第十八話 薬師寺元一挙兵之次第(二)
使番が飛んできては時々刻々と戦況を伝える。
「西岡神足城に四宮長能、額田宗朝入城」
両名とも元一の与力だ。
先の大乱(応仁の乱)でも西岡(京都府長岡京市)は、西国から続々参集する西軍の入京を阻む前線基地だった。そんな要衝が元一の管轄区域に入っており瞬時に乗っ取られたわけだから、政元はなんとも迂闊であった。
「いそぎ安富元治、上野玄蕃を西岡に派遣せよ」
即座に対応を指示する。
そんな政元をことのほか怒らせたのが
「赤澤宗益挙兵」
この報せだった。
「あの恩知らずが!」
前述のとおり宗益は、信濃における本拠地塩崎を失陥して京都に流れついた他国者だった。当時まだ将軍職にあった義尹に対し弓馬の技を披露することで糊口を凌いでいた宗益を高禄で召し抱えたのは他ならぬ政元であった。宗益の優れた武的力量を政元が利用してきた側面もあったものの、その望みどおり大和切り取りを許容してもきた。政元にとっては諸刃の剣だったにもかかわらず、である。
悪い報せは続く。
「市街に徳政一揆蜂起の気配これあり」
義尹上洛の風聞と相俟って政変を期待する人々が、示し合わせて蜂起する気配を漂わせていた。謀反鎮圧に手一杯のところに持ってきて土民蜂起に見舞われてはたまったものではない。
更に続いたのは
「阿波国撫養に軍船多数参集しつつあり」
との報せであった。
撫養は淡路に至る阿波の要港だ。ここに軍船が参集しているということは、阿波守護家が兵を動かす予兆に他ならなかったが、少なくとも政元は慈雲院に援軍を要請していないし、また慈雲院から援軍を派遣するという話も聞いてはいなかった。元一を唆して挙兵させ、元一を尖兵に六郎を上陸させてそのまま京兆家を乗っ取ってしまう算段と思われる。証拠はなかったが何の連絡もない以上、その可能性を考えておかねばならなかった。本来であればやらなくてもいい余計な仕事というべきであった。
時を同じくして
「畠山尚慶挙兵」
の報ももたらされた。
ことあるごとに尚慶が挙兵するのは、現代でいえば野党が会期末に内閣不信任案を提出するのと同じくらいお馴染みの恒例行事であって驚くに値しないことだった。しかし尚慶の挙兵を軽く聞き流すことが出来たのは、宇治に宗益がいてこれに対処してくれていたからだ。今回はその宗益までもが政元に叛旗を翻していた。恒例行事のような尚慶の挙兵でさえ、下手をすれば政元にとって致命傷になりかねなかった。
もたついている暇は寸刻もなかった。元一が、慈雲院や畠山尚慶と事前に相語らって挙兵したものかどうか、今となっては分からなかったが、真相がどうあれ政元は、阿波守護家や尚慶の挙兵を無力化するために、一刻も早く元一を鎮圧しなければならなかった。
九月九日、西岡で政元方と元一方が激突した。この戦いは元一方に軍配が上がり、翌日には敗残の安富元治が討ち取られている。
謀反鎮圧どころの話ではなく、政元は死を覚悟したかもしれない。
そんなところへ二人。一人は薬師寺長忠。謀叛人元一の弟だったが、摂津守護代を兄と折半しており元一とは潜在的な政敵だった。
「兄貴の首は俺が洗ってやる」
とばかりに西岡に出陣し、元一と激しくやり合った。
いまひとりは香西元長。元長と元一はほとんど同年代。いずれも澄之の供廻りに付けられていた京兆家有力内衆だったが、元長は飽くまで澄之に忠節を尽くし、元一は摂津防衛に不安を覚えてこれを見限り、袂を分かった経緯があった。
加えて元長はほんらい讃岐武士団の出身であり、たびたび利害が衝突することのあった阿波武士団とはもともと反りが合わない。元一に先導されて六郎が阿波武士団ともども上陸してきたら澄之の地歩が危うくなるわけだから、元長はなんとしても元一を倒さなければならなかった。
「俺に任せて下さい」
元長がそのように求めると、政元は藁にもすがる思いで元長に兵権を渡した。元長はさっそく半済を実施すると、徳政と号して折から参集しつつあった土民どもさえをも戦力として糾合することに成功する。応仁の乱以来常套手段と化していた半済徴収のカードをここぞというところで切った形だ。これによって京都の南に巨大な香西元長軍団が出現することとなった。
ちなみに政元はこの時、徳政一揆に屈してこれを認めている。諸敵が蜂起するなか、足元の火が燃え広がるのを未然に防ぐために妥協を余儀なくされたのである。しかし一方では元長がこれら土民の戦力化に成功したわけだから、禍転じて福となしたのであった。
元長は急遽編成した足軽を率いて西岡で連日元一と激突した。元一与力の四宮や額田は討死。元一は捕らえられ京都舟橋の一元院に護送された。その名が示唆しているとおり、これは元一が建立した寺であった。
この日あるを知って建立した寺でもあるまいに、それへ護送した所以は、かつての寵童に対するせめてもの情けか、はたまた皮肉の仕打ちか。
ともかくも元一渾身の挙兵は、わずか十七日で鎮圧される仕儀と相なった。
なお畠山尚慶は和泉を、慈雲院被官三好之長は淡路をそれぞれ攻撃しているが、攻勢の切っ先が政元に届く前に乱は鎮圧され、攻勢は頓挫している。世上では
「尚慶と三好の動きが遅かったから元一が敗れたのだ」
とする評もあったらしいが、両名の動きがことさら遅かったというよりは香西元長と薬師寺長忠の素早い対処こそ讃えられるべきであろう。
元一方は被官数百名が討たれ、実検に供された首は百十四級にも及んだとされる。
切腹が武士の儀礼と化すのはもう少し後の時代のことだが、このころにはもうその萌芽が芽生えていたものと思われる。政元は元一に切腹を命じた。斬首を避けたのは、これもまたかつての寵童に対するせめてもの情けだろうか。
元一の辞世が残る。
地獄にハよき我主のあるやとて
今日おもひたつ旅衣かな
この辞世を政元に届けるにあたり元一は
「我主の部分は若衆と読み替えよ」
と言い含めたとされる。
男色をもっぱらとする政元に対し
「地獄にもいい若衆がいるらしいから、お前も早く来い」
というほどの意味である。
元一は
「皆々知っているとおり俺は一文字を好む。仮名は与一、実名は元一。この寺にも一元院と名付けた。されば腹も一文字に切るべし」
と言い残し、一文字腹にかっ切って果てたと伝わる。
『足利季世記』は元一の人となりを
此人一文字不通ノ愚人ナレトモ天性正直
ニシテ理非分明ナリケレハ細川一家ノト
モカラ皆是レヲ賞翫シケル
としており、また『細川両家記』ではその死に際して
上下萬民をしなべて皆涙をぞ流しける
と記している。
一本気なところが賞され、無念の死を惜しまれた様子がうかがえる。




