第十六話 畠山義豊御討死之次第
ここで両畠山の動向に眼を向けておかねばなるまい。
政変によって紀伊に逃れた尚慶は、赤松政則や畠山義豊の攻勢をしのいで、南近畿に勢力を保持していた。政変の主要メンバーだった細川政元や伊勢貞宗貞陸父子などは、変後はまるで尚慶の存在など忘れてしまったように、己が利益獲得に狂奔するばかりだった。尚慶を倒そうと躍起になっていたのは、永遠のライバル義豊くらいなものであった。
政変では政長尚慶父子を主敵とした政元ですら尚慶討伐に消極的だったのは、畠山の御家騒動を長引かせて、再統一を妨げようと目論んでいたからにほかならない。伊勢貞陸に至っては、かつて味方だったはずの義豊と南山城をめぐって競合する有様だったから、協働して尚慶にとどめを刺すどころの話ではなかった。
こういった各勢力の思惑にも助けられ、辛くも生き伸びた尚慶は次第に勢力を回復し、義豊と一進一退の攻防を繰り広げることとなる。両者の抗争は膠着状態に陥った。
きっかけは些細なこと、本当に些細な出来事が破綻のきっかけとなった。義豊の被官だった遊佐と誉田の間で、水利権をめぐる百姓同士の争いが起こったのである。
争ったそれぞれの村が、かたや遊佐、こなた誉田の被官人だったのだろう、争論は百姓レベルに止まらず、あれよあれよという間に各々の主人である遊佐と誉田のところに持ち込まれることとなった。
たかが百姓同士の水争いと馬鹿にするなかれ。主人に人々が従うのは、自分の権利を守ってもらうためだ。争いが嫌だからと相手に権利を譲ってしまえば、
「いまのご主人様に従っていても権利を守ってもらえない」
とばかりに求心力を失い、被官人から見棄てられるわけだから、泣きつかれた主人の側も必死だった。このような争いに際しては、血を見るような抗争も辞さない強硬姿勢で臨む必要があった。たとえ同じ義豊の被官同士であっても、譲れない一線があった。
義豊としては公平に裁定して、御屋形様としてのリーダーシップを発揮したいところだったがかなわなかった。しかし、この裁定失敗をもって義豊の政治力不足を難じるのはちょっと酷かもしれない。
百姓同士の水争いは江戸時代に至るまで枚挙に暇がなく(人間生活がそこにある以上、現代日本でも発生するおそれはある。知らないだけで、いまもどこかで発生しているかもしれない。灌漑用水をめぐる国際紛争も水争いである)、為政者の悩みの種であり続けたからである。現場レベルで解決可能というならそもそも争論になっていない。解決できないから領主の元に訴訟が持ち込まれるのである。その時点で既に解決困難な事態に発展しているということに他ならぬ。
争いの激化を、ひとり義豊の無能に帰するには無理があろう。
ともかくも義豊の家中は、騒動によって一枚岩といえない不和に陥ってしまった。尚慶はこのチャンスを見逃さず、明応六年(一四九七)九月、河内に出兵して義豊方を大いに破り、余勢を駆って和泉、大和まで進出した。
一度は衰亡の危機に瀕した尚慶が、百姓同士の水争いにつけ込むかたちで近畿の一大勢力になったのだった。義豊はこの大敗をきっかけにずるずると後退を余儀なくされ、同年十月には高屋城を失い、翌年八月には逃げ込んだ先の山城木津までをも尚慶に襲われ、敗退している。
ちなみに政元が倉川兵庫助経由で義尹との和睦に応じかけたのはこのころのことだ。南で蓋の役割を果たしていた義豊が倒されつつあり、北では義尹一派が虎視眈々と京都を狙っていたわけだから、挟撃という最悪の事態を避けるためにも和睦することは有力な選択肢のひとつだったが、前述のとおりこの交渉は破綻している。
ここで政元が義豊にテコ入れしたものかどうかは分からないが、明応八年(一四九九)正月、瀕死の義豊が反撃に出た。尚慶方の野崎、嶽山といった諸城を陥れ、要衝河内十七箇所に着陣したのである。
河内十七箇所は、その名が示すとおり荘園の集中地帯であり、畿内における一大人口密集地だった。いくら広大な土地を支配していたとしても、そこが茫漠たる曠野で人っ子ひとり住んでいなかったとしたら意味がない。課税対象として見た場合、人間こそ資源であった。当代のように貨幣経済が進展していた時代とあってはなおさらだった。人や銭といった、いくさに必要な資源を獲得するためにも、河内十七箇所のような人口集住地帯は無視できない要衝だったのである。
しかし反撃の勢いもここまでだった。義豊同様、当地の重要性を知悉している尚慶との間で合戦になり、義豊はこの合戦で討ち死にを遂げたのである。
時に明応八年正月三十日。父政長の敵討ちを遂げた尚慶の得意が目に浮かぶようだ。
しかし戦後、この要地を支配したのは尚慶ではなく政元だった。この日のために飼い慣らしておいた信濃出身の驍将赤澤宗益を当地に投入してきたのである。
二月二日、宗益は幕府に対して猿楽を勧進している。これは河内十七箇所のような要地の代官に任じられた謝意表明であるとともに、実入りを誇示するための猿楽興行だったとするのは穿ちすぎか。
どさくさ紛れに要地を確保した政元だったが、義豊という緩衝地帯が失われたことに違いはない。ついに尚慶と直接接するようになったのである。
尚慶大勝、義豊戦死の報に俄然沸いたのは越前の義尹一派であった。
「これぞ千載一遇の好機!」
「左様、貞景殿にはさっそく重い腰を上げていただかねばならん!」
挙兵を促す声あまた。
ところが、ところが……である。
このころ、安波賀含蔵寺から更に移った先の越前国府を出た木阿弥は、一乗谷の守護館に至る道中、のたれ死んでいる遺体を幾柱も目にすることとなった。遺体はどれも痩せ細っていた。
いよいよ一乗谷の下城戸をくぐろうとしたとき、あれだけ盛んだった炊事の煙がひと筋たりとも上がっていないことに気付く木阿弥。飢饉が、越前を襲っていたのだった。
下城戸をくぐったあとも、外より小マシというだけで、やはりちらほらと痩せ細った飢餓遺体が転がっているの惨状。
かくのごとく領内を緊急事態が襲っている折とあっては、いくら木阿弥が
「好機到来、大樹御為に馳走なされ、無二の忠節をお示しあれ」
などと上洛を促したところで、苦虫を噛み潰したような表情の貞景から
「折を見て挙兵いたしますよってにいま少し待たれい」
という実質的な「ゼロ回答」を得るのがやっとであった。
木阿弥は貞景から
「なにが挙兵だ、いい加減にしろ!」
と大喝されても文句は言えなかったが、その憂き目を見なかっただけでも良しとしなければならなかった。それほど越前の国情は悲惨だった。
(上洛など、もういいではないか)
木阿弥からの復命を得て、そんな言葉がつい口を衝いて出そうになる義尹。寄寓させてもらっているだけでもありがたいと思わねばならなかった。




