拡大させていた本願寺勢力に、政元は着目していたのである。

 これらの事実をもって、永正三年七月の本願寺訪問を

「本願寺との結びつきを更に強化するために、政元が修行にかこつけて訪問したのだ」

 とする見方もあるようだが、しかしこの時の訪問はそんな陰謀めいた話ではなく、ただ単純に、これから旅立つに際して、政元が、知己の場所に立ち寄っただけのように思われてならないのである。

 政元の修験道への傾斜を

「全国を歩き回って修行している山伏の情報網を戦略的に利用するため」

 などと分析する向きもあるが過大評価だろう。そこまで実利的な人物であれば、後継者問題に支障を来すほど修行にのめり込むはずがない。空を飛ぶために生涯女犯の禁を貫き通したくらいだから、信仰への傾倒は半端ではなかったはずだ。

 もしこの時の本願寺訪問に戦略的な意義を見出すとしたら

「俺は今から修行に旅に出るから、家のことはよろしく」

 程度の話だったと思われる。

 そんな政元に横槍を入れる者がいた。誰かと思えば将軍義澄である。

「そなたが京都を離れたらいったい誰が余を守るのじゃ。辞めるなら跡継ぎを誰にするか決めてからにしてもらおう」

 明応の政変のころには御台日野富子の号令に従い、こぞって義澄(当時は清晃せいこう)のもとに参集した番衆(奉公衆)も、いまやそのほとんどが日々の暮らしに汲々としており、将軍御所の勤番を果たすどころの話ではなくなっていた。

 武士が主君に忠節を尽くすのは主君から御恩が下されるからだ。御恩が下されなくなり生活が保障されなくなれば、自分自身が日々を生きるのに精一杯になってしまい、奉公どころの話ではなくなってしまうのはものの道理というべきであった。

 沈む泥船から人々が逃げていくのたとえどおり、財に乏しい義澄の元からは、櫛の歯を引くように人々が離れていった。その結果、義澄はますます政元への依存を強めていったのであった。

 ちなみに当時、新帝(後柏原天皇)即位から既に六年が経過していたが、即位式典は未だ執行できていなかった。朝廷は義澄に対し式典挙行を催促し、義澄はそれに応じるべく政元に費用拠出を求めること頻りであったが、いっぽうで義澄は、この永正三年三月に改めて寺社本所領押領の停止を通達している。これもまた朝廷の依頼に従って下した命令と考えられるが、荘園押領が恩賞代わりになっていた政元やその被官人からしてみれば、到底受け容れられない命令であった。

「早く天皇の即位式典を挙行せよ。でも荘園押領で金儲けすることはまかりならん」

 これでは手足を縛られたあげく泳げといわれているようなものだ。

 もっとも、政元はこれまで被官人による荘園押領を事実上黙認してきたうえに、即位式典を挙行してこなかったのだから、これからもどうせやらないに決まっている。また荘園押領で得た銭は、ほんらい廷臣の正当な報酬になるはずだった銭だ。犯罪収益そのものであり、朝廷の式典に供するにそぐわない代物であった(第二章『流轉之將軍』第五話『政元犬追物御挙行之次第』参照)。

 政元にも即位式典を執行できるほどの財力はなく、あったとしてもその銭は使えないわけだから、義澄からしてみれば、せめて荘園押領くらいは止めてもらわなければ困るということになる。

 政元が奥州下向を言い出したのは押領停止命令から四ヶ月後のことだった。義澄から下された相反する命令に、いよいよ嫌気が指したという側面もあったと思われる。

 これまでなにかと厭世的な立ち振る舞いを見せてきた政元が、それでもなんとか俗世とのつながりを保ってきたのは、後嗣問題に目処が立っていなかったからだ。しかしいまや政元の肚は固まっていた。未だ家中に広く告知こそしていなかったが、少なくとも政元にとって後継者問題は、既に解決済みの問題であった。

 いますぐ告知できなかったのは、そのとたん澄之と澄元、どちらかの勢力に殺されてしまう恐れがあったからだ。政元は、さっさと隠遁してしまい旅に出て、連中の手の届かないところに逃げおおせたうえで、人づてに後継者を伝達するつもりであった。

(もう俗世で果たすべき役割はすべて果たした。あとは自分の好きに生きて何が悪い)

 誰がこれを責められよう。

「ちょっと待て、隠遁するなら帝の即位式典を挙行してからにしろ」

 そんな声も聞こえてきそうだが、ほんらい三十ヵ国国役で分担したような式典を、京兆家分国数カ国で賄うなどどだい無理な相談であった。

 だから政元にとっては、出来ることはすべてやった上での隠遁であった。この上さらに諸国遍歴して情報収集にかけずり回るなど、考えてもいなかっただろう。

 もとより政元と反りが合わなかった義澄のことだから、政元が隠遁すること自体に異存はない。それでは政元の跡を継いで自分の庇護者になるべきは澄之なのか澄元なのか。

 それをはっきりさせてから京都を離れろというのであった。同様の指摘は朝廷や有力被官人からもあったものと思われる。

 周囲の猛烈な反対にあって、政元の隠遁計画はまたも水泡に帰してしまったのであった。

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